ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第211号 ご訪問、有難うございました。

2007年12月29日 | 我が家のもろもろ

師走も大詰めを迎え、残り2日となりました。
本年も多くの方のご訪問を頂きまして、有難うございました。
心からお礼を申し上げます。
           
お蔭様で200号を突破はしましたが、内容的にはまだまだ初心者ブログ。
これからも、皆様の温かいご声援をお願い致します。

どうぞお元気で、希望あふれる素晴らしい年を迎えられますように。
光り輝く夜景の町・函館から祈っております。

                      ミカエル家 


第210号 寂しくなった歳の市

2007年12月27日 | 町の話題

所在地=函館市松風町グリーンプラザ

(写真をクリックすると拡大できます。)
 

正月の縁起物”まゆ玉”を求めに湯の川の歳の市へ出かけた。
昨年は3店が営業していたが今年は1店。
あまりの寂しさに大門地区へ車を走らせた。
この地区は、昭和50年代までは、市内最大の繁華街。
以降は五稜郭地区へその座を譲った。
当時は、歳の市も多く出ていて、買い物客でごった返し、駆け引きの声が飛び交っていた。

久しぶりの大門歳の市は?な、なんと3店。がっかりした。
端の店に入り、品定めをしながら女性店主に聞いてみた。
「前は、20店ほどあってそりゃー賑やかだったさ。神棚を売る店、花を売る店もあってさ。今じゃ、ホームセンターやスーパーでも売っているし、飾らない家も多いからねー。この商売、いつまで続けられるかねー」と、微笑みながら答えてくれた。
値段は昨年並みで、事業所玄関の大きなしめ飾りは15,000円。
家庭用は2,000円前後の製品が売れ筋という。

買い求めた”まゆ玉”を車まで運んでくれた。
「また、来年も買いに来て下さい・・・お客さん、良い年を迎えてね」
「有難う。来年も来るから店を出していてね」
会釈をし、小雪舞い散る師走の町を家へと向った。

                    ミカエル


第209号 修道院のミサに参加

2007年12月25日 | 我が家のもろもろ

昨夜はクリスマスイブ。
皆さんはどのように過ごされましたか?
楽しい夜、幸せな夜でしたか?
私は、函館の観光名所になっている女子修道院(厳律シトー会・天使の聖母トラピスチヌ修道院=函館市上湯川町)で行われたミサに出かけました。

(写真をクリックすると拡大できます。)
 

このミサは”主の降誕を祝う”もので、夜半と朝の2回行われ、各20名の枠で参加者を募ったもの。
指定された24日23時45分に院の駐車場に集合、内部へと案内されました。
初めて入る修道院は、床がフローリング、壁と天井は白系で統一されたシンプルな内装。私達は礼拝堂へは入れず、祭壇と司祭だけが見える横の小部屋に通され、修道女の姿は見えない位置でした。
参加者の殆どがシルバー世代で、男女の比率は半々ほど。

25日の午前0時丁度にミサは開始。
シーンとした空気の中、高い天井に響く修道女の美しい聖歌、よくとおる司祭の声。厳粛な90分があっという間に過ぎ、ミサは終了しました。
帰りに、修道女手作りのクリスマスプレゼント(温かい餡入り蒸し饅)を頂戴し、感謝、感謝です。

外へ出たら凍れる月が雪道を照らし、「ブルッ」と体が震えましたが、爽快感でいっぱい。
心が底から洗われたようになって、車を走らせました。

                      ミカエル  


第208号 誠の武士が北の大地に散った~土方歳三最期の一日(後編)

2007年12月22日 | 新撰組

20日、NHKからこの番組が放映され、大ファンの妻とともにテレビ前に正座した。
一週間前に放映された前編が終了すると、ブログで取り上げた土方、山本耕史さんファンが多く、この番組を待ち望んでいたのがよく分かった。
「待たせたな!」の冒頭の台詞に、納得したのは我が家だけではなかったようである。

(写真をクリックすると拡大できます。)
 

新撰組の発足時から、常に幹部として刀、槍の下を潜り抜け、硝煙の匂いを嗅ぎ、血を浴び、自らも負傷しながら戦ってきた副長・土方。
その戦闘心の根底にあるものは、徳川家、松平容保公への限りない忠誠心であったに違いない。
だからこそ、リーダーとして部下から信頼されてきた。
後編では、それが端的に表現され、信じきっている配下の心理がよく描き出されていた。

一方、蝦夷共和国の他の幹部達は、徳川幕府のエリート集団。机上倫理は立派に築かれている。
特に榎本は、官費でオランダ留学し、徳川幕府の期待を担っていた。
帰国してからは、外国の習慣、知識を日常生活に取り入れ、それを蝦夷地での戦闘中でも引きずっていた。
このように、蝦夷共和国の内閣では、彼は肌が合わず孤立していたのでは?という思いがしてならなかった。

辞世の句を現代風に訳した方がおられる。
「万が一、思いとは違って、蝦夷地で朽ちてしまっても、私の魂は将軍・慶喜公をきっとお守りするであろう」。
どこまでも忠義一本だったことがうかがえる。

 

45分があっという間に過ぎ、番組は終わった。
沈黙が解け、二人の顔には満足の微笑みが浮んできた。
「よかったね!」「コーヒーでも飲みますか!」。

例年、5月の第三土・日は”箱館五稜郭祭”。
土方歳三最期の地で、碑前祭が行われる。
太鼓隊、ラッパ隊、礼砲隊が整列、官軍指揮官が献花し慰霊する。
祥月命日には、我が家でも献花をしている。
「来年の花は、ちょっぴり豪華にしましようよ!」と、いうことになった。

北の大地に散った誠の武士・土方歳三。
多くの人の心の奥には、永遠に生き続けている。

                       ミカエル


第207号 五稜郭景色の明と暗~六花亭からの眺め

2007年12月20日 | 町の話題

名称=お菓子の六花亭五稜郭店
所在地=函館市五稜郭町27番5号

(写真をクリックすると拡大できます。)
 

昨日、友人宅へ持参するお土産を求めて、六花亭へ行きました。
レジの正面にある大窓から眺めた五稜郭は、まさに墨絵の世界。
一方、頭の片隅にあった春の鮮やかな桜の景色(右写真)が浮び、それらが重なり合ってしばらくぼんやり。
店員さんの「お待たせしました!」の声に、我に返りました。

寒さはこれからが本番。
自然界だってじっとガマン。
我々も花あふれる春を楽しみに、”厳しい冬を乗り切らねば”と感じさせられた風景でした。

                       ミカエル


第206号 サンタさんの強化合宿?~赤レンガ倉庫群

2007年12月16日 | 町の話題

所在地=函館市末広町14番
建物名称=金森倉庫

クリスマスイブまで残り1週間になりました。
倉庫の前海には、巨大なクリスマスツリーが飾られ、”はこだてクリスマスファンタジー”が真っ盛りです。
それと同時に、界隈ではプレゼント配りをするサンタクロースの強化合宿がスタート。
赤レンガの外壁によじのぼって、煙突に入る練習を繰り返します。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
昼食時、”イカ刺し定食”を味わいながら、チーフサンタにいろいろ話しをお聞きしました。
「ご苦労されていることは?」
「最近の住宅の煙突はとても細くなって、もぐりこむのに時間がかかりますね。我々も食事に気を配り、メタボ予防をしています。また、中国製のおもちゃが、子供たちに渡らないよう注意しています」

「来年も来てくれますか?」
「トナカイはガソリンで走るわけではないので、原油高は影響がありません。
しかし、飼料が高騰していますね。これはとうもろこしなどの一部が、バイオ燃料に回されているからです。あまり高くなると訪問できない状態になりますね。
それと、地球温暖化で氷河が少なくなっています。このためアイス街道があちこちで通行止め。トナカイが思うように走れないんですよ。来年の来函見通しは半々でしょうかねー」
 
「最後に、日本からのおみやげは何をお求めですか?」
「ずーっと、白い恋人、赤福、吉兆の料理でしたが、これらは信用を失ったようですね。今年からは食べ物ではなく、世界一美しい”函館夜景の絵葉書”にしますよ。本国でも人気がとても高いんですよ」。
長く伸びたひげをなでながら、にこやかに答えてくれました。
「そうですね。それが一番ですよ。さすがサンタさんはお目が高い」と私。

食後に、香り高い美鈴コーヒーを口に運び、体が温まったところで再び訓練開始。
港からの潮風が、少し強くなってきたようです。

                          ミカエル

 

 

 

 


第205号 沈黙!土方歳三最期の一日

2007年12月14日 | 新撰組

昨夜、NKK総合テレビで”土方歳三最期の一日(前編)”が放映されました。
これは、2004年大河ドラマ”新選組”が終了したあと、土方にスポットをあてて作られた特別版で、再放送を望む多くの声があり、これに応えた形になりました。

土方人気が高いのは、残されている写真の風貌とファッション。
伝えられている”竹を割ったような一本気な性格”も魅力の一因でしょうか。
それと、その役を見事にこなした山本耕史さんの演技とマスクも大きな理由です。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
このドラマの影響で、妻は大の”耕史さんファン”に。
耕史さんが函館で3回トークショーを開催、全ての入場整理券が当たりました。
加齢なる黄色い声を張り上げて”こうーじさーん”。傍にいた私は小さくなる一方。
そんな訳で、自称・新撰組応援隊の我が家では、待ちに待った番組。
開始時刻の8時迄に家事を済ませ、テレビの前に並びました。

懐かしいテーマ曲でスタート。
気分が盛り上がってきた反面、二人の沈黙は始まりました。
酒振る舞いがあった新撰組本陣は、石川啄木が代用教員をした現・弥生小学校のあたりにあったなー。

市村に託した写真は、箱館の写真師・田本研造が撮影したなー。その田本の顔が浮んできたり。

幹部達の酒宴会場になった武蔵野楼は、豊川町の赤レンガ旧郵便局あたりにあったなー。
三階建てで、屋上庭園もあった豪華な造り。現存すれば重要文化財だろうなー。

榎本の部屋は、五稜郭内の奉行所2階の太鼓櫓隣だったなー。
などなどの場面が次から次と浮んできました。

榎本が土方に言った「君は死に場所を求めている」の一言は、伝えられている彼の一面を実によく表現していました。

妻も山本耕史さんの45分フル出演に満足し「堪能しました」のひとこと。
三谷幸喜さんの、後編脚本テクニックがますます楽しみになった前編でした。
後編は20日、絶対ミルミル!

                         ミカエル 

 

 





 


第204号 リボンを結びに出かけませんか~地域交流センターへ

2007年12月12日 | 町の話題

会場=函館市地域交流まちづくりセンター(大正時代に建てられた旧丸井デパート)
所在地=函館市末広町4番19号
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
今月1日から始まった”はこだてクリスマスファンタジー”。
姉妹都市のカナダ・ハリファックス市からプレゼントされた20mほどのモミノ木。
ボランティアの方々の手で、これを電飾して海に浮べ、クリスマスツリーとして多くの方に感動を与えております。

もう1本寄贈された4mほどのモミノ木も、このセンターの1階ホールに飾られ、クリスマスムードを盛り上げています。
センターでは、
「皆さん、リボンを結びにいらして下さーい!」と呼びかけています。

”幸せを呼ぶ木”と伝えられるモミノ木に、あなたの大切な人へ想いを込めてリボンを結ぶものです。
その想いがこの木にやどり、つながっていきます。
リボンは家にあるもので十分。ない方のためにはセンターで用意しています。

メッセージもご希望でしたら、やはりセンターで用意している専用紙に記入して、ホールの掲示板にピンで留めることができます。
これまでのメッセージ数は100を超えました。。
あなたもリボンを結びに、お出かけになりませんか。
そして、ご家族や恋人へ、あなたからのきらめくメッセージも書いてみませんか。
皆の力で、クリスマスファンタジーを盛り上げましょう!
25日までお待ちしておりますよ。

                       ミカエル

 

 

 

 

 

 

 


第203号 函館山から伊能忠敬の第一歩

2007年12月10日 | 教会、寺院、神社、墓地、碑、像

江戸時代に精密な日本地図を作り上げた”伊能忠敬”。
蝦夷地の測量は、函館山頂上から始まった。
それは、この地図作成の測量第一歩でもあった。
記念すべきこの地を、後世に伝えようと函館市が昭和32年4月に展望ハウスの階段壁面にレリーフを取り付けた。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
伊能が箱館にやって来たのは1800(寛政12)年5月22日。56歳の時だった。
28日に箱館山山頂で測量・観測を開始、夜も晴天で観測を続行した。
当時の箱館は、山の麓、すなわち現在の西部地区だけに民家が広がっていた。
これから始まる途方もない未経験の大仕事に、彼はどんな思いでここに立ったのであろうか。

74歳で亡くなった後の1821年、弟子達の手でようやく”日本沿海興地全図”が完成。
1826年には、シーボルトがこの地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚、関係した日本人蘭学者が処罰された。(シーボルト事件)

商人をしていたが50歳で隠居。
家督を譲ったあとに幕府天文方に師事し、測量、天文観測をおさめ、この大事業を手がけた。第二の人生のスケールの大きさに驚くばかり。

伊能が箱館にやって来た54年後、こんどはアメリカのペリー艦隊が来航。
それから14年後の1868年に、時代は明治へと大きく変化したのであった。

                      ミカエル  

 

 

 


第202号 時代劇姿で~「石焼きーイモー」~♪

2007年12月07日 | 町の話題

本格的な寒さがやって来て、皆さんの町にも”焼きいも屋さん”の姿が見受けられると思います。
函館では、この時代劇姿で売り歩く”焼きいも屋さん”が有名。
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”焼きいも屋さん”といえば、リヤカーで売り歩いていました。
それが、今や軽トラックやワゴン車の時代。車社会の波はこの業界にまで・・・。
でも、この方の車両の原点は耕運機。
屋根をつけ、バッテリーを積み、拡声器を取り付けた改造型。
この愛車とともに、歩きながら売るのも珍しい存在になっています。

朝、ご自宅のある湯の川地区から、季節に合わせた時代劇姿で登場。
市内を”氷川きよしの曲”をバックに「石焼きーイモー」と売り歩きます。
80歳を超え、この道40年以上とか。
軽快なフットワークは、年齢を感じさせません。
「西部地区を売り歩いていると、観光客から『おじさん、記念に一緒に写しましょうよ』と、お誘いを受けることもあるんですよ」。こう語ってくれました。

今月は”サンタクロース姿”の12月限定特別バージョン。
見かけましたら「サンタさーん」とお呼び下さい。
”ほっかほかの焼きいも”の香りが、貴女の鼻をくすぐる筈です。

「イシ♪ーヤキ♪ーイモ♪ー、イモ、イモ、イシ♪ーヤキ♪ーイモ♪ー」

                    ミカエル 

 


第201号 五稜郭の弟?~四稜郭

2007年12月04日 | 旧跡、史跡

所在地=函館市陣川町59番地

四稜郭は、五稜郭の北約3 km離れた丘の傾斜地にある。
分かりやすい案内標識が整備されていないから、市民であっても場所を知る人は少ない。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
平面は右写真中央の黒い部分のように、まるで蝶が羽を広げたような形状をしている。
空濠で石垣はなく、土塁(高さ3m、幅5.4m)が周囲を取り囲み、建物は雨露をしのぐだけの簡易な物よりなかった。
広さは約2万㎡で、五稜郭の10分の1、新撰組終焉の地・弁天台場の3分の2ほど。

明治元年12月に旧幕府脱走軍(榎本軍)が、蝦夷地領有宣言をして以来、明治政府は奪還しようとその時期を2年の春とした。
この情報を得た榎本軍は、五稜郭と箱館奉行が祀った東照宮を守るために、4月下旬に兵士200名と付近村民約100人を動員、昼夜兼行でこの砦を造り上げた。
洋式築造法によって築かれたもので、別名新五稜郭とも呼ばれた。

 

ここでの戦いは明治2年5月10日。
長州藩、備前岡山藩、徳山藩の官軍が刀剣で血戦に挑み、3名の戦死者を出したものの勝利、榎本軍は五稜郭に逃げ込んだ。
それは、明治政府軍が箱館総攻撃を仕掛けた前日、新撰組副長であった土方歳三が松前藩士・米田幸治の銃弾に落馬戦死した前日でもあった。

                               ミカエル  

 

 

 

 


第200号 さらば五稜郭分館~博物館分館涙の閉館

2007年12月01日 | 教育施設

昨日の11月30日、”市立函館博物館五稜郭分館”が閉館となりました。 

開館は昭和30年、私は小学生でした。
前年に北洋漁業の再開を記念して開催された”北洋博覧会”の”観光館”を転用。
以来52年間にわたって、五稜郭築城と箱館戦争の史料を主展示、ここでどんな事があったのかを教えてくれました。
(写真をクリックすると拡大できます。)
 
分館は函館観光の名所・五稜郭公園内にありますから、来函された方なら入館はできなくても建物、大砲、当時の箱館奉行所玄関はご覧になっている筈、想い出として残っているのではないかと思います。
近くでは、その奉行所の復元工事が3年後の完成目指して真っ盛り。
復元範囲が、分館敷地にも及ぶために解体されることになります。

 
毎年、夏季に開催された特別展は欠かさず観覧、興味深い展示物に時が経つのを忘れてしまいました。
なかでも、期待が大きかったのは新撰組関連展。
毎回、毎回、入館受付を済ませ、史料と対面したときの胸の高まりは、生涯忘れることはないでしょう。
東京や大阪の友人が、わざわざ新撰組目当てに来函、一緒に観覧して夜遅くまで語り合ったことも懐かしく楽しい想い出。
 
最終日の16時半から閉館式が行われ、関係者の手でがっちりと”施錠”され、分館は幕末から維新にかけての史料館の役目を終えました。

収蔵史料は函館山麓の本館に移され、来春から常設展示される予定。
全国の分館ファンの皆様、本館は旧幕府脱走軍(榎本軍)の共同墓地”碧血碑”の近く。
お参りの帰りに立ち寄れば、懐かしい史料と再会できます。

しかし、五稜郭築造と箱館戦争関連史料は、五稜郭内にあってこそ実感がわき意義があるもの。
新奉行所に、多くの史料が早く展示されるよう願います。
分館の皆様、長い間有難うございました。そしてご苦労様でした。

                   ミカエル