ミカエルの函館散策記

美しい夜景と異国情緒溢れる町・函館。
名所・旧跡・食べ処をご紹介していましたが今や万屋。
ご訪問に謝々。

第97号 新撰組終焉の地・箱館弁天台場跡

2007年02月22日 | 新撰組

所在地=函館市弁天町20番 市電函館どっく前下車 現・函館どっく構内

 
        (貧弱な案内標識と平面図・不等辺6角形) 
            (海に築かれた台場と台場の入り口)

函館山展望台から市街地を見下ろすと、左側に大きなクレーンや船が見えるが、そこにこの西洋式台場はあった。

ペリーが浦賀沖にやって来て、開港を迫ったのが嘉永6(1853)年。
翌年、江戸・徳川幕府は下田、箱館を開港することにした。
箱館奉行は開港に伴う防備上の不備を幕府に訴えた。
その結果、箱館奉行所の移転(五稜郭へ)とこの弁天台場の建設が決まった。

設計は五稜郭も手がけた箱館奉行支配・諸術調所教授・武田斐三郎、石垣工事は江戸・品川台場も請け負った備前・岡山の石工・喜三郎であった。
総面積約32,340㎡(甲子園球場の1.1倍)、周囲約684m、高さ11.2m、築造費約107,300両。
大砲は50門を予定したが、実配備数は不明。

着手は安政3(1856)年、完成は元治元(1864)年。
箱館山の裏斜面から切り出した安山岩は、冬はそり、夏は船を用い運搬したが何しろ海を埋め立てて造る台場、工事は難航した。

明治2年1月3日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に掃討令が下った。3月9日、品川を出航した新政府軍は、蝦夷各地で勝利を収め、5月11日は箱館総攻撃の日となった。
その時、ここを守備していた主力部隊は相馬主計率いる箱館新撰組(163名で編成)。
しかし、周囲を完全に政府軍に押さえられたため孤立、水、食糧、弾薬にも事欠き、台場はついに,同月15日に降伏し、ここに新撰組は終焉を迎えたのであった。
運命の11日、土方歳三はこの台場へ応援に駆けつけるため馬にまたがり、赤い陣羽織をひるがえし、抜刀し敵陣を切り抜けようとした。
その時、政府軍兵士の放った銃弾が・・・。
土方の体が冷たくなってなっていくなかで、日野の風景、京都生活、近藤や沖田の顔が浮かんだに違いない。

7日後の18日、榎本武揚以下全員が降伏、日本は近代化への道を一気に突き進むことになった。

明治29年、函館港湾改良工事に伴い台場は解体され、その石材は近くの函館漁港の石垣として再利用された。
異国の脅威のために造られた台場であったが、日本人同士が血を流す現場になったのはなんとも哀しいことである。

(※ 白黒写真は、盛岡中央図書館、函館中央図書館所蔵)

                        ミカエル

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
武田氏 (M夫)
2007-02-22 17:47:13
フーーン、うならせる記述。武田氏は、地元の大洲では、どのように把握されているのか、気になってきました。調べてみます。
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へーえ!! (comet)
2007-02-22 22:02:34
弁天台場ってこんなんだったんですか~。
函館戦争って、イメージがどうもつかみにくいな~と思ってたんですが、こうして資料を見せていただくと、日本人同士の戦に 西洋の技術(?)が取り入れられた 珍しい戦争だったんだなと実感します。

そういえば、この弁天台場がおちる前に、フランスが旧幕府軍を「蝦夷共和国」と 正式に認めた というのを見たことがあるんですが、いつごろどんな風に成立させたんでしょう?

・・・って、何をおねだりしてるんだろう、私!
すみません
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お尋ねのこと (ミカエル)
2007-02-22 23:10:39
comet 様
フランス本国政府が、「蝦夷共和国」を認めたわけではありません。
徳川慶喜がフランスに軍事顧問団の日本派遣を要請、この顧問団が大政奉還後も榎本らと行動を共にし箱館までやって来ます。
この共和国が成立したのは、榎本軍が蝦夷地全土を平定した明治元(1868)年12月15日でした。
共和国成立後、顧問団は総裁・榎本武揚の指揮下に入り「フランス士官隊」となります。

一方、1868年1月25日から中立を保っていた諸外国が、12月28日にこれを撤廃し明治政府を日本の正式交渉団体とします。
お分かり頂けましたでしょうか?  ミカエル
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ご訪問有難うございます。 (ミカエル)
2007-02-22 23:41:05
M夫 様
斐三郎は、出身地・大洲市よりも函館の方が有名人として通用しているかも知れません。 
なにしろ、夏の五稜郭で上演されます「函館野外劇」にも登場するほどですから。  ミカエル
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なるほど (es)
2007-02-23 18:56:47
函館と新撰組の繋がりは今まで良く知らなかったけど、
こうして噛み砕いて話してもらえると解り易いですね。
ちょっと興味が湧いてきたので、もう少し暖かくなったら自転車に乗って日野の町に繰り出してみます。
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行くたい (ミカエル)
2007-02-23 21:14:39
es 様
こんばんは。
実は私、まだ日野へは行ってないのです。
新撰組の生の史料をこの目で見なければと、
上京したときいつも思っています。 ミカエル
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前のタイトル (ミカエル)
2007-02-23 21:18:00
es 様
「行きたい」の間違いです。
「ミスていく」でした。 ミカエル
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ここで新選組が…… (土田歳子)
2007-02-24 01:10:58
京都から函館まで…新選組はよく闘った…(涙)

小説等を読んでいても、弁天台場について全くイメージが掴め無かったのですが、ホント勉強になりました。

相馬主計は、後年、切腹してますよね。

新選組最後の隊長として、死にたかったのでしょうか。

心の葛藤は計り知れませんが、何だか、悲しいです。

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主計 (ミカエル)
2007-02-24 10:11:25
土田様
函館でもこの台場と新撰組の事は知らない人が圧倒的に多いです。
相馬は他殺説もあって哀れな最後でした。
綺麗な夜景をご覧になっている展望台、この下(基礎部分)には、日露戦争を意識して造られた「函館要塞」の跡が不気味に残っています。
それと五稜郭。
函館は要塞(城塞)都市とも言えます。 ミカエル
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函館要塞 (M夫)
2007-02-25 08:52:09
愛媛県の佐田岬、由良半島、それに大分県の佐賀関や鶴御崎半島などには、豊予要塞の跡が残っています。特に、「丹賀砲台跡」は、かなり良好な状態で残っています。
全国に数ヵ所のうち、函館もその一つですね。後日の詳しい記載を待っています。
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