所在地=函館市船見町23番2号(地蔵寺境内)
この塔は、元治元(1864)年、五稜郭が完成した年に、当時の遊郭の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するために合同で建てた供養碑である。
かって山の上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があり賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1858)年に、一画を山の上遊郭と公認してからは建物の豪華さを競うようになった。
翌年、箱館が国際貿易港として開港してからは全国各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせた。
慶応元(1865)年の記録によれば、遊女屋25軒、遊女の数329名、引手茶屋21軒、異人揚屋1軒、男芸者5人、女芸者113人とある。
この塔は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、そこで生涯を終えざるを得なかった悲しい女性たちがいた事実を伝えている。
それにしても、身売りされた娘さんが家族と別れるときの心境は、どんなものであっただろうか。
時代劇の哀れな哀れなひとコマが浮かんできた。
ミカエル
函館は大火の多い町。
この遊郭も大火に遭い焼失しました。
遊郭は、その後、高田屋嘉兵衛像のある宝来町に移り、さらに大森町へと移りやがて廃業させる法律が生まれました。