今年もサクランボの季節がやってきた。家内にとっては嬉しい、私にとっては恐怖の、かつ心配な時期でもある。
毎年、この時期になるとわが家の夕の食卓には殆ど途切れることなくサクランボが並ぶ。それも結構な量である。例年、知人から送られてくる十文字産のサクランボがきっかけとなって始まる習慣である。今年も見事なのをいただいた。これが届くと家内の心に火がつく。これ以降、旬の終わりまでほぼ毎日の如くに買ってくる。また、例年6月後半に開かれると言う十文字町の「さくらんぼ祭り」に、親戚も子連れで出かけるから、その家族からも土産としていただく。
新聞によると、今年は2割減の作柄と言うことであるが、味はまあまあだと言う。
家内は自分が楽しむだけでなくお世話になった方々にも送っているらしい。
サクランボはきれいに並べられたのからバラ詰めのまでいろいろあるが、私はバラの方がいい。より気楽に楽しめるからである。あまり立派なのは私の方で気後れする。ざっと水洗いする。実の表面は天然のオイルで覆われているのか撥水性がある。だから表面に水滴となるが、この水滴と果実の色調がおりなす光沢、新鮮な雰囲気が良い。美しさという点ではきれいに紅色になった果実より黄色と淡赤色、深紅のモザイク調のが一層美しい。
サクランボはあのツルをプラプラさせて指先の遊びを楽しみ、形や色合いを十分見て楽しんでからおもむろに口に運ぶ。果実の表面はとてもスムーズ舌触りがとても良い。1ヶずつ口に含む。 この時、おちょぼ口である。若くて口元の美しい女性をイメージするとエロチックなイメージが伴う。ひげの男が大口を開けて食べているシーンなど思いたくもない。
この季節、私は家内を「錯乱母」と評する。さすがに最近は食べる量は減ってきたように思うが、かつては1Kgの箱、それも比較的高級なのが、一晩で全てツルと種に変身し、腹ふくれた「錯乱母」が箱の横にうたた寝していたこともあった。健康面も心配である。注意しても効果はない。救いは旬が短いことである。
毎年、この時期になるとわが家の夕の食卓には殆ど途切れることなくサクランボが並ぶ。それも結構な量である。例年、知人から送られてくる十文字産のサクランボがきっかけとなって始まる習慣である。今年も見事なのをいただいた。これが届くと家内の心に火がつく。これ以降、旬の終わりまでほぼ毎日の如くに買ってくる。また、例年6月後半に開かれると言う十文字町の「さくらんぼ祭り」に、親戚も子連れで出かけるから、その家族からも土産としていただく。
新聞によると、今年は2割減の作柄と言うことであるが、味はまあまあだと言う。
家内は自分が楽しむだけでなくお世話になった方々にも送っているらしい。
サクランボはきれいに並べられたのからバラ詰めのまでいろいろあるが、私はバラの方がいい。より気楽に楽しめるからである。あまり立派なのは私の方で気後れする。ざっと水洗いする。実の表面は天然のオイルで覆われているのか撥水性がある。だから表面に水滴となるが、この水滴と果実の色調がおりなす光沢、新鮮な雰囲気が良い。美しさという点ではきれいに紅色になった果実より黄色と淡赤色、深紅のモザイク調のが一層美しい。
サクランボはあのツルをプラプラさせて指先の遊びを楽しみ、形や色合いを十分見て楽しんでからおもむろに口に運ぶ。果実の表面はとてもスムーズ舌触りがとても良い。1ヶずつ口に含む。 この時、おちょぼ口である。若くて口元の美しい女性をイメージするとエロチックなイメージが伴う。ひげの男が大口を開けて食べているシーンなど思いたくもない。
この季節、私は家内を「錯乱母」と評する。さすがに最近は食べる量は減ってきたように思うが、かつては1Kgの箱、それも比較的高級なのが、一晩で全てツルと種に変身し、腹ふくれた「錯乱母」が箱の横にうたた寝していたこともあった。健康面も心配である。注意しても効果はない。救いは旬が短いことである。