福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

サクランボ(3)錯乱母

2011年06月30日 19時04分35秒 | コラム、エッセイ
 今年もサクランボの季節がやってきた。家内にとっては嬉しい、私にとっては恐怖の、かつ心配な時期でもある。

 毎年、この時期になるとわが家の夕の食卓には殆ど途切れることなくサクランボが並ぶ。それも結構な量である。例年、知人から送られてくる十文字産のサクランボがきっかけとなって始まる習慣である。今年も見事なのをいただいた。これが届くと家内の心に火がつく。これ以降、旬の終わりまでほぼ毎日の如くに買ってくる。また、例年6月後半に開かれると言う十文字町の「さくらんぼ祭り」に、親戚も子連れで出かけるから、その家族からも土産としていただく。

 新聞によると、今年は2割減の作柄と言うことであるが、味はまあまあだと言う。
 家内は自分が楽しむだけでなくお世話になった方々にも送っているらしい。

 サクランボはきれいに並べられたのからバラ詰めのまでいろいろあるが、私はバラの方がいい。より気楽に楽しめるからである。あまり立派なのは私の方で気後れする。ざっと水洗いする。実の表面は天然のオイルで覆われているのか撥水性がある。だから表面に水滴となるが、この水滴と果実の色調がおりなす光沢、新鮮な雰囲気が良い。美しさという点ではきれいに紅色になった果実より黄色と淡赤色、深紅のモザイク調のが一層美しい。    

 サクランボはあのツルをプラプラさせて指先の遊びを楽しみ、形や色合いを十分見て楽しんでからおもむろに口に運ぶ。果実の表面はとてもスムーズ舌触りがとても良い。1ヶずつ口に含む。 この時、おちょぼ口である。若くて口元の美しい女性をイメージするとエロチックなイメージが伴う。ひげの男が大口を開けて食べているシーンなど思いたくもない。

 この季節、私は家内を「錯乱母」と評する。さすがに最近は食べる量は減ってきたように思うが、かつては1Kgの箱、それも比較的高級なのが、一晩で全てツルと種に変身し、腹ふくれた「錯乱母」が箱の横にうたた寝していたこともあった。健康面も心配である。注意しても効果はない。救いは旬が短いことである。
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無知、無智の効

2011年06月29日 18時32分16秒 | コラム、エッセイ
 数日後に県の長寿社会振興財団の行事の一つである「LL大学園」の開校式記念講演を私が担当することになった。今準備中である。

 その中で高齢者の処世の一方法として、出来るだけ孤独に陥らないように常に社会との接点を持つことの重要性についても語る。その際、コツとして「高齢になったら、口を慎み、阿呆のまねが無難。昔のことはみな忘れ、自慢話はしなさんな・・」というどなたかの言葉を自分なりに解釈して紹介する。また、もう一つ、日本人は世界で最も安全で長命な国に住んでいながら国民の大部分が「健康追求病」に罹患しているということも話す積もりである。

 これらは私が集めていたスクラップの中で「無知」に関連した項にあった次の2枚がヒントになっている。

 一枚はスペインの小説家グラシャン(1601-1658)の「無知であると思わせるのは、時として最大の英知である」という言葉である。
 私どもは、自分より身分的にも知的にもあるいは財力の面でも優れている、と思っている人の前では、形式や建前論を尊重した会話に終始し、本音を言わない傾向がある。こんな中からは良い人間関係など形成されない。それに対し、そのような緊張感を持たなくても良いような関係の人の前では、不要な緊張感がなく、しばしば本音で会話できることがある。そのような環境の中でこそ、人情の機微や、思いがけないような情報も得られることがある。幼なじみなどはこのような関係に近い。高齢者の人付き合いは年齢も大幅に異なり、現役時代のキャリアも異なることからとても難しいと思う。特に男性はすぐに相手のマイナス面のみを評価してしまう傾向にあり、新しい仲間とはなかなかうち解けないようだし、長続きしないようである。特にプライドを傷つけられることを最も嫌がるようである。

 もう一枚。吉川英治著「宮本武蔵」の一節、「無智はいつでも有智よりも優越する」というのもあった。
 吉川はあえて無智、有智という言葉を用いたのであろうが、その辺は意味深である。知恵があるということはむしろ迷いや悩み、恐れの原因にもなり得ると言うことである。知恵があるとどうしても利口に立ち回ろうとする。そこから新たな歪みが生じてくる。人間である限り無智よりは有智が良いということにはなるのだろうが、有智にもそれなりの欠点がある。健康に関して言えば、多くの方々はTVや新聞、健康雑誌等から健康に関する知識を得ているが、それを理解する基礎的な知識に欠けるために正当な評価が出来ない。そのことがむしろ不安の因になっている。有智がマイナス面に働く一例である。謙虚さ、純粋さ素直な気持ちを持ち続けること有智か否かとは別問題である。そのような方々が持つ人間力はこざかしい知恵を大きく凌駕する魅力がある。

 もう一枚、「無知な友ほど危険なものはない。賢い敵の方がずっとましだ」というフランスの詩人ラ・フォンテーヌ(1621-1691)の言葉も見つかった。
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東日本大震災(26)原発再稼働問題 一貫性がない 安全はどう確保??

2011年06月28日 17時16分24秒 | 時事問題 社会問題
 浜岡原発を政治主導で停止したかと思ったら、経済産業相が、定期点検などで停止している原発の再稼働を関係自治体に要請している。経済産業相の立場からだろうが、国の方針としては一貫性がない。

 福島第1原発事故で原発のあり方そのものに未知の問題点が判明し、事故対策・危機管理における日本の原発政策の脆さが露呈した。それなのに、福島原発事故の冷温停止のめどもたたないのに再稼働の話しである。原発のある地域住民は不安を抱き、再開に戸惑っている。

 各電力会社が政府の要請に従って実施した対策も、非常用電源車を配置した、水素爆発で原子炉建屋が破壊されないよう穴を開ける準備が整ったなどで、これで安全が確保されたと言えるのだろうか。安全対策はハード・ソフト両面から必要で、まず、ソフトである。

 私が一番疑問なのは、東電福島原発事故への対策のため緊急導入された浄水装置や散水車等の装置や道具が、ロボットを含めて全部外国製だと言うこと。これは一体何なのだ、と思う。安全神話は嘘で塗り固めて広報し続けた結果であったし、具体的危機状況をを想定した危機管理対策、訓練も何にも用意して来なかったと言うことで、未必の故意とも言いうるほどの、考えようによっては犯罪的行為と言えるのではなかろうか。

 全電源喪失の想定は全くしていなかったと言うことであるが、過去の津波の記録から現実論として検討・想定しなければならなかったことであるし、津波以外でも航空機の墜落事故などもあり得ないことではない。

 もう一つの疑問はメルトダウンの判断の遅れである。原発にとっては最悪の事態であろうが、これに対する判断能力を欠いていた事である。今回の判断はそんなに困難なことだったのだろうか。こんな環境で原発が運営されてきたなど、私にとっては「想定外」であった。

 東電は住民達にどう説明して原発を設置したのだろうか。住民は十分な情報を与えられていなかったのではないだろうか。

 原発の再稼働は自治体との協定で決まるらしい。原発の有り様を決めるのは政治であっても、各原発の再稼働は政府が決める問題ではない。住民の合意が得られない状況での再稼働はあり得ないし、住民の説得には最悪の事態を想定した危機管理対策を公開してはじめて可能になると思う。
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おんぶの会(秋田県音楽普及協会):コンサートと講演(2)大沼えり子氏の講演

2011年06月27日 05時46分06秒 | コラム、エッセイ
 去る6月5日、秋田市アトリオンホールでおんぶの会が主催する「コンサートと講演のシリーズ」を聴いた。
 第二部は大沼えり子氏の講演。初めて聞くお名前であるが、50歳代と思われる。名取市の老舗の割烹の若女将で、二児の母。かつ、シンガーソングライター、執筆家、ラジオのディスクジョッキー、保護司、などなど幅広い活動をしていて結構有名な方らしい。
 氏はNPO法人「ロージーベル」を設立し、更生を目標に頑張っている少年達に手を差し伸べている。少年の更生のための施設「ロージーハウス」も運営している。「ロージー」とは、母あるいは女性を薔薇に例え、この母なる薔薇が奏でる幸せのベルを少年たちの心に響かせたいという願いを込めて命名したとのことである。また、少年院向けDJ番組を毎月制作し、東北にある3ヶ所の少年院に贈り続けている。この他にも、青少年の健全育成に関する講演会や学習会、チャリティコンサート、相談窓口の設置など、少年の更生と健全育成に係る様々な活動を行っておられる。

 講演は実に早口で,90分、時にしんみりと,時にヒステリックに、次から次と話題を展開させた。

 まず3月11日の大震災について触れ、自ら体験した大地震、大津波について述べた。名取市は大きな被害を受け死者行方不明者が多数出たところである。演者はその時間、夜に行われる大宴会のための用意を取り仕切っていたとのことであるが、家は倒れなかったものの、内部は足の踏み場の無いほどの状況になった。従業員を逃がしながら、隣家を見たところ大揺れの中屋根瓦がバラバラに飛び跳ね落下した,と言う。家の中の片付けしながらしている最中ゴーゴーという地鳴りのような音が響き、見ると側の河が逆流し,車とか遠くの海に浮かんでいるはずの漁船が割烹の直ぐ側まで流されてきた。割烹は高台にあったためにもう一歩という所で津波の直接の被害は免れたという。救援のために防寒等の物資を持って被災した地域に降りていったが、そこで目にした光景は瓦礫の中に多くの屍体が見え、地獄絵図そのものであった。命が助かった方々もヘドロや油で全身ずぶ濡れ状態,ショックで言葉も失っていたという。
 現実に大震災で被災された方の話を聞くのは初めてであったが,表現は実にリアルで会場はシーンと静まりかえり、張り上げた彼女の声だけが反響し,心に染み通った。この話を私は到底文章にはしきれない。

 次いで,自分の育児を通じて地域の恵まれない児と接し,やがて問題児になっていく過程について話され,その児に対し自分がどのようにかかわってきたのか、後に保護司になった事情、保護司としての活動について具体的な例を挙げつつ約1時間話された。
 この講演の中から私が感じ再確認したのは、近年失ってしまった、地域ぐるみの子育ての重要性についてである。

 ロビーで演者の著作が何種類か販売されていた。その中から家内が「子育てよかった物語ー子どもの笑顔はこうして作る」を選び取った。今それを少しずつ読んでいるところであるが、自らの子育ての頃に照らし反省すること数多い。

 アトリオンホールは反響が豊で講演の場としては相応しくない。今回は特に早口の演者だったから言葉がとても聞き取り難かった。私はノイズキャンセリングヘッドフォンを用いて聴いた。高低域がカットされて言葉が聴きやすくなるからである。ホールの音響担当の方に一考して戴きたいと思う。

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おんぶの会(秋田県音楽普及協会):コンサートと講演のシリーズ(1)

2011年06月26日 12時04分24秒 | 音楽談義
 去る6月5日秋田市アトリオンホールでおんぶの会が主催する「コンサートと講演のシリーズ」を聴いた。おんぶの会もこんな会が継続的に行われていたことも初めて知った。 秋田県音楽普及協会と言う名前からして県に関連した音楽の普及を目指しているのかもしれない。「おんぶの会」という名前は親しみがあって良い。音楽普及協会と言う名前での主催では聴きに行く気になり難い。いつもの如く家内が知人の方からチケットを購入してきたもので、私は何でも見てみよう聴いてみようの姿勢だから聴きに行った。

 第一部はコンサート。出演者は秋田県出身者から選ばれている。小学5年生のボーイソプラノの三浦くん、母と中一の双子の姉妹によるファミリーボーカルニット「美風優」、ピアノ独奏、テノール歌手本田武久氏の独唱であった。
 三浦くんの歌を聴くのはこれで3回目。今回は「グリーングリーン」、「フニクリ・フニクラ」の他、「歌の翼に」,ヘンデルの「私を泣かせて下さい」と、聴く度に徐々に高度な選曲になってきている。「美風優」の三人は「夏の思い出」、「アベ・マリア」、「キラキラ星変奏曲」を歌い美しいハーモニーを聴かせた。
 ピアノ独奏は大学1年の宮野さんという方。ショパンの「バラード第一番」、「ノクターン:遺作」、「エチュードop25-1」の三曲を弾いた。秋田中央高校1年の時に第13回秋田県青少年音楽コンクールピアノ部門でグランプリを獲得した方で現在桐朋大学1年とのこと。これからの活躍が楽しみである。
 この様な若手の方々の真剣な演奏から真摯な姿勢と熱意が十分に伝わってくる。

 テノールの本田氏は私は2回目である。角館出身で教職に就いてからプロの道を目指したという。「アベ・マリア(カッチーニ)」、「野ばら」、「峠の我が家」の三曲。このアベ・マリアは数多い同名の曲の中で私は好んで聴いている。本田氏は闘病中と言うが、そうとは思えない張りのある声で声量豊に歌い切った。この会の後にもAlveで開催された「がんささえ愛の日」で聴く機会があり、その時、自身の病気についても紹介したので私は初めて知ったが、治療の合間に時を惜しむようにコンサート活動を行っているようだ。いつまでも歌い続けて欲しい,と思う。
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