福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

石亀協子ヴァイオリンリサイタル 素晴らしい一夜であった

2011年01月31日 05時14分31秒 | 音楽談義
 1月21日夜、秋田市のアトリオンホールで秋田出身のヴァイオリニスト石亀協子さんのリサイタルがあった。「大樹の雫」と銘打った初のCDの発売記念とのことである。

 ピアノは中川賢一氏で、演奏曲は■ストラビンスキー「イタリア組曲」■ブラームス「ソナタ第一番」 ■ケージ「ノクターン」 ■クライスラー「愛の喜び」「美しきロスマリン」 ■ラヴェル「チガーヌ」「ソナタ第一番」 、で他にアンコールとして「浜辺の歌変奏曲」ほかを演奏した。

 石亀さんは中学生頃まで秋田に住んでおられ、我が家の次男と加藤道子先生のヴァイオリン教室の同門生で、小学生の時から知っていた。そんな背景もあって数ヶ月前から楽しみにしていた会であった。
 当夜、石亀さんは上記の難曲を安定した技術で、豊かに弾ききった。実に素晴らしい会であった。私は終始固唾を呑んで聴き入ってしまった。何度も聴き慣れた曲であったが、彼女の表現の中に新発見がいくつもあった。会場で家内がCD「大樹の雫」を購入した。これも素晴らしい録音である。当日演奏された曲が収録されているので当日聴けなかった方にお勧めである。

 石亀さんは小学生の時から技術、表現力ともダントツで、年に一回の教室の発表会では難曲を引きこなし、将来が嘱望されていた。中学の頃に東京に移り、浜離宮朝日ホールにてデビューリサイタルを行い、桐朋女子高音楽部、ウィーン国立音楽大学、リューベック国立音大学へ進み、研鑽を積んだとのことで、現在はフリーで世界各地の音楽祭から国内のコンサートまで幅広く参加して演奏と後進指導を行っている。 仙台フィル、東京フィル、東京シティ・フィル他のオーケストラと共演したとのことである。

 秋田ではソロリサイタルは今回が初めてと思うが、アトリオンオーケストラ演奏会には時折賛助出演をされていたし、秋田大学の創立記念祝賀会等でも演奏していた。2008年8月31日にはアトリオンオーケストラ第29回定期公演「秋田から世界へ 郷土が生んだ若き音楽家たちによる協奏曲の祭典(1)」で、松尾葉子指揮の下でモーツァルト/ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」を演奏した。この時、石亀さんは特に緩徐楽章を美しく演奏したことを思い出す。
 これを機会に、今後も定期的に秋田で演奏会を催されることを望みたい。
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寄付文化の育成はこれからの国の運営を左右する

2011年01月30日 13時04分02秒 | コラム、エッセイ
タイガーマスクの善意、これには多少の問題があると思うが、これを考える中でわが国の寄付の実態はどうなっているか?と興味を持った。

わが国には寄付文化が育っていないと言われる。米国などの主要先進国では民間機関がそれぞれの国の寄付のレポートを公表し寄付への感心や意欲の高揚など で有益な働きをしてきた。しかし、日本ではそのような集計はなく、日本社会の寄付の全体像や変化が見えず、統計的にも不明であった。

そのような背景もあって、この度「日本ファンドレイジング協会」なるところが昨年「寄付白書 2010」 を発行した。インターネットを利用した調査で5.000人ほどから回答を得たという。それによると2009年の個人・法人の寄付額は、日本は1 兆395億円で個人が53%、その他が47%と個人よりも法人が多い。米国は25兆4196億円で個人が83%、英国は2006年のデータであるが1兆 9386億円で個人が71%となっている。
わが国は総額も小さいが個人の寄付の割合が小さい。個人の寄付の内訳は、共同募金約20%、災害支援約10%、日赤7%、国際協力6%等であった。この 個人寄付の額を国内総生産GDP比率で見ると米国1.4%、英国0.68%、日本は0.12%と経済力の割合にはとても小さいことが分かった。また、一年 間で寄付をしたことのある家庭の割合は、米国66%、英国54%であるのに対して日本は34%と低い。寄付した方の一人あたりの額は1.5万円ほどだと言 う。

日本人には、税金を納めているのだからこれ以上寄付する必要はない、との考えがあるようだ。また、日本で寄付が広がらない理由の一つに「寄付の使途が不明確」という声がある。だから、受げ取った寄付の使い方が分かるような惰報の公開は必要である。

わが国の経済は厳しい状況にある。歴史的にわが国では多くの事業を行政や私企業が担ってきたが、これらだけでは手の届かない社会問題はが増加し、まかな いきれなくなりつつある。国の負担を広げるには増税が問題になる。わが国の政府は経済的には既に破綻していて国の借金は900兆円ほどになるが、一方では 個人金融資産は1.500兆円、企業の手元流動資金は200兆円もあるとされているので、民間や企業からの寄付は今後の国の運営にとても重要である。
わが国にも寄付文化が育っていくこと、育てることが重要と言うことになる。私は比較的ケチな方であるが、日本人全体はそんなにケチな国民ではないはずだ、と思っている。
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匿名化、顔の見えない社会はまずい(12)匿名は責任の放棄

2011年01月29日 11時52分19秒 | コラム、エッセイ
 全国で児童養護施設などに匿名でお金や物が届けられた。善意は善意として大いに支持するが、マスコミに大きく頻回に取りあげられることで次々と連鎖した面も否定出来ない。その面ではマスコミが果たした意義も小さくない。

 ただ、マスコミは何故こぞって今回の件を取りあげたのだろうか?
 朝日新聞の12月中旬頃の社説には「施設はこれまでも、様々な善意に支えられてきた。地域の飲食店が食事をふるまったり、篤志家がスポーツ観戦に招待したり。そうした営みはとりたてて光が当てられることもない。・・・」と述べているが、マスコミが自身の報道姿勢を示していてとても面白い。私は、本来この様な地味な、かつ継続的な活動ほど注目されるべきだと思っているのであるが、マスコミはハチの眼と同じで動きの乏しい対象は視野に入らないらしい。

 わが家ではほぼ定期的に各所に寄付をさせていただいている。ユニセフ、あしなが育英会、国境のない医師団、自然保護団体、音楽関連団体などであるが、自然災害への義援にもそれなりに対応している。私は少額であってもしっかりと記名して送っている。時折、家内宛に見知らぬ所から領収書と感謝の手紙が来ることもある。

 匿名というのは格好が良いが、例え善意であっても無責任な行為である。物事には必ず表と裏がある。寄付や贈り物が全て結果が良いと限らない。特に物品の場合は事後に問題が生じることもあろう。ランドセルが、数の関係で当たらない子どもが出たらどうするのだろうか。余ったらどうするのか。衣服が大量に送られた施設では善意に感謝しつつも費用をかけて処分せざるを得なかった、と言うところもあったと聞く。寄付する場合にはこの様な結果についても責任を負わなければならない。匿名は責任の放棄であり、何ともしようがない。

 寄付行為は貴重である。社会の全てにわたって行政が、税金でカバーするのは不可能である。これからの日本は特にそうだろうと思う。わが国は経済的に豊かな他の国に比べて寄付と言う面では貧しい国と言われている。寄付行為が文化になっていない。とある国では、これは米国のことであるが、経済格差の大きい米国では社会のために「身の丈にあった寄付をする」ことが一つのステイタスになっているのだそうだ。わが国でも徐々にこの様な考え方が広まってくれば良い、と思う。

 朝日は社説の中で更に、「景気も厳しい冬だ。タイガーマスクが灯したのは、子どもたちに加え、日々を忙しくやり過ごしている普通の市民の気持ちだったのでは・・・。だとしたら、善意を効果的に届けるには、寄付文化を根づかせるには、どうしたらよいか。照れや気負いの覆面を外し、考えるきっかけにしたい。」と述べ、結んでいる。

 腰の据わった寄付文化を育てるためには、まず匿名という、一見格好の良い、無償の善意、等と評されるような暖かい善意のレベルから一歩超えて陽の当たらない領域を自分も参加して支えるのだという意識が求められる。
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匿名化、顔の見えない社会はまずい(11)募金も寄付も匿名でない方が良い

2011年01月28日 07時46分13秒 | コラム、エッセイ
 昨年暮れ、前橋市の児童相談所に人気漫画であった「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」の名前入りの手紙が添えられたランドセル10個が届けられた。その後、全国で児童養護施設などにお金や物を届けるという現象が同時多発的に起きた。このことをめぐってマスコミも一斉に取りあげていろいろ論じている。

 私は「伊達直人」を知らなかった。てっきり「菅 直人」をもじった名前と思ったのであるが違っていた。伊達直人は約40年前の人気漫画アニメの主人公の名前とのことで、覆面レスラーの彼は出身の孤児院にファイトマネーを贈り続けた、と言う。そのことを知っている方がその名前を借用したのであろう。「伊達直人」からの贈り物はその後も各地で次々と報じられた。数10件はあったようである。男鹿市観光協会にもなまはげ関連で使って欲しいと現金10万円が届けられたという。

 善意のお金や物品を受け取った施設はどこでも歓迎しているようだし、マスコミの論調も、投稿欄に取りあげられた読者や有識者の意見も総じて大歓迎としている。中には「日本的な善意」と表現して新しい寄付文化を醸成する機会になればいいと評論している。  

 確かに、自己の損得とは無関係に寄付や支援を行う「粋」で美しい行為と言うべきであろう。昔からわが国では罵志家と言われる方々からの寄付、あるいは募金活動にお金を入れるといった「草の根の寄付」が良い意味で支持されてきたが、最近は両者ともすたれつつあるという。

 貴重な善意であるから、反対意見などある筈もない、と言いたいところであるが、私は「善意」は大いに支持するが「匿名での行為」は是としたくない。それは、匿名による他人に対する中傷や悪意が許されないとのと同じで、例え善意であっても「匿名を是とする考え方」、「匿名で出来る」という風潮に共通の問題点を感じるからである。送り主は何故、匿名にしたのだろうか。

 マスコミもおかしい。もし、同じ事が名前を明かして行われたとしたら取りあげただろうか?多分、取りあげられないだろう。何で実名なら取りあげないのに「タイガーマスク」の主人公「伊達直人」の名前なら話題になるのか?匿名の方に美談的意味づけがより大きいのだろうか。私は逆に考えてる。だから理解出来ないのだ。
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4年振りのボーリング

2011年01月27日 06時10分58秒 | 近況・報告
 3週間ほど前に共済会ボーリング大会の案内が来た。事務処理に追われていたから気分転換兼ね参加しようと思い療養病棟の師長を誘った。療養病棟から2チーム8人で本日参加した。

 申し込みの時点では運動不足の家内も誘って帰宅前に少しずつ練習し、200点を目指したのであるがスケジュールが合わず、かつ家内が思いがけず体調を崩したことで一度も練習出来ないままとなった。

 ボーリングは4年振りだろうか。前回もこの大会だった。会場は同じであったが、ボーリング場そのものの名前が変わっていた。経営者が変わったのであろう。前はボーリング以外にも卓球とかのいろいろな施設もあったように思うし2階にもボーリング施設があったような気がしたが今回は3階のみ。靴借用のチケットが300円もした。私の記憶では未だに50円のままだから些か驚いた。

 かつては15-16ポンド?のボールを使ったが、本日は体力を考慮、13ポンドと軽いのを選んだ。自分は2ゲームで300点と不満足の結果であった。回転をかけずに投げたのでこんなものだろう。チームは年齢で分けて高年齢の4人となった、看護師3人は途中でバテたので私が代行した。勿論、ルール違反だから記録は番外となる。結局、私は6ゲーム分投げたことになる。後半は足腰が疲れてまともに投げられなかったがいい運動になった。終了後、反省会をかねて全員で夕食を摂りながら懇談したが、気分が高揚していたからかいろいろ話が弾んだ。

 久々楽しく過ごしたが、私にとっては過剰な運動量となった。膝がガクガクした。タクシーに倒れ込む様に乗り込み、自宅の雪に足を取られながらふらふらと帰宅した。予想していたが夜半に左下肢に激しいこむら返りが生じ芍薬甘草湯の世話になった。
 今朝、いつもの如く早朝起き出しているがもう全身の筋肉痛が始まっている。これから数日、歩行、特に階段を降りるのが辛くなるだろう。楽あれば苦あり、である。
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