ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第182号 土方歳三隊に落ちた松前城

2007年10月12日 | 旧跡、史跡

名称=松前城(福山城)
所在地=松前町字松城(北海道最南端、函館から車で約2時間)

十数年ぶりに松前城を訪れた。
役場の横から城へと続く坂道を上ると、積まれて間もない綺麗な石垣が正面に見え、復元工事がかなり進んでいるのよく分かる。
左折すると青い津軽海峡と日本海が目の前に広がってきた。
その海を睨むように造られた砲座に「よっこらしょ」の、加齢掛け声とともに腰をおろし、藩の歴史を思い浮かべた。

(写真をクリックすると拡大できます。)
 
(城入り口となる松前城資料館と復元なった城内。真新しい石垣が印象的。)

この城は、蝦夷地に唯一藩庁を置いた松前氏の居城で、築城当時(1606年)はその地名にちなんで福山城と呼ばれた。
その後、蝦夷地警備の必要に迫られた江戸徳川幕府は、松前藩に対し新城建設の命を下した。時の藩主は13代松前崇広(たかひろ)公。
1854(安政元)年、5年の歳月をかけ、三層天守閣、本丸、二の丸、三の丸、石垣、堀、砲台などを有する城は完成した。
またこの年は、箱館にペリー艦隊が来航した年でもあり、接待役を仰せつかった藩は多忙を極めた。

松前藩は、箱館戦争時には官軍についていた。
1868(明治元)年10月20日、蝦夷地に上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍は、同藩に対し降伏勧告をした。
しかし、拒否したため、新撰組副長・土方歳三を隊長にした約800名の兵に攻められ、同年11月5日に抗戦むなしく落城。
藩主・松前徳広(のりひろ)公は青森へ脱出、弘前で病死した。

 
(当時の姿を残す重要文化財の本丸御門と昭和60年に復元された天守閣)

この戦いで松前藩は終焉を迎えたわけではなかった。
翌、明治2年4月9日、新政府軍は松前北の乙部に上陸、17日にはこの地を榎本軍から奪還した。
そして、5月11日の官軍による箱館総攻撃の日、松前藩士・米田幸治の撃った怨念の銃弾は、馬上の新撰組副長・土方歳三に命中、鬼の副長を北の大地に散らせたのである。

我が国最後の日本式の城として造られた松前城は、外国からの脅威に備えるのが目的であった。
だが、日本人同士が血を流し合う場になったのはまさに悲劇そのものであった。

城近くの寺には歴代藩主の墓所がある。
稲が育たない寒冷の地、津軽海峡を渡っての参勤交代など藩主の苦労は計り知れなかったと思う。
現在、道内一の桜の名所となっているこの憩いの地を、どんな思いで見下ろしているだろうか。
上空を飛ぶカモメの鳴き声で我に返った。

                       ミカエル

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿