福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

医療の時代と死生観(9) 幼少時から死が身近にあった(4) 祖父母、両親の死

2015年09月04日 04時45分36秒 | 医療、医学
 祖父は昭和31年家族に見守られて在宅で死去した。今の私から見てうっ血性心不全で、盛岡から連日往診を受けた。73歳であった。小学校5年、私は何もできなかったが、時折傍で寝るなどそれなりに介護できた。私のひ弱であった命を維持してくれた祖父である。感謝を込めてできるだけ側にいた。祖父も喜んでくれたと思う。

 祖母は昭和40年岩手医大にて死去した。80歳、急性腎盂腎炎と引き続き敗血症だったと思う。祖母の場合はもう時代が変わっていた。知らせを受け新潟から急遽見舞った時には医大の立派な病室で、手足が拘束されに何本かの点滴が繋がった状況で治療されていた。翌朝、医療スタッフに囲まれ、延命処置を受けつつ死去した。側についていたのは母のみであった。濃厚な治療を受けていたらしかったが、詳細は不明である。祖母は死ぬ直前に地獄を味わったのではないか、と思う。気の毒に思っている。当時は私は何もできなかった。

 この祖父と祖母の死の10年間の間で医療環境は大きく変わっていた。

 私は昭和46年に臨床医としてスタートを切った。2年間宮古病院内科で、その後13年間秋大内科で主に血液疾患患者の治療に当たった。近代的医療、薬物医療が発展しつつあり、患者が死を迎えることは医療の敗北と考えられる様になった時代である。私もこの期間は、大きな矛盾を感じつつも、チーム医療の一員として患者が少しでも長く生きられるよう、積極的な、攻めの医療で治療した。それが当時の医師の務めであり、患者のため家族のためと考えざるを得なかった。

 私がより思想と考えていた在宅死、自然死などは話題にもならなかった。私の中では二つの基準があって、患者が自分なら、あるいは家族なら別な方法を取るだろうと思いつつ医療をしていた。
 具体的には死に向かう患者もいわゆるスパゲッティ症候群とされるような状態、呼吸器装着、心マッサージなどが行われる時代であった。すでに心停止し死亡したと思われる体にさえ電気ショックを与えた。振り返ってみて無駄な医療であったし、あるものは形式的な、儀式的な臨死期の治療であった。このような姿勢は医師の自己擁護のためでもあった。

 昭和53年母が64歳で肝不全で、昭和58年父が79歳で急性心筋梗塞で死去した。そのどちらも私は大学の当直の日であったが、家内から連絡があった時に、そのまま治療せずに看取ってくれるよう指示した。どちらも私はいわゆる死に目には会えなかったがそんなことは問題でない。
 私は二人の性格を考え、病状を考えて判断したが、今から考えてもいい選択をした、いい最期を迎えさせることができた、と思っている。

 昭和60年中通病院に就職した。その理由はいくつかあったが、自分の医療観に沿った医療をやりたかったこともその一つであった。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする