福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

消費税増税延期(1) 衆議院を解散すべきだ

2016年05月31日 16時53分38秒 | 政治・経済 国際関係
 安倍首相は消費税増税の2年半の延期を決定した。
 私は、正解のない、苦渋の決断だった、と思う。正解はないから政治的決断で白黒を表明するしかなかった、と思う。しかしながら、この決断は我が国の将来にとって重大な決定になる。こんなことを現内閣の検討のみで決めていいものか、疑問である。

 増税延期ならば解散総選挙すべきとの意見もあったという。私はまさしく方法論的に正論だと思う。消費税増税の2年半の延期の発案は首相だっただろうが、内閣としては衆議院を解散し総選挙すべきと考えなかったのであろうか。

 今回の消費税増税に関する延期の結果、国民生活に大きなマイナスが生じる。財政健全化が一層困難になる。社会保障福祉など、今まで増税したらやるぞやるぞと言っていた政策の大部分ができなくなる。これは、国民一人一人に覆い被さってくる。本当は、国民がもっと主体的に考えなければならない重要事項なのだ。

 景気の維持、国民生活の維持、国際競争力の維持のためには増税延期の決断は妥当だった、と私も思う。しかし、財政再建は明らかに遅れる。それどころか、赤字国債は今後も発行せざるを得なくなり、世界経済にとって不安要素の一つとなっていく可能性がある。

 野党は内閣不信任案を提出して抵抗したが、これは拙い戦略だった、と思う。国会議員の数からして不信任案が通る可能性はゼロに近い。不信任案が否定された、ということは、実際には個々の政策が認められたことには直接つながらないが、内閣の姿勢が認められたことにはなる。野党は解散総選挙を求めてこの重大な決断を国民に直接問うべきであった。不信任案が通る確率はゼロであるが、解散総選挙では内閣の決断を否定することができる可能性が若干はある。

 野党はなぜ声を大きく解散を求めなかったのか?
 野党はアベノミクス失敗の結果だから内閣退陣とはいうが、アベノミクスへ対案となりうる経済政策は持っていたのか?私には見えない。だから、いま解散総選挙になったとしても、野党が声を大きく主張できる経済政策を欠くから、選挙には勝てない、と判断したのだろうか。
 だから、小手先の不信任案で抵抗したかのごとくに見せるしかなかった。私はそう思っている。大体、野党は消費増税を予定どうりに実施すべきだった、と主張できる根拠はあるのか?増税を決定しても不信任案を出したのではないか?と思う。

 首相がアベノミクスを提示したのは英断であった。しかし結果が思ったようには進まなかった。野党はアベノミクスが失敗したと騒ぐだけでは政治姿勢として物足りない。自分たちが当初提起した経済政策が、この社会情勢ではどうなっていたのか、シミュレーションしてアベノミクスと比較し、それ以上に勝っている政策と確信できるなら、今からでも世に問うてはどうか?
 もう一つ、今後、アベノミクスをこのまま踏襲するだけでは2年半の延期の意味はない。改善案はあるのかが問われる。野党にはアベノミクス以上に価値ある代案を提起できるかが問われている。
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徒歩通勤2016(3) 全行程の50%達成 いま山口県海岸線歩行中 

2016年05月30日 09時03分58秒 | 徒歩通勤 ウォーキング
 平成13年3月から本格的に徒歩通勤を始めた。
 ただ歩いているだけではつまらん、と伊能忠敬が歩いたコースをたどることとした。歩数計「新・平成の伊能忠孝」は歩行実績が積算されてデータに残る優れものである。その積算を13年4月7日から開始した。

 約3年かかって本日Σ8757Kmに達し、本日の段階で山陰の山口県の海岸線を通過中である。これで日本一周目標の50%にやっと到達したことになる。

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 東京出発から現在までのデータ(目標は10Km/日)。
    所用日数        1152日 
    総歩数         1096万歩
    歩行距離/日本一周距離  8760km/19044.18Km
    1日平均歩数       9514歩
    1日平均距離       8.0Km   
   (上記は歩数計「新・平成の伊能忠敬」の積算データによる)。
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 「継続は力なり」は私の好きな言葉である。
 約3年間、右足首に歩数計をつけ、入浴時間以外は出来るだけ外さず、1日も欠かすことなく(?)歩数を蓄積してきた。歩数計をつけてからは一歩たりとも無駄にしたくなく、ちょっとした道なら廻り道などして積極的に歩数を稼いだ。

 足首につけ忘れて出勤したのもゼロではないが、気づいた瞬間からガックリきて一歩も歩きたくなくなる。連日の歩数の蓄積は私の心を賦活してくれている。
 秋田市は12月から2月一杯は降雪・積雪・道路凍結期であり危なくて歩行し難い。だから2-4千歩/日止まりになる。それで、今年はスパイク状のアダプターを靴に付けて出来るだけ歩数を稼いだ。

 春季から秋にかけては出勤日は13.000歩程度であるが、休日は徒歩出勤がないために歩行数がどうしても少なくなる。
 マア、3年続けた結果が歩数の1日平均が9.514歩、距離が8.0Kmは計画に略近い。季節的なハンディもあるし、年齢の割にはまずまずだろう、と自己評価している。ちょっと甘いか!!

 最近、ちょっと疲れやすくなった様な気がする。多少意欲の減退も感じている。だから、後半は同じようなペースで行けるかは分からない。この歩数計があと3年余故障なく動くのだろうか?無くしないだろうか?さらに、私の状態は?・・・と懸案は尽きない。だからこそ楽しみも大きい。
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熊本地震の住宅倒壊を見て(2) 「枠組み壁工法」はもっと注目されていい工法

2016年05月29日 16時23分07秒 | 時事問題 社会問題
 あまり明快な公的な資料はないが、パネル工法と柱を用いた従来工法には耐震性に大きな差があるように思われる。前者は「軸組工法」、後者は「枠組み壁工法」とも呼ばれる。
 「枠組み壁工法」は北米の木造住宅の一般的な工法で、工場で作られた規格部材を使用するため工期が短い。しかし、壁が構造材として形状を支えるために窓やドアなどの開口部の大きさに制限がある。

 某社の木質パネル接着工法は強力接着剤とスクリュー釘で、6面の構造体の間で隙間のないモノコック構造にすることで、外力を分散する高剛性の家とし、高水準の耐震/制震住宅を可能にしている。

 一般社団法人日本ツーバイフォー建築協会のデータによると、地震の際の被害状況の概要は以下の如くとなっている。母集団などの数は表示されていないので厳密な比較はできないが、私は工法による差は明らかだ、と思う。

@ 2011年3月東日本大震災は我が国の観測史上最大のM9.0、震度7であった。協会の調査対象住宅は2万戸で、そのうちツーバイフォー工法の住宅は絶対数はわからないが当面居住に支障ないが95%、津波による被害を除けば98%であった。

@ 2004年10月新潟県中越地方を中心に、M6.8、震度7が発生。家屋の被害は全壊・半壊が約18,800棟、一部損壊を含めると約9万棟が損壊の被害に遭った。ツーバイフォー住宅の絶対数はわからないが大きな被害は報告されていない。

@ 1995年1月阪神・淡路大震災。大都市直下で発生したM7.3、震度7で大惨事となった。家屋は全壊約10万棟、半壊を含めた一部損壊が約29万棟以上。協会によると、ツーバイフォー住宅は絶対数はわからないが96.8%が補修せずに居住可能な状態を保った。

@ 熊本地震、まだデータはない。

 「軸組工法」、「枠組み壁工法」による耐震性には明らかな差があると思われるが公的はデータはない。多分、把握はしているだろうが住宅関連企業の保護のためにも公開できないのだろう。

 私が「枠組み壁工法」住宅に興味を持ったのは、詳細は忘れたが豪雨のために川が溢れ、川岸の住宅が流された時の画像であった。「軸組工法」の住宅は崩れながらバラバラになって流されたのに対して「枠組み壁工法」住宅は崩れることなく形を守ったまま箱の如く流された被災画像であった。

 私が約40年前に、当時まだ珍しかった「枠組み壁工法」住宅に決めた。
 私は住宅の耐震化には「枠組み壁工法」住宅を選ぶのも一方法、だと思う。また、このことはもっと知られていいと思う。
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熊本地震の住宅倒壊を見て(1) わが国ではパネル工法がいいのでは 

2016年05月28日 17時57分39秒 | 時事問題 社会問題
 熊本地震は4月14日の前震、16日の本震と激震が2回生じ、倒壊した住宅などの下敷きなどで直接の死者は49人に上った。半壊・倒壊した建物は84.000棟を超えている。その割には犠牲者が少なかった。私は前震の存在が被害を少なくしたと推定している。 

 あれから1.5ヶ月経過、大きめの余震は未だに続いている。
 熊本・大分地方の方々の不安は未だに癒えない状況にある。被災された方々には心からお悔やみ申し上げたい。

 国は1981年に建築基準法を改正し、震度6強~7の地震でも倒壊しないよう耐震基準を厳しくした。基準を厳しくしたと言っても対策は遅々として進んでいない。2013年の推計でその基準を満たす住宅の割合は、全国平均が82%とされている。熊本県は76%と推定されていた。

 熊本地震で倒壊した住宅の多くは、耐震基準の改正前に建てられたものとみられる。築40年以上と推定される木造住宅の倒壊が多かった。1995年の阪神大震災でも倒壊建物が多く、直接の犠牲者の約8割が、倒壊した住宅や倒れた家具に圧迫されて死亡している。

 阪神大震災、今回の熊本地震を見ても、住民の安全を確保するには、住宅の耐震化を一層進めなければならないことがわかる。
 しかしながら、住宅の耐震化には100万円以上かかるとされる。各自治体で30万円ほどの助成金を用意しているところもあるが、なかなか手をつけられてない。地震の予知は無力である。自分が被災する可能性は全くわからない。加えて、老夫婦の住宅などでは健康問題などからいつまで住めるかわからない、などの事情で、わかっていても改修に多額の費用をかけることをためらうのは当然である。

 住宅の耐震化は何より急務だ、と思う。だが、なかなか進まない現状をみると、従来とは異なる対策も必要ではないか。しかも、熊本地震を見ると、基準を満たすだけでは十分ではなかったようだ。益城町では新耐震基準を満たした120棟のうち70棟が倒壊か全壊状態になっていたとされる。耐震基準だけでなく地盤の強弱も関連しているようだ。

 私は地震で倒壊した建物の写真を興味を持って見ている。
 阪神大震災でも、今回の熊本地震でも無残な様相を示しているのは従来型工法と呼ばれる柱を多数用いて作られた住宅である。もともと地域によってはパネル工法の住宅は少ないからなんとも言えないが、私が見た範囲でパネル工法の住宅の倒壊例は見ていない。

 私は震災の多いわが国ではもっとパネル工法が普及してしかるべしと思っている。通勤の際に工事中の、新築中の住宅を目にするが、ほとんど従来工法で建てられている。住宅はその土地の文化であるから、工務店の力にもよるだろうが一般的には従来工法の家が建つ。

 簡単に言えばパネル工法はダンボール箱のようなもので、柱がなく、構造全体を壁面せ支える構造である。ひねり、引っ張り、振動、圧縮などにはとても強い。従来型の工法で作られている住宅もかつてに比べて柱の密度は高く、筋交いや柱と柱の接合部は金属で補強されている。これが新基準というものであろうが、地震の際の、ひねり、引っ張り、振動、圧縮には耐えられないのではないか??と思いながら興味深く見ている。柱は、驚くほど細い。

 私がパネル工法に興味を持っているのは、建築に興味があるのではなく、築40年近くではあるが、我が家がパネル工法だからである。私は地震による倒壊は想定していない。しかし、家具などに押しつぶされる可能性は否定できない。
 
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昭和27年4月10日自宅消失(13) 我が家に及ぼした影響(4) 母の人生は(2)

2016年05月27日 14時51分38秒 | コラム、エッセイ

 第六の転機は、兄が転職し、養子縁組して奥さんの実家に入ったことであった。母は改姓と言うことで身内から離れた長男を、死別と半ば同じ、と無理矢理自分を納得させていた。兄が事故で肝臓破裂を起こし生死をさまよっていた時にも母の対応は不思議なほどクールであった。いつもは感情的な反応を示すのだが、その時は全く予想に反した反応を示した。すでに母にとって兄は他人と等しい存在になっていたのだ。

 第七の転機は、私の秋田への転居である。家内が秋田出身であることから、兄同様に息子を秋田にとられてしまう、との感覚で理解してしまった。私自身はそんな発想は全くなく、学びと育児を両立させられるという願ってもない恵まれた道とし秋田を選択したのであるが、母は説明の度に表層的には解った様な表情をしてはいたが、決してその様には理解していなかった。私はその気持ちを埋めるために、誤解を解くために頻回に盛岡に出かけたし、母を秋田に呼んで孫との時間を過ごさせるようにした。

 母の最後の、私が八番目の転機としたのは、秋田組合総合病院に肝不全兆候で入院中にトイレで軽く転倒、右手首の骨折をしたことであった。それを機に母は表情も乏しくなり、殆ど発語もなく、笑顔を見せることもなくなった。また、食事摂取を全くしなくなった。生きる意欲を失ってしまった。治療も一切受け付けなかった。
 私は迷いに迷ったが、母の好きなようにさせる方針をとった。長い間の葛藤からの解放の時間が迫っている。
 数日後、母は静かに息を引き取った。

 母の人生は昭和27年の火災に始まる変化に翻弄されながら、紆余曲折のある人生を昭和53年に閉じた。

 私が大きな悲しみに襲われたのは母の死後数ヶ月も経って、身辺の整理もかなり進んだころからであった。彼女の人生は一体何だったのか?私や長男は彼女の人生にとって一体何だったのか?私が最終的にとった治療方針は果たして正しかったのか?他の選択肢はなかったのか?・・等々、しばらくの間、私はこれらの問題で苛まれることになるが、過ぎゆく時が私を癒してくれた。

 亡き母は今でも私の心の中で比較的大きな存在感と共に生き続けており、母の生き様は、今ある私にも、今後の私も、私が死を迎える際にも、陰となり表となり、おそらく私に影響し続けるだろう。母を思うとき今でも自省することは少なくない。そんな私であるが、いや、そんな私だからこそ、母はいつも私にとって大きな存在であり続けるのだと思う。
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