福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

情報収集2015(4) 新聞スクラップ(2) 名前付けと分類作業を通じて何度も読む

2015年11月30日 16時48分12秒 | コラム、エッセイ
 2005年Mac対応のドキュメントスキャナーが発売されたので早速購入した。電子化は簡単であるが、読み取ったドキュメントは基本的にはPDFの画像で、日付と時間だけの名称になるために、適宜名称をつけ、分類する作業が必要である。

 尤も、その後発売になった後継機には自動でOCRをかけて画像から文字に変換してくれるソフトが付属していると聞く。羨ましい機能であるが、私の場合は便利すぎてデータを再検討する機会が少なくなりそうなので導入していない。私の機種は10年間働きづめであるが故障もなく作動している。

 新聞は当日朝のうちに裁断処理する。なお、家人が読む可能性がある秋田魁新聞だけは1日遅れで処理する。
 大体以下のスケジュールでデータ化する。

(1)毎朝、勤務前の時間、7:30頃から飯川病院医局で興味ある記事を探し、厚手の定規を当てて一気に切り取る。4紙で30分ほど、平均40枚程度切り取る。この時点ではかなり重要な記事しか読まない。

(2)毎夕帰宅後、夕食の前後に、あるいは早朝起床後1:00頃から切り取った記事をスキャナーを通して画像化する。入力に30分ほどかかる。この時に記事を再確認し、時に熟読する。この時点で優れた記事には電子的にマークを入れる。

(3)パソコンに向かうたびに、あるいは気分転換したい時に、画像化したデータに5-10項目ずつ名称をつける。この時も記事を読む。

(4)名称をつけた記事はモバイルのハードディスクに移し、常に持ち歩き、時間的余裕がある時に自分で設定した、「政治」、「経済」、「国際関係」などの15大項目に沿って分類する。

(5)データ利用時には、入力日時別、大項目別、名称別などに範囲を絞って検索する。1997年以降の記事が瞬時に目の前のディスプレイに並ぶ。

(6)ある事項に関連した記事を集中的に読みたい時にはiPad miniに移して読むこともある。

 連日、名称付けと分類の作業に追われる日々で手を抜けないが、検索をかけると読みたい記事が一瞬にして目の前に現れる。これは壮観である。私は黙々と作業を続ける日常に満足している。得られる果実が大きいからである。「継続は力なのだ・・」と、心から思う日々である。

 新聞記事は最近様変わりしているように感じる。おそらくインターネットの普及で速報性から、じっくり読ませる資料集的記事に主眼を写しているからであろう。この傾向は私にとっても大歓迎である。
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情報収集2015(3) 新聞スクラップ(1) 読むよりまず資料化

2015年11月29日 03時56分14秒 | コラム、エッセイ
 私はガラクタ集めと情報収集が趣味と言ってもいい。後者の情報は全て電子化している。
 私の記憶装置が軟化して壊れ始めているために記憶は硬いハードディスクに代行をお願いしている。データとして記録している対象物は、書籍の自炊データ、文献・新聞のPDFデータ、ラジオ深夜便のMP3データ、自分のHPの蓄積、それにドキュメンタリー番組を中心とする録画のDVD・Blu-ray diskである。これらのデータは1TBのハードディスクに、録画データもディスクに一括してまとめてある。分野別に別のハードディスクにバックアップをとり、大事に扱っている。

■新聞スクラップ
 私は小学生の頃から「小学生新聞」、「中学生新聞」なるものを購読していた。週に2-3回届いていた。だから新聞には親しみとこだわりがある。初歩的な新聞スクラップは当時から日記帳などに貼っていたが、本格的に始めたのは大学病院から今の病院に移った1985年以降である。スクラップブックは年度別に分類したが、書架を二つも占拠した。さらに、目的の記事を探すのが困難で、切り抜きを保存する方法では限界であった。

 1995年頃はオフィスのペーパーレス化が流行っていて、紙データを電子化する機器がで始めた。私は1997年頃にヒュレット・パッカード社のペーパーポートというスキャナーを購入し、約8年近く用いた。しかし、数年で後継機がなくなった。米国の大企業の製品であり、信頼していたが、ハード、ソフト共に不運な運命で消滅したらしい。 
 
 2001年富士通からScanSnapが発売された。2005年Mac対応機が発売されたので早速乗り換えた。電子化は簡単であるが、読み取ったドキュメントは日付と時間だけの名称になるために、適宜名称をつけ、分類する作業が必要である。

 1997年-2005年までは毎日糊付けで手が黒くなった日々、2005年以降は連日名称付けと分類の作業に追われる日々である。大変であるが、検索をかけると10余年分の読みたい記事が一瞬にして目の前に並ぶ。これは壮観である。

 東日本大震災後は被災地の状況を知りたくて、福島・宮城の地方紙も取っていたが、2年ほど前からは岩手の分だけを残し4紙にした。連日40-50枚の記事を蓄積している。多分ハードディスクには1997年以降の10万枚ほどの新聞記事がPDFとして保存されていると思う。
 これらの全データは毎日持ち歩き適宜活用している。私にとっては時間をかけて作り上げた宝物であり、三重にバックアップを取り、自宅、病院に保存している。
 家族達は興味も示さないのがちょっと寂しい。電子データは他のガラクタ収集とは異なり、その気になれば一瞬に処分できるから気が楽である。

 私にとって毎日届く新聞はその日に読むものではなく、記事の選択と資料化のための材料である。勿論、興味ある分野は資料化しながらざっと目を通す。
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情報収集2015(2) 溢れる情報とどう付き合うか

2015年11月28日 17時53分43秒 | コラム、エッセイ
 既に言われていることであるが、日本人は情報に流されやすく、信じやすく、忘れやすいという特性がある、と思う。私も毎日情報を集めてそれらを楽しんでいるが、上記の特性を情報発信側に受け取る側にも感じてしまう。
 何か大事件がおこって集中的に報道されてきても時間とともに急速に萎えてしまう。人々の関心も少なくなる。人の噂も75日と言われる所以である。

 情報にはさまざまな特性があるが、特に瞬時に情報を発信できるネット、放送・新聞等のメディアからの情報は刹那的である。
 書籍、論文とは異なり、メディアの情報は次々と上書きさねていく。発信さねる情報の賞味期限は短く、連続性も乏しく.一貫性も曖昧である。そもそもメディアから発信される情報の性格は,受け取る側へのおもねりもある。その点も理解していなければならない.

 「事実は一つだが、真実はたくさんある」とよく言われる。政治など論調がメディアによって異なるのはよくあることである。
 私は医師であるが、メディアからの医療関係の情報の正確性・解釈には頻繁に違和感を覚えている。

 一般的には、知識の及ばない分野の情報は疑問を持たずそのまま信用しがちである。判断の実力がないから当然でもある。常に認識しておくべきことではあるが、情報の送り手は多様であり、素性すら知らない相手の場合が多い。そこからの情報は恣意的な一面もあるという認識か必要である。

 また、受け手が情報に無意識的にフィルターをかけて対応する。人間には潜入観に基づいて都合のいい情報だけを集めて「自分の先入観を補強する」という心理現象がある。見たいものを、聞きたいことのみを聞いている。逆に言えば、見たくないものは見ないし、聞きたくないことは聞かない。第一、実際に見ても聞いても、「見えても見えず、聞こえても聞こえず」、それが人間の情報処理の性格でもある。
 結局、情報は送り手、受け手共に、無意識にお互いが情報にバイアスをかけていることになる。

 情報と付き合うにはどうすれば良いのだろうか。
 ネットを含む現代の情報社会では、膨大な情報を整理し、廃棄すると共に自分の力で考え抜き、有用な情報を使いこなし、自分なりの意見を構築する能力を鍛えることである。

 具体的には私は以下を念頭にしている。
#1 情報を鵜呑みにしない
#2 専門誌の記事や論文などは疑ってかかる

#3 大騒ぎされ、一見重要と思われる情報は結果的にあまり役立たない
#4 無意味に見える情報も重要であるという意識が必要
#5 寿命が極端に短い情報は捨てる
#6 発信者が不明な情報は捨てる
#7 手に負えない情報は捨てる
#8 自分の五感を駆使して自ら考え、そして発言する
 (参考:情報収集2015(1) 放送からの情報収集はAMラジオから映像にシフトした
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医療事故調査の新制度(5) 運用状態の検証を

2015年11月27日 06時11分11秒 | 医療、医学
 医療事故調査の新制度は、ざっと言って、(1)調査対象は予期せぬ死亡事故に限定、(2)調査を始めるかは医療機関が判断、(3)調査結果の書面による説明は義務化されない、などとなっている。この制度は従来検討されていた案に比べれば、主眼が責任追及のためではなく、再発防止に主眼が置いた制度であると言える。医療者側と患者の間に第三者機関を置いたことは大きい。
 新制度として、私は先ず良い制度だと思う。ただ、調査のスタートである「予期しなかった死亡」の基準か曖昧で、これが問題となってくる可能性はある。運用を検証する必要がある。

 医療事故調査の新制度の決定に至る過程は長かった。
 医師法21条には「異状死体を診断した医師は24時間以内に警察に届けなければならない」、とある。しかし、この法の背景として定義しておくべきはずの異状死体の定義はなかった。

 そのために、各学会レベルで異状死の定義が発表された。驚いたことに、日本法医学会、日本外科学会の定義は大きく異なっていた。他にも異状死の定義が何編か発表されている。ある診療関連死について、日本法医学会の定義では異状死として警察に届ける必要があるが、日本外科学会の定義を適応すると異状死でないと判断される。

 だいたい、このような重大なことを各学会ごとに異なった見解が出されること自体、医療会の閉鎖性、意思疎通の無さが表れている。こんなことは厚労省が専門家を集めたワーキンググループでも作って定義を提起すべきである。

 通常は診療関連死があったとしても悪意がない場合は業務上過失として取り上げることはあっても医師が逮捕されることはなかった。しかし、2004年12月に福島県立大野病院で帝王切開を受けた産婦が死亡したことに関連し、2006年2月に医師が業務上過失と医師法違反容疑で逮捕、起訴された。2008年8月福島地裁は無罪を言い渡した。当然の判断である。

 この事件を機会に、われわれ医師は正当な業務を行っていても医療行為が拡大解釈され刑事事件として介入を受けたり逮捕される場合もありうると考えざるをえず、事故や紛争の対応に心を頑なにせざるをえなかった。結果として、医療行為自体が縮小する傾向や、産科医の減少にもつながって行った。
 
 当時からも検討されていた医療事故調査制度は紆余曲折を経た。その背景は、一度紛争が起これば医療者側と患者側が責任をめぐって双方とも極端な立場を主張せざるをえない方向になることを双方が懸念したことにある。医療事故に関しては医療安全と責任追及は別問題である。

 2008年頃論議されていた厚労省大綱案は責任追及の資料集めのようだったか、今回の制度ではその不安はだいぶ薄れたと思うが、医療者の責任追及が目的ではない、という理念が守られるかは不安とか、結果的に訴訟が増える可能性があり、その際に報告書か訴訟の証拠に用いられる可能性は否定できない、とする意見はまだくすぶっている。
 どんな法であっても解釈次第である。数年運用・検証してみないと分からない。関心を持ってフォローしなければならない。
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映画「ペコロスの母に会いに行く」原作・岡野雄一 監督・森崎東

2015年11月26日 03時38分15秒 | 映画評
 映画「ペコロスの母に会いに行く」は同名の漫画の映画版である。原作の漫画は認知症とボケの違いを教えてくれるうなほのぼのとした漫画であった。森崎東監督は85歳というから自分の問題として捉えたのであろう。

 11月5日19:00から秋田市文化会館で鑑賞した。映画「ペコロスの母に会いに行く」を上演する会の主催である。

本 ペコロスの母に会いに行く 岡野雄一著 西日本新聞社 2012年初版

 認知能の母親を介護する息子の日常生活を、ユーモラスに描いたストーリーに仕上がっている。
 認知症になった母親は毎日、駐車場で息子の帰りを待ち続けるが、車を降りた息子と顛を合わせても息子を認識できない。息子が帽子を取り、ハゲを見せると、やっと分かり、手を取り合って家に向かう。母を見詰める息子の日常の切なさ、おかしさが描かれている。悲しいけれど、いとおしい家族の思い、家族には家族にしか分からない歴史があることが伝わってくる。

 認知症の方は高齢者65歳以上の15%といわれている。人口と高齢化率から推測すると500万人近くは認知症の方と思われる。尤も、認知症はボケという方が適切と思われる状態から病気としての認知症までいろいろあるから十把一絡げに捉えてはならない。
 認知症は予防が大事であるが、認知症になっても決しておしまいではない。

 認知症の程度、家族構成、家族の考え方、隣近所の人間関係など、認知症に関しては百人百様、家族が受けるストレスは大変なものがある。この映画の2人のように認知症と付き合っていけたのはまだいい方であろう。この映画は多くの可能性のうちの一例を示しているにすぎない。

 国は団塊の世代が後期高齢者になる25年までに、全ての地域に地域包括ケアシステムをつくろうという方針を立てている。
 今年5月に秋田県が行った在宅医療・介護に関する意識調査によると、介護が必要になった時、自宅で過ごしたいは49.2%であった。一方、施設または病院に入ってもらいたいと考える家族は59.0%という。また最期まで自宅で介護できるかという問いには、可能という回答が3.5%と全国調査10.0%に比較して半分以下であった。
 認知症の病態は極めて広い。だから、多様なニーズに応えられるような柔軟なサービス体系が必要だと、私は日常の診療を通じてつくづく思う。

 この映画は多くの可能性のうちの一家族の一例を示しているに過ぎない。
 原作の漫画から受けるイメージは、読者の持っている知識や背景とも関連して広く想像力を刺激した。私はこの原作の単純明快な漫画から多くを空想し、得るものはおおきかった。この映画は、画像として具体的に提示しているから想像力を殆ど必要としない。その場の提示が主となる。そういう意味ではとても物足りなかった。

 私は画像が表現する世界は、原作の持つ包容力に及ばない狭い世界の表現となる、と考えている。想像力を動員して読む本の価値は、画像が直接表現する世界より遥かに広い。そこに本の価値がある、と思う。
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