梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

黒澤監督

2012-01-24 18:39:17 | 雑記
千代田劇場で実際に見た黒澤監督の作品は多分「どですかでん」と「地獄変」だけだったと思う、
黒澤監督の作品は結構見たのだが殆どビデオか小さな映画館で時々掛かる再映だった、
自分が一番好きなのはやはり「七人の侍」だろう、何度見ても飽きない作品だ、世界の映画に影響を与えたと言われるのもわかる、「蜘蛛の巣城」は内容と言うより映像が好きな作品だ、この作品と「どん底」は特にだが黒澤作品は舞台をそのまま映画の画面にはめ込んだ様な様式美があると感じるのは自分だけだろうか、モノクロームで奥行きや広がりがあるのに舞台を客席から見ている様な印象が強い、蜘蛛の巣城では城の広間の一段高くなった所で三船が酒を飲むシーンはまるで書き割りの中の様な雰囲気で秀逸な役者の舞台を見る感じだった、
奥方が手についた血の幻覚に襲われるシーンは低いアングルからの映像なのにやはり舞台の様な印象が残った、
天主で無数の矢に射理立てられるシーンも緊迫感以上に様式的な美しさが感じられた物である
「どん底」の方はゴミ捨て場に立てられた掘っ立て小屋の場だけで進行するので余計にその感じが強く映画と言うより劇場の録画を見ている様な雰囲気だがやはり其れは「映画」出なければ現せない画像だった、
モノクロの映像だとカラーより全体に暗くなる、其れが黒澤作品を特徴付けていたような気もするが作品自体がモノトーンだった事にもあるかもしれない、娯楽作品でも底にテーマが有って荒唐無稽と言う作品は少ないと言うより無いだろう
「野良犬」の真っ白な背広と暗い場末の雰囲気、「生きる」の公園のシーン、「羅生門」の荒廃した羅生門と重苦しい空、そして配役者の沈んだ色合いもカラーでは恐らく違った物になっただろう、
黒澤監督が最初にカラーを撮ったのは多分「地獄変」だった筈だがやはり其れまでの作品とはかなり違った物になっていた、監督の持つ様式美が満開に咲き誇る桜と絢爛豪華な牛車が炎に包まれるシーンと豪奢な衣装を纏った中村錦ノ介演じる貴族、仲代達也の演じる絵描を意図しての映像かもしれないが黒澤監督の作品を期待した私には残念な作品だと思う物だった、
「影武者」での色彩の使い方はこの時よりかなり押さえた物になってあの有名になった夕陽を背景に丘の向こうから湧き上がる騎馬武者は(ああ、黒澤監督だな)と言う仕上がりだった、がやはり黒澤明監督は「モノクロ」が本領の作品だと思う
コアな黒澤ファンからすると何を偉そうにと言われると思うが私の持つ感想だと言う事でこの件ご容赦お願い致します。

日比谷映画街

2012-01-23 19:08:45 | 雑記
宝塚劇場の4階にはスカラ座が入っている、その上は東宝演芸場である、道を挟んで反対側のビルには千代田劇場と有楽座がある、千代田劇場は東宝の封切館だ、黒沢監督作品の終わり頃の作品は此処で見たが地獄変は黒澤監督のカラー作品の最初だったが、自分には少し気に入らない物だった、仲代達也と中村錦之介、牛車の中で焼き殺される娘は内藤洋子だったが色がイメージを邪魔していた感じがする。
有楽座は大作が多く掛かった、アメリカ映画では「マイフェアレディ」、「キャバレー」「ファニーガール」、等のミュージカル、ソ連映画のカラーゾフの兄弟も此処に掛かった、スカラ座はどちらかと言えば娯楽やファミリー向けの映画が多かった、
ロングランの記録を作った「チキチキバンバン」「ドリトル先生不思議な旅」も此処だった、
有楽座の隣、少し道が曲がった所に特徴のある塔を持った円形の建物は日比谷劇場、アクション物が多く「007」シリーズは此処だった、
晴海通りを越えて有楽町駅の日比谷口前のビルにはスバル座がある少し変った作品が掛かっていたが今覚えている作品は無い、スバル座の前の古いビル6階にはラジオの公開録音スタジオがあって此処で立川談志が司会をするラジオ寄席と言う奴を時々見に行った、この頃の談志は実の面白かった、特に放送に出ない部分で話すいわゆる「バレ話」が秀逸だった、
此処をお堀の方に行くと丸の内警察のビルが有る、丸警と言っていたが配達の仕事をしていると結構お世話になる、駐車取締りとの戦いである、映画館のアイスクリームは休憩時間に売り子さんが販売に来る時間の前後どちらかで納品する、その為映画館通りに略1日中車がある、納入する為に不在になることもしょっちゅうだから常に目を付けられている、その頃から導入された駐車違反専門の婦警さんは全く融通が効かない事は皆さんご存知の通り、警察も成りたての新人をわざと投入するので毎日の様に追い立てられる、チョークでタイヤにしるしと時間を書くと数メートル車を移動すると言う事は常套手段で敵も然る者、「ゆっくりバックして」と車を下げさせると道路のチョークとタイヤのチョークが一致して「駄目です、同一駐車です!」とやられる、次は少し勢いをつけて急ブレーキをかけてタイヤの位置をずらしてから再度バックする、「一度出て行って今戻って来た」とやると「このブレーキの跡は?」と言われ「誰か急ブレーキを掛けたみたいですね」等とやるから余計に目を付けられる、こっちは仕事だ、生活が掛かってるんだと他の配達の運転手と話しながら過ごしていた、
配達の車の他、乗用車が堂々と長時間とまっている事がある、配達の邪魔だと自分の事は棚に上げて匿名で苦情の電話を掛けてレッカー移動をしてもらうのだがある時悪戯を思いついた、
レッカー移動をするとその跡に水を含んだチョークで「品-**・**駐車違反レッカー移動、運転手は丸の内警察交通かまで出頭する事」と書かれ其処に連絡先の電話番号が書かれているのだがレッカー移動が済んで警官が居なくなるのを待って、「それっ」と劇場からデッキブラシとホースを持ち出してこのチョークを皆で消してしまうのだ、そして遠巻きにして運転手の戻るのを待っていると大抵「車が盗まれた」と騒ぎ出して110番を掛ける、交通課と盗難の課が違うので最初は警官が来て手続きをするが無線で場所と車のナンバーを問い合わせると駐車違反で移動されたと言う事が解る、無論その確認をすると犯人は三々五々と居なくなるので誰の仕業か特定は出来ないが恐らく警察では(恐らくあいつ等)だとは気づいていたんだろうな、
さすがに1回しかやらなかったが暫く晩酌の摘みになった若い頃の悪戯である

昭和40年代の有楽町界隈

2012-01-22 10:10:43 | 雑記
昭和42~46年頃の話である、4年程勤めていた日立製作所亀戸工場を退社して東宝の食品関係の子会社で働き始めた会社は有楽町に有った、
何しろ田舎から東京に出て来たがずっと寮住いで小岩から津田沼と言った所に住んでいてとても銀座何ぞと言う所には縁が無かったのでかなり戸惑う事も有った、
日立時代に一度だけ銀座に来た事が有るが確か未だ都電が有った頃で砂町か錦糸町から都電出来た様な気がするが違ったかもしれない。その頃行く所と言えば殆ど庭園や寺社仏閣と言う所でどうも華やかな所は気後れがするので敬遠していたのである。
その昭和40年代の頃の記憶である、
駅の改札付近は今でもその頃とほぼ変わらないが駅の外は全く今とは違っていた、
駅を南側に降りると東京駅側の前には交通会館ビルが有る、このビルは未だそのままだが屋上に有る回転するレストランは今は廻らない様だ、新橋寄りは降りてすぐ2階建のパチンコ屋が下町其のままの雰囲気で操業していた、たしか「白鳥」か英語で「スワン」だった様な気がする、
屯している人達も銀座の入り口とは程遠い日雇いの雰囲気の人達で此の裏路地には昼間から酒を飲ませる小さな店も何件かあり、立喰いの蕎麦屋があった、此の路地の向かい側が円筒形の日劇である、日劇の左路地を挟んで朝日新聞社の本社ビル、この間の路地を抜けると高速道路が通って居てその下が「西銀座デパート」である、
汐溜操車場の脇から国鉄のガードまで来て其処から線路と平行して北上し外堀を埋め立てて作られていた、朝日新聞社の搬入口が直接この高速道路と繋がって居た、
西銀座デパートに行き当たって右に折れると今の宝くじチャンスセンターの辺りにラジオ局の「サテライトスタジオ」と言うのが有った、ガラス張りのスタジオは此処だけでは無く新宿と(アルタ前だったかな?)他にも有ったと思う。
丁度その頃山本リンダの「困っちゃうな」と言う歌が大ヒットしていてこのスタジオに来て居た、休憩時間だったのでガラスのすぐ外側で見ていたら彼女と眼が合ったのだが全く視線を外さないのでドギマギした思い出があるが後で聞いたら彼女は極度の近眼でコンタクトレンズなどは無い時代だったので全く視点が有って居なかったらしい、まあ当たり前だが。
此処から晴海通りを渡ると阪急デパートのビルが有り、その前に小さな公園がある、噴水と石の碑が有って「此処に数寄屋橋ありき」と書かれている、更に一昔前に大ヒットした「君の名は」で真知子が春樹(違うかもしれない)と有った舞台なのでと言う事らしい。
公園の脇の本当に狭い路地を通り抜けると古い小学校がある、泰明小学校と言う学校で島崎藤村や北村透谷が卒業した由緒のある学校で今では文化遺産になっている、
友人F氏も此処の卒業生だ、この前の道路が「みゆき通り」で右に行くと高速道路と電車のガードを潜り抜けて突当りが日比谷公園である、公園前の日比谷通り手前左側が帝国ホテルで未だこの頃は石造りの噴水のある趣のある建物だった、その向かい側が日生ビルで此処に日生劇場が
入っている、日生ビルの手前が「東京宝塚」で此処が東宝の本拠地である、
私は近界隈の映画館と東宝所有のレストランや喫茶店にアイスクリームを配達していた

珈琲と友人の思いで

2012-01-21 09:49:07 | グルメ
昨日雪のせいか今朝は気温が低い、何時もの様に5時半を回って布団から出ると珈琲を淹れる、先々週からハワイコナを主にしたブレンドを使っている、他の豆に比べて妙に重い感じがする、
しっとりとしたと言うか湿気を含んだような挽き心地でミルからフィルターに移すのに苦労する、
しかし味は気に入って最近は此のブレンドを使っている、我が家は大森山王口に有るドトールで購入しているがこの店の店長に女房が「お勧めは?」と聞いたら3種類ほどを進めてくれた中に有った、ハワイコナは今まで何度か飲んでみたが余り良い印象が無い、ハワイ土産に買って来た物だったせいかもしれない、息子が遅い結婚をした時ハワイにで新婚旅行を兼ねて式を上げたのは6年ほど前だったが時間も金も無いので両親揃って出席しなかった、息子が旅費を持つような話も有ったが「新婚は大変だから」と行かなかった、奴の財布は大体解って居た事もある。
その時に土産にハワイコナを付けてくれたのだが香りも味もおとなしいと言うか軽過ぎて自分で買う気にはならなかったのだがドトールはハワイに自社農場を持っていて「自信を持ってお薦めする」と言うので飲んでみたのだが此れは別物だった、こちらの口も少し変わったのかもしれない。
その前は「ガテマラ」に凝っていた、夫婦とも好みが一致しているので選択は楽だ、
珈琲の味基準の一種であると言う「酸味」は二人とも余り好まない、したがって高山系の豆は先ず買わない、モカも嫌いではないがやはりブラジル系になる、
ガテマラやマンデリンと言う名前を知ったのは東宝系の会社に居た時の同僚にFさんと言うちょっと太った人が居た、
自分より3~4歳年上だったと記憶するがこのFさんのお母さんが銀座すずらん通りと西5番街の間の路地で「黒猫」と言うバーをやって居てその関係でやたらに銀座近辺に詳しく昼休みや退社後に色んな所に連れて行ってくれた、
その頃に西銀座デパートの地下に有ったオールカウンターの喫茶店で色々の珈琲を飲ませてくれてメジャーなブルーマウンテンやキリマンジャロ、ブラジルの他に色んな種類が有る事を覚えた、
すずらん通りの古い洋食屋でオムレツやポチエドエッグ(ポーチドエッグと言うのかも知れないが彼にはそう教わった)ポークカットレットという物が所謂カツだと言う事も彼に教わった、
その後会社を退職したので疎遠になっていたが暫くして結婚もしないで亡くなったと言う話を聞いた、「最後は体重が半分になってFさんとは別人だった」と元同僚が話してくれたが元気なうちに有っておきたかった大人の世界の師匠だった

泡盛の古酒を貰う

2012-01-20 17:40:06 | 雑記
誕生日に息子が泡盛の古酒を贈ってくれた、息子は下戸である、全く飲めない訳ではないのだがうすいサワーを2~3杯飲むと真っ赤になってしまう、最初は気持ち良くも成るらしいが時間は短く直ぐに苦しくなるらしい、本人には酒の好みと言う物は無いので親父が飲んでいる酒を酒屋で聞いて贈ってくるらしい、しかし私は息子が子供の頃家に10種類位の酒を置いてその日の気分で飲んでいたので贈るのは日本酒と焼酎に決めているらしい、
貰った古酒は最近では珍しく43度もある、数十年前には焼酎と言えば大体35度以上で45度なんていう奴も有ったが最近は大抵25度が一般的で中には15度など言う焼酎も売っている、
15度では気の利いた日本酒並みだ、此れは未だ買った事は無い、大抵乙類の25度を探して買って来るのだが晩酌に余り高い酒も飲んでいられないので1.8Lの紙パックになった
しかし甲類はどうしても飽きてしまうので最近は甲乙混合と言う奴が主になった、飲み方はそのまま少し大きめの杯で飲むのだが1.8Lが大体1週間で終えるので古い言い方だと1合4勺と言う事だ、
まあ、こんなもんか、若い頃に比べると随分少なくなった物だが最近は此れで丁度寝酒になる、
秋口まではそのまま飲んでいたが大分寒くなって来て湯割りを飲もうと思ったら25度を越える焼酎が余り無く、ウィスキーをかったり安いブランディーだったりしたが結局昔から好きだったダークラムのマイヤーズに落ち着いた、
しかし此れは結構飲みすぎてしまう、やむを得ず又25度の焼酎を冷でやっていた所に息子からのクースーが来たので正月2日に中華街で買って来た小さな手つきのグラスで湯割を楽しんでいる、
摘みはやはり寒いので湯豆腐や鍋が多くなるがそれ程腹に入る訳ではなく直ぐに手が鈍くなるのだがやはり何か口寂しい、
近くのスーパーに自家製のパン屋が入っていて「ガーリックラスク」を売っていたので試しに買って来たが此れが意外と酒に合う、カリカリに焼いてあるので噛み砕くと口の中で一旦粉になって直ぐに解けてしまう、摺り込んだだ大蒜と色が暗緑色で若干食欲を減退させるのだが塗っているのは青海苔らしい、此れが微妙にアクセントになる、
酔いが廻ってくるとテーブル椅子からずり落ちて床に横になり椅子の底板を枕にしてテレビを見ながら焼酎をすすりこみながらラスクを頬張る、
至福の時間と言うまでは行かないが充分満足しているのだが、このスタイルには我ながら全く爺さんになったものだなと思うのだが考えたらこの泡盛は64歳の誕生プレゼントだからそ当然だと言う事か、