福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

魔法瓶様仕様の保温コップ 手で感じる温度とのギャップでヤケドする

2010年05月31日 06時24分18秒 | コラム、エッセイ


 私は家ではお茶を、職場ではコーヒーをかなり飲む。その際、決まった湯飲み茶碗、コーヒーカップだけを用いる。容器の使用感が味にも関連するからであ る。

 家で用いている茶飲みは20年以上も使っているから、縁が微妙に欠けているが色調、形も良く愛着があって捨てられない。鋭いエッジはヤスリをかけて鈍く する。職場には戸棚にカップが沢山並んでいるが、私は自身で買い求めたカップを持ち込んで用いている。偏屈なこだわりである。

 ところで、魔法瓶様仕様の保温コップなる製品があって今まで何個か戴いた。長時間、暖かさを維持できるという機能には興味があったが、十分な機能とデザ インと満足できる使用感を備えたものはなく、使い続けた品はなかった。ところが、数ヶ月前に講演に行ったある団体から記念品として戴いたサーモスと言う会 社の真空断熱マグカップ/JCP-280は比較的気に入って家でコーヒーを飲むときに用いている。
 外観はステンレス製で素材の持ち味を生かした直線的デザインで、数時間は温かいコーヒーを楽しむことが出来るからとても便利である。熱湯を入れても外側 は殆ど熱くならず、 冷水、氷を入れても結露しないから本などを濡らすこともない。なかなかの優れものである。

 ただ、決定的問題点がある.飲んだときに口をヤケドすることがあることである.通常の茶碗やカップならば手の感覚で熱さが予想できる.だから飲み方も調 整できる。しかし、このカップは全く熱くならないからついグッと口に含んでしまう。何かに集中しながら飲むときはつい何度かやってしまう。

 今日も2-3度やってしまった。軽いヤケドの後によく出るアフタが出来ないことを望んでいる。
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口蹄疫(4)牛さんのお肉、豚さんのお肉、お魚さん・・・と呼ぼう

2010年05月30日 12時19分15秒 | コラム、エッセイ
 口蹄疫は関係者の努力と犠牲のもとに蔓延を防止する努力がなされているが未だに感染が広がっており、処分される牛や豚も増えている。16万頭ほどが対象となり、連日5千頭ほどが埋められているらしい。また処分対象地域の外の地区でも可及的に食肉化して家畜を一切居なくする方針なのだそうだ。
 何と可哀想な、と思う。人間に食べられる運命のもとに生まれる命であっても、生きている間は喜びもあるはずだ。実に不憫である。

 私どもが生きていくためには必ず食べなければならない。
 食べるということは他の生命体そのもの、あるいはそれらから得られるものを食品として口にすることであり、果物や卵、乳の利用などもあるだろうが、多くの場合、他の生命体の命を奪うことになっている。食品の多くは動物であれ植物であれ、その生命活動を頓挫させることで行われている。植物であれば日常的に「命」を意識することは多くはないが、人手にかかって枯れる前に採取されている。
 動物の場合には命を奪うことになるが、私は自分たちが生きるために家畜等の命を奪うことの意味を意識してきた。多分、小さな時から家畜やペット、虫たちと共に過ごしてきたからかもしれない。また、直接自分で獲ったのではないが、猟銃で得たキジやウサギをさばいたこともある。近くの農家から生きた鶏を譲っていただき、さばいたことも何度か経験している。そんなこともあってか自分たちの都合で動物の命を奪うことに畏怖の念はあった。

 今、実際に牛や豚の日常の姿に触れることはない。今回の口蹄疫の問題で改めて知ったことであるが、旺盛な人間の経済活動の中でいかに多くの生命が人為的に奪われているのか、本当に驚くほどである。今回の口蹄疫問題で牛や豚が「とさつ」「殺処分」と、殆ど物品のごとくに扱われているのを見聞きするのはとても辛いことである。

 私は物流の段階を別にして、販売店とか、家庭では「牛肉」「豚肉」・・等と呼ばず、「牛さんのお肉」「豚さんのお肉」・・等と呼んではどうかと思う。これによって小さなレベルであるが人間の生きる意味を考えさせてくれるのではないか。我が家では今日からそう呼びたいと思う。
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政権後退(12)福島党首が消費者・少子化担当相を罷免になっていた

2010年05月29日 13時05分00秒 | 政治・経済 国際関係
 私は福島党首が前面に出て主張している基地の沖縄県外移設の姿勢は、最後まで妥協しない姿勢を貫き通すパフォーマンスで、最終的には連立を組んでいる立場から首相の判断に沿うか,あるいは主張を通して自ら大臣を辞任と思っていたが、帰宅後のTVニュースで前者の態度を保持し、大臣を罷免されたことを知った。
 
 罷免されたからといって直ちに連立解消にならないが,これだけの意見の相違があって妥協できなかったのだから、党として連立から離脱しなければ筋が通らない。

 福島党首がもしかすれば主張を曲げず最終的には首相と対立するかも、と私が感じたのは、数日前の沖縄訪問で「命がけ」で主張を貫き通す、と述べたというニュースであった。ここでも「命がけ」と言う言葉が使われたが、遠く東京で語ったのでなく県民の前で、関係者の前で直接語った言葉の意味は遙かに重い。ここで翻意したら政治家の言葉の軽さを再現することになる。
 今考えるに、党首は数日後に罷免されうることをも覚悟の上で沖縄を訪問し、県民に「命がけで沖縄を守りたい」と約束したのだろう。あるいは先に事実をつくって後戻りできない状況にしてから閣議に臨んだのだ、と思う。

 本年1月末の首相の施政方針演説は「いのちを守りたい」で始まった。「生まれ来るいのちを守ろう」「働くいのちを守ろう」などなど「いのち」と言う単語は30回ほども用いられたとされるが、当時の解説や新聞の社説などを見ると、首相の姿勢方針演説がこの様な美しいことばが散りばめられた例はない、と言う。

 政治の中に「いのち」が語られ、「人間」が語られたことはとても素晴らしい事と評価すべきであろうが、今となってみれば結局は覇権争いの道具として、また首相の思いを伝える美辞として使われたに過ぎない、と思わざるを得ない。

 厳しい医療環境の中で休むことなく「命」「いのち」に対峙している私ども医療関係者からみて「命」「いのち」を守るためには私どもの力だけでは到底実現できない。必ずそこには政治面、経済面からのバックアップが必要である。なのに。今、政治の中で「命」「いのち」と言う言葉が軽々しく語られていることについてはとても残念な思いがする。

 福島党首が用いた「命がけ」は首相の「命がけ」より重かった、と評価しなければならないかもしれない。
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政権後退(11)とても軽い首相の「命」  

2010年05月28日 19時38分06秒 | 政治・経済 国際関係
 鳩山首相はいま実に大変な状態なのであろう。ご苦労様である。
 沖縄への首相の謝罪行脚は火に油を注ぐような結果になった。当然である。県民を愚弄しただけで、結果的に前政権の敷いたレールに戻っただけに過ぎなかった。更に、沖縄政策をめぐって社民党の福島党首との政策上の確執も明らかになってきた。社民党は普天間基地の県外移設を党是の如くに扱ってきたに等しいから、そう簡単に首相の方針に同調はできない。連立が終焉を迎える可能性もちらつかせているが、社民党は連立の中にいるからこそ目立つのであって連立を解消したら党の存在感もなくなってしまう、と言う一面もあるから微妙な立場である。社民党は今政権を抜ければ「One of them」に埋没し、消滅してしまうかもしれない。私は最後まで妥協しない姿勢を貫き通すと言う党首のパフォーマンスなのだと思うが、もし貫き通したらすごい、と思う。女性党主は恐いのだ。

 3月の党首討論で首相は、県外移設を「命がけで」実現すると力を込めた。所信表明演説でも「命」という単語を30数回用いて話題になった。「いのちを守る内閣」の首相が言う「命がけ」はかくも軽かった。

 私は「命」とか「死」とかが例え言葉の上であっても軽々しく扱われるのに不快感を持つ方である。そういう意味でも首相の言葉の軽さには驚いてしまう。

 似たようなことを感じたことがある。10数年前のある夕方、八郎潟で講演するためにJRに乗ったが、途中で激しい暴風雨のために列車が1時間ほど立ち往生した。私の講演は結果的には間に合わず流れたが、私の席の側では数人の大学生風の若者が声高に話し合っていたが、「死にそうなほど苦しい」「死ンでも良い」「死にたくなる」・・・と命や死に関する言葉が、この間に100回ほども出たであろうか、次々と出てきて呆れた。話している若者達には深刻さは全くなく、単なる言葉のアクセサリー、口癖に近いものであることは聞いていて分かるのだが、「命」とか「死」とかのことばが軽々しく扱われていて驚いたものである。

 この時の印象にそっくりなのが首相の言葉である。若者達と立場が全く違うのであるが、似たような軽さを感じ取った。お陰で、あの嵐の夜の電車内の光景を鮮明に思い出した。
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口蹄疫(3)冷凍室に5年前の牛さんのお肉を見つけた 

2010年05月27日 19時29分04秒 | 近況・報告
 先日、家内が冷蔵庫を整理していて平成17年の日付のある牛さんのお肉を発見した。
 迷った末、わが亭主なら疑問なく食べるはず、との確信のものに煮付けとして料理した、とのこと。流石に黙っては出せなかったのだろう、ハシを付ける前に、5年前の日付の肉で・・・、と説明した。

 こんな場合、余所の方々はどんな反応するのだろうか。私は賞味期限などは食べる本人の問題だと思っているので迷わず口に入れた。やはり、言われてみればかすかに脂が変質したような味の印象であったがこの程度なら・・・と納得、食品に対する感謝の気持ちを持って美味しくいただいた。
 その後の体調は・・・何時もの如く、全く問題ない。

 私は賞味期限とかを殆ど気にしない。腐ったり不潔になっていなければ多少のことでは動じない。わが家の台所にはそんな食品が結構ある。横浜在住の娘は時には私宛に期限切れ食品を送ってくる。記録的なのは戸棚の隅にあった29年前のソース、5年前の「白い恋人達」などで、共にかなり苦みが増していたが、すべて私の胃袋を通過して消費された。

 私は食品が捨てられる事、捨てることにとても敏感である。家でもかなり注意している。だから、冷蔵庫に少しずつ残っている食品を集めて好んで食べている。

 宮崎では口蹄疫問題で畜産業、および関連の方々は大変な状態に陥っている。先々のことを考えると居ても立ってもいられない厳しい状況にあると思う。その方々の気持ちは到底推し量れない。
 一方、感染していないのに口蹄疫蔓延防止のために命を奪われた牛やブタは25万頭にも上るという。何と可哀想な、と思う。人間に食べられる運命のもとに生まれる命であっても、生きている間は喜びもあるはずだ。なのに別の目的で命を落としている。不憫である。

 そんなことを考えながら、5年経たお肉を感謝の気持ちをもって食べることが出来た。
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