福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長を悼んで(2)

2006年05月31日 06時50分13秒 | 未分類
 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長のご葬儀は本日14:00より明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれたが、私は新型インフルエンザ・パンデミック時の危機管理が主題である東北ブロック感染症危機管理会議への出席を優先させた。尊敬出来る数少ない臨床医のお一人として個人的にも、また、法人内の立場の上からも葬儀に列席できず実に残念であったが、私は今回は別の立場の方を優先させた。とても残念であるがやむを得ない。

 中谷先生の業績は法人や病院の発展に貢献されたことに留まらない。兵器廃絶、被爆者援護法生態などの平和運動、労働者の健康問題、各種の社会保障制度改善運動などの方面での活動も挙げなければならない。常に社会をクールに見つめ、弱者に温かい目を注ぎ、社会運動に参加されていた。
 先生は広島県出身で、自らも被爆体験がおありになったと聞いたこともあるが、秋田市近隣の被爆者の検診や健康管理も一手に引き受けられていた。その二次検診の役割は私がずっと担当している。数少ない先生と私との間の接点である。

 私が中通病院に赴任してきて2年目のこと、秋田県民医連学術集談会を主催する機会があったが、その時特別講演を依頼した。その時に初めて直接お会いして対話したのであるが、その時、私が血液の臨床を学んでいたことを知っておられ、「自分が若い頃、急性虫垂炎から敗血症を起こした患者さんを慢性骨髄性白血病と誤診しましてね・・」と切り出された。その時の先生の謙虚な表情、表現から臨床医としての優れた姿勢が直感でき、互いの距離が急速に縮まったことを自覚し、その後は先生のかかれた多くの文献を親しみを持って読ませていただいた。病院の図書室にこもり文献を収集されいた先生のお姿にも数多く接した。
 心に残った著書として前後二冊の「長生きの本」がある。高齢の方々に対する先生の暖かな慈しみの気持ちがあふれ出ている名著である。私の講演の資料としても何度も何度も使わせていただいた。

 私の問題点の一つとして人と交わることが少ないこと、を挙げねばならない。この病院に勤務してからもう20年にもなるが、医師をはじめ、共に働いている職員達との対話は少なく、プライベートな事に関しては興味も知識も殆どない。中谷先生に関しても、臨床医として、社会運動家の一人として注目はしていたし尊敬も気持ちもあったが、私が中谷先生に関し記述できることは余りにも少ない。

 後に、医師会雑誌他に先生をしのぶ追悼文が掲載されると思う。私はそれを読むのを楽しみにしている。恐らく私の知らない先生の面影が語られると思う。さらに、先生の遺稿集がまとめられないのであろうか、とも思うし願っている。

 中谷先生、心からご冥福をお祈りします。ごゆっくりお休み下さい。
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中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長を悼んで(1)

2006年05月30日 04時48分18秒 | 未分類
 中谷敏太郎中通リハビリテーション病院名誉院長は、病気療養中のところ、5月25日午前に中通総合病院で永眠された。心から哀悼の意を表したい。先生は昭和5年広島県生まれで、享年75歳。今の時勢から見ればまだまだお若く、先生の死は先生を知る多くの方々から惜しまれている。

 中谷先生は、中通診療所の創始者である瀬戸泰士現中通総合病院名誉院長とともに、種々の困難の中、日夜を問わず精力的に診療にあたられ、明和会の礎作り、中通病院、中通リハピリテーション病院の発展に大きく貢献された。当時の医療活動については、それを知る秋田市市民、秋田県民からは今も半ば伝説的と言っていい様相で語られている。
 先生は昭和29年に東北大学医学部を卒業され、青森県の健生病院勤務を経て、昭和31年中通診療所に入社、翌年副院長に就任された。当時、秋田県では脳卒中が多発し、県民病と迄言われていた時代である。先生はその診療に誠意あたられていたとのことであるが、一生懸命になればなるほど治療の限界を体感されたのであろう、当時脚光を浴びつつあったリハビリテーション医学に注目され、独学でリハビリテーション医学を学ばれたのだという。
 昭和44年6月には139床の中通リハピリテーション病院を発足させ、翌45年院長に就任した。昭和50年4月には新病院を建設し、以降、都市型のリハビリテーション施設として全国的にも注目をされる存在にまで発展させた。平成2年6月に院長職を辞し、名誉院長に就任されたが、その後も往診や外来診療を担われていた。

 上記は私の手元にある資料・文献を参考に中谷名誉院長の足跡を私の目でまとめたものである。
 私は昭和60年に中通病院に赴任したが、中通リハピリテーション病院は僅か2-300mしか離れていないものの、私にとっては遠い存在で、残念なことに先生とはそれほど接点を持つことはなく、直接お話しする機会も実に乏しかった。会話を直接交わした時間は全部合わせても1時間に満たないかもしれない。先生と私の接点は患者の紹介を介してと、先生が書かれた数々の文献、文章を通じて、が主たるものである。ここ数年体調がすぐれなかった、とは聞いていたが、最近まで外来診療にあたられていた、とも聞いていた。先週、私どもの病院に再入院されたとは連絡を受けていたが、予想していたよりも経過が早く、直接お見舞いする機会は得られなかった。残念である。

 先生のご葬儀は明日5月30日(火)2:00pmより明和会体育館において中谷家と明和会の合同葬として営まれる。
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自伝 秋田大学時代(1973-1985)(17)  

2006年05月29日 06時31分52秒 | 自己紹介・自伝
昭和58年ころ、大学での勉強に終止符を打つ決心をする(2)
 大学に移って5年ほど後に岩手県立宮古病院の院長、副院長が秋田に来られ、そろそろ宮古病院に赴任を、と希望された。私自身が恩師のうちのお二人と思っている方々が私を認めて戴き、内科を託すということで誘っていただき、本当に有り難い話であった。しかし、この頃はちょうど教室にとっても、私の勉学や研究にとっても重要な時期であったために丁重にお断りせざるを得なかった。岩手に帰る漫然とした方向性はその後も持ち続けていたが、具体的な機会はこのときが一つの大きな機会であった。
 その後も約5年間秋田大学第三内科で仕事をさせていただいた。
この間、1-3ヶ月間と短期間であるが県内の二つの大規模病院に赴任する機会があった。この赴任を通じて私の心の中には何れ大学を離れ臨床医として生きる方向が少しづつ形作られていった。

 初回はある病院の内科を将来的に第三内科がそっくりお手伝いする予定となりその準備役の一人として約2ヶ月間赴任した。その後、そこの病院はずっと秋大第三内科が担当して現在に至っている。その2ヶ月の間に当時の副院長が担当する患者を診療させていただくことがあったが、緻密な考察と綺麗な字で整然と書かれたカルテを見て感嘆した。また、副院長が淡々と語った臨床医としての医療観からも多くを学ばせて戴いた。この時、私自身が医師になる時に抱いていた臨床医としての姿。初心を忘れかけていたことに気付かされた時でもあった。

 次の赴任の機会は全く思いがけなく訪れた。
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「人を信じてはいけない」、と言う教育の異常性

2006年05月28日 11時11分38秒 | コラム、エッセイ
 子どもと老人が被害に遭う事件が後を絶たない。いやな時代になってしまったものだ。世の中が確実に、かつ、急速に変わりつつある。
 老人の場合は金銭問題が主であり、何とかすることが出来るが、子供の場合には誘拐事件とか殺害事件になる。かつては誘拐事件が多かったように思える。この場合、必ずしも命を奪われずに助かる場合もあった。最近は行方不明事件が生じると暗い結末が予想されて嫌な気分になるが、結果は殆ど予想の通の展開である。「命を奪う」という行為に抵抗も感じないような人間が増えている。
 欧米では夜道の一人歩きすることなど考え難いこと、危険で非常識なこと、であることは聞いていたし、訪れた時には実感もしたが、子供の登下校時には親が付き添うのが一般的なのだ、という事は最近初めて読んで驚いた。子どもだけで登下校できていた日本は先進国の中ではまれな存在だったとのことである。安全な社会に住んでいる常識人の一人である私にとっては、こんな話題を聞いても俄には信じがたい。

 藤里町の男児殺害事件はまだ犯人は見つかっていない。その2ヶ月前には女児が川で死亡している。両者に共通の接点を持つ人の犯行かもしれない。一日も早い解決が望まれるが、犯人逮捕によって新たな、解決困難な社会的問題となりうる可能性がある。

 この事件の後、県内の小学校では人を信じるより、疑うように、知らない人とは接点を持たないように、と教えているのだという。子供が犯罪の被害に遭わないためには知らない人に声を掛けられても応じない様に教育するのが一番だとされる。しかし、今は一歩進めて顔見知りの人に対してさえ心を開かないように教えると言う。その結果、「おはよう」と挨拶の声をかけた大人におぴえる子もいると言う。

 大人として、人を信じること、人とのふれあいの素晴らしさを子供達に伝えることが出来ないのはとても辛いことである。我が家にも子供連れの若い夫婦が遊びに来ることもあるが、かわいい笑顔そのその子達に、教訓めいたことは軽はずみに言えなくなっている。

 子供に対する人間的教育は二極化にせざるを得ないだろう。子供達に家族・親族、隣近所を中心に、心を開ける大人達と十分にコミュニケーションを取らせ、それを通じて人とのふれ合いの心、暖かいを育む事である。一方、知らない人への対応の仕方をきちんと分けて教えることなのだろうと思う。前者を欠いたままで後者を強調した教育をすると人間関係に漠然とした恐怖心を持つ子供、大人が育ってしまう。そんな人間たちが作る社会は考えるだけで恐ろしくなる。

 良い医療は患者・医療職間の人間的ふれ合いが無ければ成り立たない。局限すれば、暖かな医療そのものが成り立たなくなるのではないか、とさえ思う。
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病院地下設備探索 エネルギー関連巨大システムに驚く

2006年05月27日 07時37分29秒 | コラム、エッセイ
 私が長い間担当してきた月曜午前の内科外来を4月から隔週に担当することにした。管理者としての時間が欲しいからである。それによって確保出来た時間の一部を用いて当院の専任の医療安全管理者である師長と共に安全管理の視点から院内の巡視をしている。今までは望まれていても時間的理由から不可能であった分野である。

 今まで2回、病棟や検査課、医事課など見て歩いた。病棟は日常の私の仕事場であり、安全管理上でも大体満足すべき状況にあったが、午前のこの時間帯に訪れると医師・看護師が入り乱れて業務を行っており、さすがに狭い。特に検査課・医事課では圧倒的スペースを占拠する各種測定機器、資料・書類の量にスタッフの居住空間が圧迫され、前者では騒音もひどい。解決にはスペースの確保が絶対的に必要であるが、これはおいそれと解決出来る問題ではない。ただ、いま進行中のオーダリングシステムへの切り替えによって多少の変化がもたらされる可能性はある。

 3回目巡視の今週の月曜日はかねてから興味を持っていた階下設備等の巡視である。当院では私は未だ一度も足を踏み入れたことのない領域である。給水湯、冷暖房等の空調、電気・ガス等のエネルギー関連設備、補助発電装置、医療ガス供給関連施設、加圧・減圧配管設備、消火設備、電話・IT関連の通信設備等の諸施設で施設課長の案内をで見て回った。要するに、病院の機能、ライフラインを維持する中枢的設備である。これらの施設・設備をまだ直接この目で見ていない、と言うことは病院管理者として私の大きな負担になっていた
 エネルギー、空調の多くはこの地下の設備から配管、配線が病院の隅々まで張り巡らされ、機能が維持されている。心臓と血管の関係であるが、その全てのルート、設備の現状の問題点を把握している施設課長の知識・見識もさることながら、24時間体制で切れ目無く、病院の医療活動の表に全く出ることもなく、裏方に徹して保守点検を行っている職員の働く姿に感じ入った。病院のスタッフとして通常挙げられる職種の中でも最も目立たない存在であるが、その働き、技能は大きく評価しなければなるまい。

 巨大な台風や地震等の自然災害時等の際、あるいは火災、あるいは等施設内設備の故障等の際、診療維持や患者の安全確保がすぐに語られるが、それとは別にこれらの巨大なパワーを有する各施設の安全確保も優先事項である。これらの機器、施設、設備がシャットダウン、あるいは暴走した際に生じる二次的・三次的被害はただならぬ規模にもなりうるものと推察する。病院の安全管理の責にあるものは定期的にこれらの施設に関する情報も頭の中に入れておかねばならない。
 また、目から鱗が数枚落ちてしまった。
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