福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

藤田嗣治(4) 画集:藤田嗣治 生涯と作品 内呂博之著 東京美術KK 2013年

2016年03月31日 11時26分01秒 | コラム、エッセイ
 東京美術KKは、歴史・美術を中心に専門書を出版してきたが、近年はよりわかりやすい入門書も出版している。その中でもアート・ビギナース・コレクション「もっと知りたい」シリーズは2000円以下で購入できるオールカラーの美術書で、私の本棚にも何冊か並んでいる。

 このシリーズの中に藤田の号がある。
 画家の作品は世界的に著名であればあるほどその作品は世界中の美術館に収蔵されており、いかに興味を持っていてもその多くに接することはできない。それを補ってくれるのが画集である。その点この画集はその目的のために十分な価値を持っている。
 この画集は留学前の婦人像、自画像から始まり、ほぼ年代順に作品が提示される。

 1921年パリ在住の間に藤田の画風が確立していった足跡を見ることができる。乳白色の肌色を持つ女性像が多数生み出されはじめる。1937年秋田の行事を書き上げた後、戦争画に手を染める。

 1949年藤田はフランスに戻り洗礼を受けレオナール・藤田となる。その後は宗教画、子供達の表情、パリの市井を描くが、本画集に収納された作品はいずれも見応えがある。藤田が愛してやまなかったネコたちの描写も素晴らしい。 
 1966年、ノートルダム=ド・ラ・ぺを自らの設計で建立し、人生の集大成となる壁画を完成させた。1968年に81歳で永眠し、この礼拝堂に眠っている。

 明治半ばの東京に生まれた藤田は、27歳で渡仏、翌年勃発した第一次世界大戦にもめげず現地で生活する中で、「乳白色の下地」という独自の技法を確立し、日本人として初めて油彩画の本場パリで自活しうる作家となった。

 太平洋戦争下で描いた「作戦記録画」の問題が大きく影をさし、死後もその不信感が消えることはなかったが、1968年に81歳でこの世を去り、夫人か2009年に亡くなり、手元に残していた藤田の遺品や作品、蔵書、日記や写真類が美術館や大学に収蔵された。これ以降、作品を核とした研究が行われてきた。それによって藤田の名誉が回復していることは喜ばしいことである。

 このシリーズの藤田の巻は、約60年間にわたる藤田の生涯、創作活動を概観できる作品となっている。見応えのある画集である。
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藤田嗣治(3) 秋田県立美術館 展覧会「藤田嗣治の小宇宙」

2016年03月30日 14時03分51秒 | コラム、エッセイ
 秋田県立美術館で1月21日から「藤田嗣治の小宇宙」開催されていた。
 1月から水曜日が原則フリーとなったのでいろいろな模様しものに出席できる。コレが楽しみである。早速この時間を利用して3月16日秋田県立美術館を訪れた。

 展覧会「藤田嗣治の小宇宙」では副題として「私のアトリエにようこそ」の題名がある

 配布パンフレットによると、藤田が日本に構えたアトリエは4室を致える。それに秋田市の平野政吉の土蔵も加えてもいい、とある。
  @1 渡仏前、妻・鴇田とみと暮らした大久保(現東京都新宿区)。
  @2 1933年の帰国後に建てた戸塚(現東京都新宿区。
  @3 戦争画を描くために洋風に改築した下六番町(現東京都千代田区)。 
  @4 戦後、疎開先から戻った江古田(現東京都練馬区小竹町)。
  @5 壁画「秋田の行事」の制作現場、平野家の米蔵(秋田市)。
 戸塚以降、藤田は制作のモチベーションを高めるインテリアを整えていた。画家の小宇宙であるアトリエは、藤田の場合、閉じられたものではなく、常にその窓は「時代」に向けて放たれていた、という。

 この展覧会では、アトリエの室内を描いた作品とそこで制作した作品、あわせて写真や資料を展示し、藤田が日本で営んだアトリエが紹介されている。

 写真資料は土門拳記念館所蔵の作品、模型資料も展示されている。
 絵画の大部分は平野政吉美術財団、秋田県立近代美術館、県立美術館所蔵の作品が中心であったが、聖徳大学所蔵の「優美神」を見ることができた。図鑑では見ていたが、これを直接見ることができたのは大きい収穫であった。私は絵を見る技能も知識もないが、この絵はボッテチェリの名画「春」の影響を濃厚に受けている。


 藤田は1886年東京に生まれたが、1937年に秋田の行事を成して秋田とも関係が深い画家である。私はこのようなこともあり邦人画家としては最も興味を感じているうちの一人である。美人画、戦争画をはじめとして、自画像、ネコの作品が私を惹きつける。

 今後も機会を得て藤田嗣治の作品のみならず人となりにも触れてみたい。
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徒歩通勤2016(3) 島根を通過し山口県に 

2016年03月29日 04時41分43秒 | 徒歩通勤 ウォーキング
 平成13年3月から始めた徒歩通勤、実績が積算できる歩数計「平成の忠孝」の積算開始が4月7日から。約3年かかって本日Σ8326Kmに達し、山陰の島根を通過、山口県に到着した。
  
 島根県に入ったのが1月9日、島根の海岸線は422.2Kmと長くはなかった。山口県の海岸線は結構長く762Kmである。東京を発って北上してきたが、いままで通過した18都道府県の中では北海道に続いて2番目に長い。

 私は通勤の帰路は時間の関係で徒歩にはなかなかし難いが、往路は可能な限り徒歩にしている。しかし、最近、歩行距離数がとても少ない。冬の不安定な空模様とも関連したいている。そのために外で過ごすというよりは室内で蓄積したデータの整理をしながら、あるいは本・文献を読んでいる時間が大幅に増えたからである。それに私の気力・意欲の減退も関連している。

 島根県の海岸線422Kmを80日かかった。約5.3Km/dayである。鳥取は約5.0Km/dayで通過したから若干伸びたが、目標値の1/2程度に過ぎなかった。

 島根県は私にとっては遠い存在である。学会で一度訪れた記憶はある。
 私は旅行嫌いで、私が国内各地を訪問したのはほとんどが内科または血液学会総会関連の出張であった。最近の学会は学会長が地方大学の教授でも東京などの大都市で行われる。私には都合がいいのであるが、学会出席の意欲も次第に萎えてきた。その他の地方都市訪問は医師会関連の出張、大学の同窓会のみだった。

 30年ほども前、出雲で血液関連学会が行われ、そのとき訪れたことがあるが、学会の記憶はほとんど無い。当時は神仏、宗教に関する興味はほとんどなかったが、立ち寄った出雲大社のたたずまいは荘厳で素晴らしいものであった。ここに全国から10月に神様が集まって来ると言うのも面白い。

 島根県は海岸線を進む毎に、松江市、出雲市、太田市、江津市、浜田市、益田市と通過する。全二者以外は聞いたこともなかったが、通過するたびに地図で確認、産業、輩出した著名人などについて学ぶことができた。

 いま通過中の山口県の海岸線は762Kmもある。無理せず2け月半かけて通過したい。
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映画:スティーブ・ジョブス(2) 私には期待はずれだったが理解は進んだ

2016年03月28日 16時25分30秒 | 映画評
 Apple製品のユーザーは次々とアイデアを実用化したS・ジョブス氏と共に生きていた。

 彼のアイデアは単に機能面の改良、高度化ではなく、常に斬新かつ素晴らしいデザインの改良を伴っていた。彼はコンピューターだけでなく、iPod、iPad、iPhoneなどを世に出し、ITを通じて全世界の文化に大きな影響を与え,その一部をすっかり変えてしまった。S・ジョブス氏は変革者であった。

 氏の発案による、Mac、iPod、iPad、iPhoneなどは手に入れたあと、ユーザーは機器を自分独自の環境に構築する喜びと、使う喜びを与えた。この発想は実に素晴らしい,と思う。

 私自身、Mac、iPod、iPad、iPhoneなどのヘビーユーザーの一人であるが、これらの製品に使われているというイメージやストレスはなく、本当に喜びが大きい。どんな製品でも完成度の高いものにはそれなりの喜びがあるが、自分を燃やしてくれるものはそれほどあるわけではない。強いて言えば1740年製とされるヴァイオリンの購入であった。そこから出てくる音色は芳醇で、使うたびに喜びを感じていた。

 Apple社の魅力的な商品は、市場調査とか顧客ニーズを探ることで生またものではない。氏はほとんど全品自分で考えて生み出した、とされる。ユーザーのニーズを開拓するためには、ユーザーの半歩先、一歩先のものを想像する必要がある。顧客ニーズに沿っているレベルではマイナーモデルチェンジ、機能の改善程度しかない。

 氏はAppleという一企業の、常識的な経営者ではない。会議で、彼は思ったことをどんどん発言し、会議をリードし、決定の時には周囲の意向を一応聞くが、結論は自分の発言そのものだったという。
 彼は独善的だ、独裁者のようだ、という評価がである。彼がとことん考え抜いて、モノ作りやその作り方に一切の妥協を許さなかったとされている。

 最近の日本企業は何らかのヒット商品を出すと、定期的にモデルチェンジをして満足しているから、消費者を引きつけられない。氏の生き方からからわが国のメーカーが学ぶべき点は多い。

 氏の極端な行動だけを見ると、エキセントリックで変質者的なところが見え隠れする。この実に魅力的に見える天才は、一面では人格的に相当に問題をはらんだ人物だったことは本当であったらしい。せっかちで、いらついていることが多く、他人を批判するときは容赦しない。対立も、孤立も、異端であることも恐れない。いや、そのような環境こそ氏にふさわしいもので、その中でしか自分を燃やして生きられなかったのだろう。

 彼を長い間支えてきた妻も「人類を前進させることは大切にしたが、他人の身になって考えるという社会的スキルを持ち合わせていない」と彼を表現する。氏の死後に出版された自伝の中にある記述である。

 「自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えている」、氏の言葉である。
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映画:スティーブ・ジョブス 2本目の自伝映画 私には期待はずれ

2016年03月27日 02時17分04秒 | 映画評
 スティーブ・ジョブス(1955-2011年) は米Apple社の創設者で数々の革新的な商品を世に出し、「世界を変えた男」と称されるが、膵臓癌のために56歳の若さで早世した。

 私は1993年に、Colour Classicを入手して以来、ずっと今までApple製品を愛用してきた。パソコンだけでも30機種ほど用いたと思う。今も家内分のを入れて自宅で3台、職場で3台使用、不調時のバックアップ用に1台現役で働いている。

 自室で本や新聞、文献を読んでいる時間を除くと大部分の時間、ディスプレイに向かって過ごす。マックのパソコンは私の生活そのものと言っても過言でない。しかも、マックと共に過ごす時間はストレスではなく、創造力も掻き立てられるから私にとっては喜びでもある。その他、iPod、iPad、iPhoneなどApple製品に対象を広げて考えて見ると、ほぼ24時間、通勤時間、寝ている時間も含めてそのどれかが稼働している。
 
 製品そのものの興味とは別に、S・ジョブスについてもずっと興味を抱いてきた。自伝も読んだ。彼はIT分野を通じて世界中に新たな文化を創造した。彼はアイデアの人だったし、アイデアを実用化に結びつける、行動力、企画力、説得力、経営力を兼ね備えた希有の人だった、と思う。

 2013年には伝記映画「スティーブ・ジョブス」が完成し、世界各国で上映されたが、私は残念ながら見逃した。
 
 本年、2本目の伝記映画,同名の「スティーブ・ジョブス」がリリースされ、今回それを観た。
 2本目ではあるが、前作を見ていないだけに私にとっては期待が大きくもっと味わい深いはずであった。しかし、私の期待は裏切られた。私は彼の足跡がもっと具体的に映像として具現されることも期待していたが、彼が成し遂げた業績を取り上げたわけでなく、上映時間の大半が共同経営者やCEOとの激しい口論、声高の論争、その間の彼の苦渋に満ちた不機嫌な顔で時間が占められた。

 この映画が描いたのは、彼の卓越した能力である新商品のプレゼンテーションの展開とその裏側であるが、そこに波乱に脚ちた人生の光と影を集中的に描写し、ドラマを表現した。見ていて痛みを感じるような緊張感の中、S・ジョブスは自らの信念を決して曲げず、常時エキセントリック興奮し周囲を振り回す。

 人間性の乏しい、複雑怪奇なカリスマの肖像が示された。見ていて苦しくなる内容で、私は楽しめなかった。ただ、私が知らなかったS・ジョブスの一面に興味は感じた。

 ストレスと発がん、この間にやはり直接的関連があるのだろうか・・とも考えた。

 
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