福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

医療の時代と死生観(10) 自分の場合 私の医療観は奇異に映った?

2015年09月05日 16時24分05秒 | 医療、医学
 昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。

 新しい病院に移ったからといって実際に診療内容にそう差があるものではないが、患者層は高齢者が多いこと、いわゆる社会的弱者と言われる問題を抱えた患者が多いことは驚きであった。ここでは疾病の治療だけでは不十分であった。治療が終了しても帰る場所が無い患者、ベット上寝たきりの患者、コミュニケーションがとれない患者、重度の痴呆患者、食事も全くとれず鼻から胃に流動食を流して生命を維持している患者、大きな褥瘡を形成している患者などであった。この様な患者への治療は、ただ生命を維持してあげることなのか、毎朝回診しながら困惑させられたものである。

 私から見て既に人生のターミナル期にある患者達に対して、何故看護師達はこれほど直向き、積極的なのか関心もしたし、驚かされた。医師の治療も同様に最後まで積極的であった。

 私は幼少期に抱いた高齢者の自然死に抱いた憧れ、約15年の医師としての経験から、疾患の治療、患者の治療において手を尽くすべき時は患者が治療に反応して改善する余力がある間、と思ってきたし、この時期に十二分の診断と治療を行っても進行性に状況が悪化して行くときは次第に治療方針を対症的治療に移して行くべしと考えていた。医療が先進的で高度であるほど、当時の医療は一体誰のために行われているのか。家族の満足は得られたが、それ以上に自分たちの自己満足のためではなかったのか、一番辛い思いをしたのは誰なのか、患者自身なのだ、と考えた。

 中通病院赴任以降は、長い経過の慢性疾患を持つ、特に高齢の患者については、ある時期から治療方針を患者の苦痛をとる対症療法中心に切り替えた。最終的に死を迎える場面でも昇圧剤の使用とか蘇生治療は原則として行わなかった。死の場面には医療は不要である。患者の死に方をアレンジしてあげるのも医師の重要なつとめなのだ、と思っていた。勿論、この治療方針は家族の了解を得て行ったが、当時はなかなか納得得られず、やむなく気管内挿管、人工呼吸器装着も行ったケースは少なくはない。

 私のこの様な治療方針は病棟の看護師たちには異様だったらしい。ある時、カンファレンスの際に主任から「先生の医療は手抜きで納得できません!!」と厳しい抗議を受けた。当時は尤もな意見であった。しかし、医療の方針を変えることはなかった。
 その後、私は療養病棟を担当した。ここには人生のターミナルを迎えた患者も少なくない。その方々が生を終わり旅たつときに私は静かに送ってあげた。

 幼少時から抱いていた、私の医療観に沿った医療を実践できた時期であるが、現役引退を機に原則的に入院医療から退いた。
 
 最近、高齢社会を迎え、高齢者の死生観は変わりつつある様に思われるが、家族の視点はそれほど変わっていない様に見える。
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