福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

応招義務について(2)「新型インフルエンザ」対策への参加義務はあるか?

2009年03月31日 06時30分19秒 | 医療、医学
 医師が診療を拒否できる「正当な事由」に関する古い通達は、「事実上診療が不可能な場合のみ」と明言されているのは前述の通りである。
 ところが、更に厳しく「症状が重篤である等、直ちに必要な応急の措置を施さねば患者の生命、身体に重大な影響が及ぶ恐れがある場合においては、医師は診療に応ずる義務がある」と絶対的義務を課す考え方もあり、こちらの方がより一般的になっている。なお、病院も医療機関も医師個人と同様に応招義務を負っている。

 要するに、医師法19条の理念は患者保護の面にあるため、医師が診療拒否したことで患者に損害が及んだ際には、「正当な事由」の反証・証明がない限り、医師に民事上の責がおわされることとなる。

 一方で、旧厚生省の行政解釈では「診療義務違反は医師の品位を損なう行為である」として、これを反復するような場合には医師免許取消し等の理由にもなりうるとしている。

 実は、私が今回、医師の応招義務についてまとめ始めたルーツは、「新型インフルエンザの流行期」の対策に国はすべての医師に対策への参加を求めているが、果たして医師は自らも感染する可能性が高い感染症の最前線の対策に参加するのだろうか?と考えるからである。医師には果たしてそれに応じる義務はあるのだろうか?

 私自身も県医師会の感染症等の危機管理部門の責任者として、「新型インフルエンザの流行期」には医師会員であろうと無かろうと、医師の多くは対応してくれるはず、と期待してはいるものの、果たしてそれは医師としての義務なのか?好意なのか、倫理観なのか、と言う疑問は常にある。また、それによって医師への要求度も変わってくる。

 本日まで私が得た結論は、「新型インフルエンザ」対策への参加については少なくとも応招義務などの法的な縛りや義務はない。国民が困っている状況の最中にその対策に参加しないことは「医師としての品位、品格」が問われる、と言うところに拠り所を見出すしかなさそうである。

 勿論、「新型インフルエンザ」患者、疑い患者から直接診療を求められればそこには応招義務が発生する。
 この場合、「正当な事由」がなければ拒否できない。

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医師の応招義務(1)医師を窮地に追い込む医師法19条、21条

2009年03月30日 06時23分33秒 | 医療、医学
 医師には応招義務が課せられており、医師に対して大きな威嚇効果を発揮している。
 医師法19条1項には、「診療に従事する医師は、診察や治療の求めがあった場合には、正当な事由がなければ、これを拒んではならない」と定められている。この定めには罰則規定はないが、さりとて法的な意味がないと言うわけではなく、違反すると行政処分の対象になり、場合によっては民事の損害賠償や刑事の犯罪の成立要素の1つとなりうる。

 この医師法19条の最大の問題は「正当な事由」の範囲が狭すぎること、内容に具体性を欠くことにある。「診療を拒める正当な事由」の解釈が示されたのは、50年以上前の行政通知である。それは「医師の不在又は病気等により、事実上診療が不可能な場合に限られる」と厳しく限定するもので、その通知が今も一人歩きしている。
 だから、何らかのトラブルがあった際など、拡大解釈されて医師側に応招義務違反と非が加算されることもあり得る。
 要するに勤務医が厳しい勤務環境において如何に疲弊していようと、法はお構いなしに医師に診療を強制している。

 これは医師法21条の「医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と定めた医師法21条と同様である。
 ここでは「異状死体の定義」が曖昧模糊としていたことに問題があり、従来は診療関連死は対象外であったが、都立広尾病院事件、福島県立大野病院事件は異状死体の定義が拡大解釈され、院長や執刀した医師が逮捕された事は記憶に新しい。

 この医師法21条は福島県立大野病院事件を切っ掛けに改正の気運が高まり、異状死体の届け出も警察でなく調査委員会にした新しい法案が準備されているが、政治の混乱でまだ国会には提出されていない。

 医師の応招義務についても一律に縛るのではなく、その内容を明らかにすべきである。診療応招があっても担当医他の受け入れ態勢の状況、患者の疾病め緊急重大度、診療の困難度、その地域での診療の代替機能の程度の相関関係によって、個別具体的に判断されねばなるまい。

  医師の応招義務についても医師法21条と同様に現在の医療事情を踏まえた早急な再検討が望まれる。現在の解釈のままだと、疲弊した医師が診療を求められ、患者が思いがけない経過をたどった場合、異状死として24時間以内に警察に届け出を求められ、場合によっては刑事・民事事件の被疑者にされることもあり得る、と言う事になる。
 何と厳しい環境であろうか。最近は患者から医師の応招義務を楯にとった診療要求の発言がでることもある。
 

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最近の医療情勢など 管理職会議の閉会の挨拶から

2009年03月29日 06時06分38秒 | 医療、医学
 本日は第2回の管理職会議にご出席いただき、「21年度の事業計画」を中心にご討議戴きまして有り難う御座いました。
 最期に締めの挨拶の指名ですので2-3の話題に絞って述べ、その責を果たすこととします。

 さて、平成20年度のうれしい話題は、社会医療法人の認定を受けたことです。私どもの法人は救急医療の分野で中通総合病院の実績をまとめ認定を申請しました。審査自体はとても厳しいものでしたが、各委員は私共の病院の実績を何れも高く評価しておりました。私共の病院の公益性が一層認められたことになりますが、一方では新たな責任も生じた事を自覚しなければなりません。

 残念であったのは当院が今回もまた「がん診療連携拠点病院」の認定が受けられなかったことです。今回申請された30医療の中で当院は充分認定条件を満たしているとの評価を受けております。しかし、30病院のうち認定を受けられなかったのは僅か2病院のみで、何とその2病院とは市立秋田総合病院と当院でありました。結局、不認定の理由は30万都市に大学を含め5つの拠点病院は不要であるという事であり、秋田組合総合病院は秋田市の北部にあるので、遅れている北秋田医療圏のがん診療機能を補填する事が期待される、と言う理由でありました。
 いずれにせよ、この様な拠点病院の認定は地域単位に認めるのではなく、拠点病院として充分機能出来るか否かで判断されるべきです。間もなく認定病院の見直し時期を迎えますが、私はこの点を今後も主張し続けていきます。
 勿論、今後がん診療については認定の有無に関わらず重点的に進めていきます。

 医療機関の運営は近年、一層厳し久なってきております。
 先週発表されました病院経営実態調査では、今年度前半の病院収支はあのマイナス3.16%の削減の時を上回る悪化傾向が明らかにされております。赤字病院の割合も4%程増加し76%に拡大しております。その原因は医師不足、診療抑制等によります。
 全国的に見れば、自治体病院が地方交付税の削減によって運営が困難になっておりますし、県内事情をみれば10日ほど前に県が厚生連に13.5億円の補填を決定したニュースでみても明らかなことです。私は税金を使って補填したことに関してはやむを得なかったと評価していますが、助成を受けた厚生連も県も県民に対して説明責任があります。私はそれを楽しみにしています。

 さて、この様な厳しい医療環境の中で私共が発揮出来る強みというのは何なのか、と言う点を振り返って見ます。
 まず第一は、明和会に、各院所に、中通総合病院に相談すれば何とかなる、何とかしてくれる、と言う、私共の先輩諸氏が築いて来た地域住民の信頼感はまだまだ生きています。これを大事にしていくことが基本です。
 第二は私共の法人には数々の施設があります。これは近隣の同規模病院にはない決定的な特徴であり、強みであります。これからの法人の発展のためには法人内施設の連携強化を高めることによって医療制度の締め付けを乗り切っていく事が重要と考えます。
 来週から私共の病院はDPC病院となります。DPCの一つの特徴は効率的、かつ標準化医療の実践にあります。ただ、この医療の生き方は私共の求める、「患者の立場に立つ、暖かい医療の実践」と言うことに相反する一面を持ちます。30万都市である秋田市に於いて大学病院を含む5病院が全てDPC病院になり、効率だけを求めるのであれば秋田市民の健康は到底護れません。
 私共はDPC病院として、かつ、設立以来の理念を大事にした医療を展開するために、医療難民を発生させないようにするために、いろいろな医療展開をしていきます。
 そのためには、法人外の医療連携を大事にしていくことは当然ですが、法人内の有機的連携の強化による医療展開こそが、DPC病院として私共だけが出来る特徴であり、市民を護り、私共自身を護る鍵であることを強調し、法人各院所の重要な立場にある皆様方に、改めてご協力をお願いいたします。

 さて、最期にしますが、4月12日は知事選挙です。
 秋田県は年間1万人もの人口が減少し、地価の公示価格はどんどん下がっています。一方、高齢化が進みます。要するに秋田の活力は低下しつつあり、県民が生計を立てて生きることすら困難になっている事が示されています。このままでは秋田は沈没します。この様な環境の中で私共が如何に良い医療を展開しようと計画しても実現は困難です。
 私共は県民の一人として秋田県を活性化する事も考えなくてはなりません。さりとて出来ることは限られます。その中では選挙で秋田を活性化するであろう知事を選ぶ事はわれわれ法人の今後にとっても重大です。ぜひその様な立場で投票して頂きたいと思います。さらに、麻生氏の動向、オバマ氏の采配にも注目することが必要です。

 本日は30分も進行が遅れましたが、いろいろディスカッション頂き有意義な会であったと思います。本日戴きましたご意見・提言は今後の法人の運営に生かしていきたいと思います。本日は大変ご苦労様でした。

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主治医は悩み、安堵し,ガックリ来る 診療報酬支払基金審査会から査定

2009年03月28日 07時28分39秒 | 医療、医学
 約一年ほど前になるだろうか、40歳前後の女性が高熱、全身倦怠感、食欲不振、身の置き所のないほどの全身痛を訴えて受診し、入院した。

 入院後も41℃にも及ぶ高熱、腹痛、理解不能な肝機能障害を中心とする広範な検査値の異常、原因不明の咳嗽、とかで全身状態が急速に悪化、検査値も悪化の一途をたどり、経過によっては死亡の可能性も頭を過ぎった程の病状であった。

 初診時の印象は、一般的感染症の他、何らかの原因による免疫能低下による持続性ウイルス感染症をはじめとする特殊な感染症の急性増悪の可能性も否定できなかった。また、1年以上も前からの体調の変化、脾臓の腫大なども伴い膠原病類縁疾患、造血器系の悪性疾患も否定できなかった。

 この様な重症の患者を受け受け持つと主治医は心安らかならずで、患者の状況に併行して自らの体調も落ち込み、他の業務も疎かになり、熟睡できないなど、なかなか辛いものである。
 まずは救命である。そのために早急に診断確定を要する状況にあり、私は短期間に種々の感染症、血液疾患、膠原病を指標に検査を施行した。
 結果的に膠原病の一種と診断して治療し、幸い小康状態に至り、今は元気で過ごしている。ずいぶん苦労したが、それだけ患者の笑顔は私に大きな満足感をもたらしてくれる。

 ところが、数ヶ月前に保険診療の審査会から、クラミディア、亜型HBウイルス肝炎、マイコプラズマ、トキソプラズマ感染症に関する抗体検査が過剰、あるいは重複という項目にチェックされ保険診療として認められないと査定されて戻されてきた。要するに、保険診療では認められないからその費用は医療機関で負担しなさい、ということであった。私は再々度ガックリと落ち込んだ。

 これは理解できない査定である。多分、審査会では感染症に関連する検査を総花的に検査し、保険診療の範囲を逸脱している、と問題にしたのだろう。が、主治医は出来るだけ検査は少なくするものであり、総花的に検査することはない。

 この様な急速に病状が変化する患者を前にして、上記の如くの感染症を診断、あるいは否定するための検査をすることは誤り、あるいは過剰なのだろうか。だとすれば、主治医は何を手がかりに診断を進め、治療すればいいのだろうか。

 この患者は、これらの検査結果を参考にしながら激症型のあるタイプの膠原病と診断し、ステロイドホルモン大量療法で救命できた。
 もし、これらの感染症の可能性を考えずに、あるいは否定せずにステロイドホルモン投与をすることは病状をむしろ悪化させる事につながる。患者の命をあずかる主治医としては出来難い事である。想定される疾患に関して検査が出来る環境にあるのにそれをやらないで診断と治療を進めることは医療面でも、倫理面から見ても許されない、と思う。

 ということで、「この患者にとってこれらの感染症関連検査は必須だったと考えるので再審査をお願い致します」、と柔らかに表現した書状を認めた。
 結果が楽しみである。

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私の深意は「無関心」、「面倒くさがり」なのだ

2009年03月27日 08時24分45秒 | コラム、エッセイ
 小説「草枕」は1906年に漱石自身が「美を生命とする俳句的小説」と称したように、豊かなロマンチシズムを漂わせた初期の名作である。私は途中までしか読んでないが、出だしの「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」は特に有名で私は好きである。語呂も良いが、人間通しの付き合いの難しさを端的に表している。彼は程々に周囲の意見を受け入れ、ほどほどに対処していくのが無難なパランス感覚なのだ、と言いたいのだろう。

 一方、「水は方円の器に随う」という言葉もある。これも私が好きな言葉の一つである。水の如くどんな器にも合わせられ、あまりで目立とうとしない生き方に、何か安らぎと、日本的な風情を感じ取る。周りに合わせるだけでは自分の存在感すらなくしてしまうが、どんなに周りに合わせても水の価値が下がることはない。むしろ、高まって行く。

 私は立場上、自ら備える性格や心情とは異なる生き方をしなければならない。常識的、良識的であることが求められている、と思っている。だから、毎日が演技であり、これが多大なストレスのものとなっている。忘年会等では余興を頼まれることもあるが、「毎日が演技で、そのうちの一部は余興でもある。だからもう出し物はありません」と答える事にしている。

 一方では自己主張が強過ぎると周囲との軋轢、摩擦が多くなり、自らがストレスを負う事は確かである。
 私はかなり自己主張が強い、煩わしい人間の一人と思われているフシがある。自分の言動を顧みれば、そう言われても仕方がないが、実は自分としては全然そう思っていない。あえて言えば、「無関心」、「面倒くさがり」が深意であり、それを自覚しているがために意識的に逆な言動をしているのだ、と思っている。

 いろいろな会合の際に意見を述べることはある。求められもしないのに出しゃばることもある。しかし、それに固執しないし、主張し続けることはまず無い。「私はこう思う」、と表現すれば私にとっては一件落着であって、大部分は後はどうなろうと関心外事項となる。

 ただ、立場上自分の好みだけでやっていけないところ、発言にはそれなりの責任を伴うから、しゃべりっぱなしに出来ないこともある。その常識的なところも備わっていることが私の更なる悩みとストレス源になっている。

 こんな取り留めもない事を、肩をいからさず、徒然と、とろとろと綴りたい朝もある。

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