人には死ぬ権利がある。私は自分のいのちの使い方については最終的には誰からも指図を受けたくは無い。
社会的には自死は悪、ととらえている。私はまだそんなことを個人に押しつけている社会のほうが悪い、と考えている。
死はあらゆる苦痛、苦悩からの解放であり、安息の獲得と思う。
むしろ、現代の死が、家族の価値観、他人の価値観、社会の価値観で、安易に医療に委ねられ、不自然な形で生きながらえなければならない現実の方に疑問を抱いている。
最近、高齢者医療の中で、延命治療や過剰医療を排した自然死、平穏死、尊厳死など取りざたされている。一見格好いい考え方である。しかし、私はそうは考えない。
どんな名称を付けたにしても、全て社会からはめられた枠の中で、その時を待つだけの死であり、個人の自由は無い。自由になるのは唯一、自死しかない。自死は弱ってからでは実行出来ない。
私は自死をしなくて済むために、いわゆる安楽死も個人の自由と尊厳を守るために選択の中に入れていいと思う。
西部邁氏は社会に認められた死の方法がないために「自裁死」と格好つけた自死を選んだ。死んだ結果は多分満足しているかも知れないが、死に至るまでの、意識を失う迄の過程は辛かっただろうし、やはり氏の死に方も不幸な選択の一つである。安楽死が許されていれば、苦痛無しに静かに意識を失うことが出来たはずである。
いのちの使い方については最終的には自分という考え方に立っても、自死には他人から見て不可解なメッセージが込められているから、特に近親者にもたらす影響は余りにも大きい。
「自裁死」であっても同様でる。
西部氏の死について他人の私がとやかくいう筋合いではない。
西部氏の記述や発言を追って「自裁死」への過程を推定してみる
■個人主義と技術主義に基づく米国流の近代主義は反対。
■「平凡なものにこそ非凡な歴史の英知がある」と伝統を重視。
■理想と経験、現実における平衡感覚の大切さを説き、「活力・公正・節度・良識」を規範とした。
■人間とは何か、どう生きればいいかを模素、良き人間とはどういうものかを訴えようとした。
■専門的狭い世界でではなく、総合的な知を志向、論理性と情感を併せ持った独特の文体で、自らの人生と思想を交錯させた。
■社会に蔓延する偽善や欺瞞の言説に我慢がならない。
■あらゆる社交の場で必要なのは場をわきまえた礼儀や節度であり、公正の感覚である。
■重要なのは、義の精神であり、自立の矜持であり、節度であり、優れたものを前にした謙虚さである。
■家族、特に夫婦の大切さを説いた。自宅で末期がんの妻をケアし「保守思想とは妻の看病をすること」と述べ、その死後は自身を「半死者」と呼んだ。
これが西部流保守思想と言われる一部らしい。
時代の現実を見れぱ情報化とともに日本社会の変容はとどまることを知らない。平成の末期まで生きて、西部氏の絶望も極眼まできて、許容することが出来なくなっていたであろう。
氏は無神論者と言う。現実の世界から「無」の存在に移ったのだ。
社会的には自死は悪、ととらえている。私はまだそんなことを個人に押しつけている社会のほうが悪い、と考えている。
死はあらゆる苦痛、苦悩からの解放であり、安息の獲得と思う。
むしろ、現代の死が、家族の価値観、他人の価値観、社会の価値観で、安易に医療に委ねられ、不自然な形で生きながらえなければならない現実の方に疑問を抱いている。
最近、高齢者医療の中で、延命治療や過剰医療を排した自然死、平穏死、尊厳死など取りざたされている。一見格好いい考え方である。しかし、私はそうは考えない。
どんな名称を付けたにしても、全て社会からはめられた枠の中で、その時を待つだけの死であり、個人の自由は無い。自由になるのは唯一、自死しかない。自死は弱ってからでは実行出来ない。
私は自死をしなくて済むために、いわゆる安楽死も個人の自由と尊厳を守るために選択の中に入れていいと思う。
西部邁氏は社会に認められた死の方法がないために「自裁死」と格好つけた自死を選んだ。死んだ結果は多分満足しているかも知れないが、死に至るまでの、意識を失う迄の過程は辛かっただろうし、やはり氏の死に方も不幸な選択の一つである。安楽死が許されていれば、苦痛無しに静かに意識を失うことが出来たはずである。
いのちの使い方については最終的には自分という考え方に立っても、自死には他人から見て不可解なメッセージが込められているから、特に近親者にもたらす影響は余りにも大きい。
「自裁死」であっても同様でる。
西部氏の死について他人の私がとやかくいう筋合いではない。
西部氏の記述や発言を追って「自裁死」への過程を推定してみる
■個人主義と技術主義に基づく米国流の近代主義は反対。
■「平凡なものにこそ非凡な歴史の英知がある」と伝統を重視。
■理想と経験、現実における平衡感覚の大切さを説き、「活力・公正・節度・良識」を規範とした。
■人間とは何か、どう生きればいいかを模素、良き人間とはどういうものかを訴えようとした。
■専門的狭い世界でではなく、総合的な知を志向、論理性と情感を併せ持った独特の文体で、自らの人生と思想を交錯させた。
■社会に蔓延する偽善や欺瞞の言説に我慢がならない。
■あらゆる社交の場で必要なのは場をわきまえた礼儀や節度であり、公正の感覚である。
■重要なのは、義の精神であり、自立の矜持であり、節度であり、優れたものを前にした謙虚さである。
■家族、特に夫婦の大切さを説いた。自宅で末期がんの妻をケアし「保守思想とは妻の看病をすること」と述べ、その死後は自身を「半死者」と呼んだ。
これが西部流保守思想と言われる一部らしい。
時代の現実を見れぱ情報化とともに日本社会の変容はとどまることを知らない。平成の末期まで生きて、西部氏の絶望も極眼まできて、許容することが出来なくなっていたであろう。
氏は無神論者と言う。現実の世界から「無」の存在に移ったのだ。