ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第834号 師走の飾り付けが綺麗~函館空港

2013年12月01日 | 建物
今日から師走。
クリスマス、年賀状、大掃除、年とりなどの行事が目白押し。
多忙な月になる。
気を引き締めて乗り切らねばならない。

午前中、東京へ帰られる友人がいて、見送りに函館空港へ。
ここまでは、自宅から車で5分の近さ。
駐車場が広く、混雑なし。空港ビルまでは徒歩3分で、料金が格安。
利用者に、とても喜ばれている。

空港ビルは、師走を迎え、綺麗に飾りつけがされていた。
旅行者にとっては「忙中閑あり」の心理がはたらくことであろう。

① 外部ビル正面の飾り(約5m)



② 出発ロビーの飾り(約4m)



③ 到着ロビーの飾り(約3m)



④ 赤外線チェック所前の飾り



⑤ 名店街の飾り



⑥ オマケ!1階・美鈴コーヒー喫茶前に飾ってある、同社の創業当時の社屋写真。
  当市で産声をあげた企業だからスペシャル応援。



友人へは、お土産としてここのコーヒーとカールレイモン製品をプレゼント。

「有難う。君は随分便利なところに住んでいるね!
俺は飛行機に乗っている時間よりも、羽田から自宅までの電車時間の方が長くてさ・・・」

「じゃあな。また会おうや!」

ANAは雲の中に消え去った。

飾りつけをされたスタッフの皆様。
有難う。ご苦労様でした。


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第830号 新旧建物、仲良くコラボ

2013年11月06日 | 建物
私が住んでいる「上湯川団地」。
昭和40年ころから市の手で造成が始まり、計画人口は約五千人だった。

レイアウトとしては大きく分けて、道営住宅群、市営住宅群、個人向け分譲地となっている。

この団地のほぼ中央には、農業を営んでいるH氏の「かやぶき住宅」が、堂々と建っている。
建築年次は、昭和2(1927)年。
施工者は、大西善五郎氏。
棟に煙出しを載せでおり、現在の屋根の「かや」は、平成8年に葺き替えたもの。
大黒柱や差鴨居の立派さ。
雄大でがっしりとした内部空間が存在しているようだ。

この住宅と背中を合わせるように建っているのが、流行のコンビニ。
建築年代は平成に入ってから。

これら新旧二棟が、仲良く建っているのがとても興味深い。









住宅は、1997年に、歴風文化賞を受けている。(函館の歴史的風土を守る会)
維持管理して行くのは大変なことと思うが、「できるだけ永く後世に伝えていただきたい」と願っている。


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第815号 繁華街・本町にあった日本酒工場

2013年07月20日 | 建物
先の第810号では、明治時代に操業していたビール醸造所を紹介。
場所は、谷地頭町で、二階がビアホールだった。

今回は、本町にあった日本酒製造工場がテーマだ。

私が高校生のころだから、昭和30年代後半。
まだ、丸井今井デパートが、十字街にあったころ。

移転前のこのデパート敷地と、中央病院との間に、広大な空き地があった。
その空き地の中間ほどに、「日本清酒株式会社・函館工場」があり、「清酒・千歳鶴」
を造っていた。



建物の前身は、明治以後、函館の酒造業をリードしていた「丸善菅谷商店」の工場。
同商店は昭和12年、札幌市の日本清酒と合併して、「千歳鶴と五稜正宗」を製造していた。
その後、洞商店は酒造業から撤退。日本清酒の単独経営工場となった。

醸造に必要な、質の良い天然水は、七飯町からの自動車運搬。
大型トラックの荷台に、ステンレス製のタンクを積んでいた。

丸井デパートが本町進出するようになってからは、酒造には相応しくない環境となった。
同社はこの工場を閉鎖し、移転した。

辛口で、人気のあった千歳鶴。
松風町電停近くに、直営売り場があって、お得意様は飲食店で、賑わっていた。

現在、千歳鶴は札幌で醸造されている。
そのほか、「ことぶきみそ」、「余市ワイン」なども手がけている。

あれから50余年。
駅前、松風、大門地区を抜いて函館一の繁華街に成長した。
赤い灯り、青い灯りがつくと、「千歳鶴」を思い出す。



第810号 明治の函館ビールは、どんな味?

2013年06月28日 | 建物
北海道のビールは、明治9年に開拓使が札幌に設置した官営ビール醸造所(現・サッポロビール)の製品が有名だが、函館でも明治15年に末広町の石黒源吾がビールを製造していた。

その年間生産高は、大瓶換算で11,000本余。
製品名は、「山鱗麦酒」。価格は1本が25銭だった。

函館は幕末に国際貿易港になってからは、外国人の往来が多くなり、明治6年からビールが輸入されていた。

その後、明治31年に、アメリカでビール醸造の研鑽を終え帰国した金沢正次が、当時の函館大実業家・渡辺熊四郎の資金援助を受け、「函館麦酒」を設立し、生産開始。

これが、そのビール工場跡。
場所は、谷地頭町の目立たない小路奥。









(明治31年建築。1階はレンガ造りで、工場と貯蔵庫。機械類はドイツから輸入。原料の大麦は北海道産。2階は木造で、当初はビアホール。現在は住宅。よく残っていたと思う)

年間生産量は、大瓶換算で約165,000本と好調だった。
しかし、ビール業界の競争は激化。
明治37年には閉業してしまった。
さぞかし、市民も残念だったに違いない。。

それにしても、どんな味だったのだろうか?
「冷やす」技術がまだ普及されていない時代。
「のどごしの爽快さ」は?果たしてあった?



第763号 思い出のダンスホテル

2012年11月17日 | 建物
天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券を買い求め、
西部地区をゆっくりと散策。
素晴らしい意匠を持つ建物や歴史ある建造物に目を奪われ、しばし佇む。

この建物は、函館山麓にある二十間坂をくだり市電通りに面したところ。
今流行りの言葉で表現するならば「プチホテル」。建てられたのは多分大正かな?
私は40歳代のころ近くの事業所に勤務していた。
12月になると、同僚や近くの事業所らの職員を誘って、ダンスと映画音楽鑑賞会。







最上階から眺める夜景と冬景色の美しさは抜群。

ラストダンスは、証明を落としての演出。
脂粉の香りに胸がドキドキしたものだった。

ミカエル

第762号 大正のロマンあふれる美容室

2012年11月13日 | 建物
函館は江戸時代から大火の多い町。
燃えやすい建材の使用と、浜風が通り抜ける地形が影響している。

明治2年、箱館戦争が終結してから設置された「開拓使」。
このお役所は、道内の開拓のみならず、既存の町並みにも大きな力をおとしていった。
それは、「街の不燃化」もそのひとつ。

官営のレンガ工場を北斗市に造ったほど。
当初は建物単位で不燃化を図った。
開拓使の町造りの意向をくんだ函館行政庁は、この通り・「銀座通り」を不燃化することによって、延焼防止ライインとするように図った。

この美容室の前身は公衆浴場で、大正10年に建てられたレンガ造。
正面上部の飾りに、設計者の心くばりが感じとれる。





この通りの歴史ある建造物は、近年取り壊され、駐車場などに替えられている。
現存しているうちに、記録として残したいものだ。


ミカエル

第738号 これでも木造? 旧函館海産物取引所

2012年07月13日 | 建物
天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券を買い求め、
西部地区をゆっくりと散策。
素晴らしい意匠を持つ建物や歴史ある建造物に目を奪われ、しばし佇む。
私にとっては、至福のひとときだ。

この建物は赤レンガ倉庫群の裏側(東)にあり、所在は末広町15番3号。
建設は大正9(1920)年。
在職中、この建物の前を何度か通過。
階層、デザインからして鉄筋コンクリート造と決め付けていた。
ところが、れっきとした木造であることが判明。
日本人設計者の偉大さに脱帽した。

正式な名称は「旧函館海産商同業組合事務所」。
左右の膨らんだデザインが美しい。

周辺は、大正から昭和初期にかけて、百貨店や金融機関が多く、
函館経済の中心地であった。
この建物の右隣には、旧北海道拓殖銀行船場町支店が置かれていた。

 

 

 

この事務所の中には、かって「函館海産物取引所」があった。
なんといっても、取引所の特徴は、スルメを先物取引商品としていたこと。
これは、世界でただ一つ、ここだけだった。

取引所の概要
 設立~昭和26年
 解散~昭和46年
 会員数~82名(当初)
 初代理事長~平塚常次郎氏(昭和21年運輸大臣を経験)
 出来高最高~31年度 56億円

現在は、外装を綺麗にし、民間企業の事務所になっている。
懐に現金を入れた海産商が、今にも中から出てきそうだ。


ミカエル

第735号 想い出と現在とが交差する「金森赤レンガ倉庫群界隈」

2012年06月29日 | 建物
天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券を買い求め、
西部地区をゆっくりと散策。
素晴らしい意匠を持つ建物や歴史ある建造物に目を奪われ、しばし佇む。
私にとっては、至福のひとときだ。


小学6年から中学2年まで大森町に住んでいた。
遊び場は大森浜が多かった。
船を見るのが好きだったが、磯舟ばかり。
魚の水揚げはなく、昆布の記憶よりない。

そんな寂しい光景が嫌いで、たまに金森赤レンガ倉庫群へ行った。

日魯ビル(1号館、2号館、3号館)から、金森までの間には小規模の運河があって、倉庫へ荷を入れるのに
使われていた。

 

岸壁には、漁師相手のリヤカーを改造した店が並び、甘いものを売っていた。

金森前の岸壁は水深が浅く、大きな船は沖停泊。
荷ははしけに積まれ、金森前へと運ばれてくる。
すると、はしけと岸壁間にあゆみ板が渡され、作業員が乗り移る。

 

当時作業員は「かた(肩)」とも呼ばれ、荷をかつぎレンガ倉庫へと運んだ。
夏は汗まみれ。額、腕から噴出していた。
男ばかりではない。この頃、女性も強かった。
夫を戦争で失い、一家の大黒柱にならざるを得なかった事情があった。

お昼には、アルマイト製の深い弁当箱を広げ、美味しそうに食べていた。
10時、3時は休憩時間。たくさんの男女作業員が集まっておしゃべりとタバコ。
みんな、底抜けに明るかった。

途中、雨が降ったりすると、倉庫内に逃げ込んだり、倉庫に寄り添うように
作られた事務所兼休憩所にも雨宿りをしていた。

馬車はその当時、一番使われた輸送手段。
近くにたくさん待機していて、出番を待っていた。
「かいば(飼い葉)」と呼ばれていた餌。餌箱は大きかった。

名物人がいた。
「洗濯ばあさん」。ホームレスの先覚者(笑)かな?
いつも坊主頭、ゴム長靴姿。着ている物はいつも清潔。
馬用の水道水で洗濯をしていた。
何かを上げようとすると「私はコジキではありません」と、お断りしていたそうな。
冬期間は、どうしていたのだろうか?

昭和40年代、現在のお土産・レストランの西波止場あたりに、
フェリー桟橋ができた。
3階建てのターミナルビルもあった。
ここのレストラン・カクタスは値段が手ごろでメニューも豊富。
家族・親戚などでよく使わさせてもらった。
壊してしまったのは残念、残念。

信号交差点そばにあるレストラン・カリフォルニアベィビーは、海運会社の
社屋だった。

こんな想い出がある金森赤レンガ倉庫群界隈だ。

北洋漁業の衰退、物流の近代化が進むとともに、赤レンガ倉庫業も下降線。
回生を図って店舗・レストラン・貸しホールへと方向転換。
これが見事にヒット。
函館観光の目玉施設として、大きく貢献している。

 

 

 

かって、はしけが着岸した倉庫前の岸壁は、ミニ駐艇場となり各国の
ヨットも停泊中。

 

また、港内遊覧船・ブルームーンの基地でもある。

 

夏は花火。冬はクリスマスファンタジーと、年中人であふれる界隈である。

「北の大地に新幹線」が、間もなくやってくる。
その時、この界隈は、どんな風に変化するのだろうか?

もっともっと、賑わって欲しいと願わずにはいられない。


ミカエル

第732号 不燃建築に撤した財力ある海産商

2012年06月20日 | 建物
天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券を
買って、西部地区を散策。
素晴らしい意匠や歴史ある建物に目を奪われ、しばし佇む。

この建物は、創業明治6年の海産商「ヤマ田・田中商店」。
現在は、「箱館昆布館」という名称であるが、休業中。

建物の構造であるが、一見、木造のように見えるが、
なんと鉄筋コンクリート造。

 

幾度かの火災経験から、不燃性の高いこの造りにした。
当時としては、店舗兼住宅にこの工法を用いることは珍しく、
財力の豊かさが推察される。

正面入り口には重量シャッター、他の開口部には鉄扉。
非常時用として、正面1階にはガス灯を設置した。

この完璧な造りが、昭和9年の函館大火から逃れることができた。

下の昆布のモニュメントは、平成になってからのもので、高さは
約7メートルほど。

 

現在は空き店舗。
創業当時は、数百軒の海産問屋が軒を連ねていたという。
さぞかし、賑やかだったにちがいない。

幕末の開港地は、長崎、神戸、横浜、新潟、函館。
函館以外の都市は、その後、県庁所在地として活況を呈しているが、ここは・・・。

カムバック、ハコダテ。
今一度、賑わいを見せて欲しいものだ。

所在地=函館市末広町12番7号
目標物=十字街池見石油スタンド


ミカエル

第671号 ローマ時代の水道橋?

2011年10月21日 | 建物
9日の日曜日、温泉ホテル・恵風に出かけた。
その途中、汐首岬(本州との最短地)からこのような
橋梁が、国道から見受けられる。
実にダイナミックな光景、これは、鉄道のアーチ橋梁なのだ。

 

 

大正13年当時、軍部は津軽海峡の防衛上、戸井要塞の築造を計画した。
その軍事物資の輸送手段として、旧国鉄戸井線を策定。
昭和12年に工事を開始した。

その後太平洋戦争が勃発。
資材不足から、昭和19年の完成を目指していた鉄道建設が、
昭和18年に中断。目的地まで2.8㎞を残したままで・・・。
その後、再開されることなく、風雨に姿をさらしている。
山肌の急傾斜地に建設され、レールの路盤にあたるであったこの橋梁。
美しさに、しばし見とれてしまった。

起点は、現・JR五稜郭駅。
湯の川を経由し、全長29.2kmの計画だった。

いよいよ物資不足になってきて、橋の構造材である鉄筋の替わりに、
竹を使ったという報道もあった。

この線路用地は、その後、殆どが道路用地として自治体に払い下げられた。
サイクリング道路というのもある。
平和な世の中になって、「良かった!」と心から思う。


ミカエル

第667号 見たかった~相馬社屋の内部

2011年10月06日 | 建物
函館西部地区には魅力的な建物がいっぱいある。
この”相馬株式会社社屋”もそのひとつだ。

市民ならば一度は目にしているであろう。
そうでない方々も、観光ポスターや観光パンフで、
市電とのコラボになっている社屋を、ご覧になったことがあろうかと思う。







社屋は、旧函館区公会堂を背にして、基坂を下り、市電通りとの交差点に位置する。

濃い青と濃い緑を混ぜ合わせたような色彩の外壁。
屋根は和風瓦ながらも、洋風の事務所だ。
屋根のドーマ窓、上げ下げ窓、その回りの飾り縁のデザインは
特に優れていると思う。

起業者である初代・相馬哲平氏(現・哲平氏は5代目)は越後の人。
幕末に箱館・弁天町の米屋で丁稚奉公。
やがて暖簾分けをしてもらい独立した。

箱館戦争を目前にして、多量の米を買い付けた。
これが、戦争終結後に飛ぶように売れ、多額の利益を得た。

この利益金を基に、金融、山林、倉庫業など、事業を拡大し、
明治から大正にかけて、北海道有数の財界人となった。

この建物は大正2(1913)年の建築。
設計・施工とも、筒井長左衛門氏。

外観の写真は数多く存在するが、内部を写したのは見たことがなく、
ベールに包まれている。
「一体どうなっているのだろうか?」。
”当たって砕けろ”の心境で、アポもなしに飛び込んだ。
「こちらの建物に非常に興味があります。突然ですが内部の写真を
撮らせていただけないでしょうか?」。

結果は、叶わなかった。
民間企業だから、このような結果は想像はしていた。
数年後に、またチャレンジするつもり。



裏には土蔵がある。貴重品を保管しているのだろう。
右端には、火災時に建物が延焼しないようにと
”うだつ(袖壁)”もあって、
この町の大火の多さに備えたのであろう。
”うだつ”とは、”うだつがあがらない”の例え言葉に使われている。

私も、うだつがあがらない仲間。
残り少ない人生で、逆転したいものである。

ミカエル

第648号 函館の町に江戸の大店を見た(茶房ひし伊)

2011年07月25日 | 建物

函館山の麓にある護国神社。
この坂の上り口左に、入村家の店舗併用住宅が位置する。 

教会や和洋折衷建物が広がる函館の町にあっては、目を引く
豪華な”連棟和風建物”だ。
ここの前を通るとき、いつも見とれてしまう。
まるで、江戸の町の大店(おおだな)へタイムスリップ
したような気がする。

 

入村家の先代・富吉さんが、新潟から来函し二十間坂で事業を
起こしたのは、明治31年。
その後、この地に移転し質屋を開業した。

現在は、4代目・悟朗さん、妻美代子さんが居住されている。
右は鉄筋コンクリート造。
中央は土蔵造りでこれらは、明治38年の建築。
左は石造りで、大正9年の建築。質屋業務伸展に伴い増築
したもの。

まるで防災建築の集合体のようだ。
それを証明するかのように、3度の大火と2度の地震に耐えた。

 

昭和57年、質屋の営業下降となるのを予測し、石造蔵を
改装して、”茶房ひし伊”をオープンさせた。
盛況中で、先週行ったときも空席待ちだった。

      

また、中央蔵では、古きものなどを扱う事業も展開中。
質屋の経験を生かした、確かな目利きと評判である。

左横道には
①江戸時代、箱館で活躍した”豪商・高田屋嘉兵衛像”。
②ぺりー来箱数年後に創業した”なまこ壁”の和菓子の
老舗”千秋庵総本家”。
③内外とも粋な作りの”料亭・冨茂登”らが並び、落着いた
街区を形成している。
観光客が訪れるのは稀。ここに来ると本当に心が安らぐ。

この大店風の建物を維持管理していくのは、並大抵なこと
ではないと思う。
しかしながら、貴重な文化財(平成6年歴風文化賞受賞)。
行政も後押しして、なんとか後世まで残して
欲しいものである。

”茶房ひし伊”のHPは、こちらからどうぞ!