(4) 事実のみを記述する
私はエッセイというものは、事実を書かなくてはいけないと思っている。そういう決まりがあるのかどうか知らないし、それを破っても罰せられるわけではないと思うが、私はそういう原則を立てている。
なぜ事実を書かなくてはいけないと思うのか、自分でもはっきりしないが、たぶん私が真理を追究する医療分野の、かつては研究者の一員だったからかもしれない。
気が小さいものだから、子供の頃から日常的に嘘をついて辻褄を合わせるのはしょっちゅうであった。嘘が分かった時には祖父から激しく叱責された。幼少の折、抜き身の日本刀を片手に追い回され、本当に死の恐怖も味わった。だから時代劇は大嫌いである。また、ある時は昼でも真っ暗な食糧庫に丸一日閉じ込められたことがあったが、この時は腹いせに、どうにでもなれの心境で米櫃の米を全部床に撒きちらした。祖父も反省したのであろう、二次叱責はなかった。
気が小さいものだから、今でも生活上ではちょっとした嘘をつく傾向は残っている。ただ、文章上では嘘がつけない体質になっている。めんどくさいから相手の言うことに安易に同意してしまう。この時嘘が混じる。
とにかく、変化のない生活、文章力不足に加えて、嘘をつかないという自己規制をもっているために、わたしはブログを書くときに常に苦境に立たされている。書く材料が乏しい上に、一のものを十に引き延ばす文章力、ノンフィクション的創作力もない。私は映画やTVでもドラマはまず見ない。まだるっこしくて見ておれない。1時間番組を私に削らせたら多くの作品は10分程度に短縮されるだろう。
フィクションを入れてもいいのなら、たとえば私んちの飼いネコが誘拐され、身代金を100万円払って取り戻した、とか、ノーベル賞授与の打診があったが明らかに人違いと分かっているので葛藤はあったが辞退したと言う話とか、話題は永遠に尽きないだろう。この分野でほぼ自由に話題を発展させられる小説家を羨むばかりである。
(5) 味つけが難しい
日々の出来事一部を淡々と記述する小学低学年頃の絵日記の様な記述だけではブログには不十分である。なぜなら、私の平凡な毎日に興味をもつ人は、家族も含めてだれもいない。そこで必要になるのがちょっとした味つけである。これが大袈裟になると嘘が入ってくるから難しい。
だから、私のブログは、最も読んでほしいと思う家内からはほとんど無視されている。
私のブログの表題を「今日の医療のあり方」とつけた以上責任がある。文章の端々に医学的的感想をちりばめたいのだが、医師といえどもこれも難しい。現代医療に通用する様な感想など、もはや書けない。
この雑記帳は何者か?は、以上のように幾多の困難を乗り越えながら連日綴られている。このことだけは言いたい。名文でもなく、洞察もなく、魅力も乏しく、役にも立たないかもしれない。
「自分のために書いている」、「継続は力なり」が、私の最後の逃げ口上である。
今の時代、努力よりも結果で評価される。努力が評価される社会を実現することができるかどうか、は地道な、目立たない、この様な記述が支えている。