本日はこの様な会を催していただき大変ありがとうございました。
私は今期限りで県医師会役員を辞することとし、会長、副会長から了承をいただきました。来期から困難な責務を負う新執行部の方々に心から敬意を表したいと思います。今後は一会員の立場から会員としての責務を果たしたいと考えております。
私の医師会歴は結構長くなります。会員になったのは秋田大学の時でしたが、どんな経緯で医師会に入会したのかはよく覚えておりません。1985年現病院に赴任し秋田市医師会員に異動、1992年4月から4年間、市医師会の理事を1996年から10年間県医師会の常任理事を、2006年から小山田会長のもとでは2期4年副会長を仰せつかりました。
医師会活動を通じてとても良い経験をさせていただきました。枚挙に暇が無いのですがそのうちの幾つかを挙げてみたいと思います。
■ 1993年に県南地区に自治医科大学病院が進出してくるらしい(?)と言う問題が発生、県医師会は反対決議をすると共に自治医大問題検討委員会が設置され、私も委員の一人に選ばれました。この問題は当時の佐々木知事の発案で、現実にはあり得ない構想であるという結論を得て委員会に報告しました。
■ その時の働きが評価されたのか否か分かりませんが、1996年4月、故藤原会長の執行部が発足する際に県医師会常任理事となり危機管理部門も担当することになりました。同年7月国内にO-157問題が発生、県医師会内に相談室を設置し担当しました。
■ 寺田会長時代、1997年県医師会は設立50周年を迎えましたが記念事業の一つとして県医師会史(2)を編纂することとなり、広報・医報を担当していた私が責任者として指名されました。2000年3月に刊行できましたが、持ち前の経済観念ルーズさから予算より300万円も超過し、県医師会に大きな迷惑をかけてしまいました。
■ 2003年はSARS問題で秋田県担当部署と共に対策を進めましたが、国内発生例はなく事なきを得ました。この準備が新型インフルエンザ対応に役立ちました。同年秋、東北医連の席上、慈恵医大青戸病院事件関連の質問し坪井日医会長を怒らせてしまいました
■ 2009年、諸事情から役員の最後の一年と思っていたこの年に新型インフルエンザの流行を迎えたことは本当に奇遇でありました。10年以上も強毒型を想定して準備をしてきましたが、幸いなことに別タイプの発生・流行で、何とか乗り切ることが出来ましたが、感染症危機管理上大きな経験が出来ました。
■ 2期4年間、小山田会長のもとで副会長を努めさせていただきましたが、私にとって本当に光栄なことでありました。十分なサポートが出来たのか、と自問すれば忸怩たるものがあります。
この様にならべてみますと、随分長く役員をつとめたものだと改めて思います。ザッと総括すれば、随分頑張って来たと思う一方、やり残した事項の方が多かった様に思います。
私は今期限りで県医師会役員を辞することとし、会長、副会長から了承をいただきました。来期から困難な責務を負う新執行部の方々に心から敬意を表したいと思います。今後は一会員の立場から会員としての責務を果たしたいと考えております。
私の医師会歴は結構長くなります。会員になったのは秋田大学の時でしたが、どんな経緯で医師会に入会したのかはよく覚えておりません。1985年現病院に赴任し秋田市医師会員に異動、1992年4月から4年間、市医師会の理事を1996年から10年間県医師会の常任理事を、2006年から小山田会長のもとでは2期4年副会長を仰せつかりました。
医師会活動を通じてとても良い経験をさせていただきました。枚挙に暇が無いのですがそのうちの幾つかを挙げてみたいと思います。
■ 1993年に県南地区に自治医科大学病院が進出してくるらしい(?)と言う問題が発生、県医師会は反対決議をすると共に自治医大問題検討委員会が設置され、私も委員の一人に選ばれました。この問題は当時の佐々木知事の発案で、現実にはあり得ない構想であるという結論を得て委員会に報告しました。
■ その時の働きが評価されたのか否か分かりませんが、1996年4月、故藤原会長の執行部が発足する際に県医師会常任理事となり危機管理部門も担当することになりました。同年7月国内にO-157問題が発生、県医師会内に相談室を設置し担当しました。
■ 寺田会長時代、1997年県医師会は設立50周年を迎えましたが記念事業の一つとして県医師会史(2)を編纂することとなり、広報・医報を担当していた私が責任者として指名されました。2000年3月に刊行できましたが、持ち前の経済観念ルーズさから予算より300万円も超過し、県医師会に大きな迷惑をかけてしまいました。
■ 2003年はSARS問題で秋田県担当部署と共に対策を進めましたが、国内発生例はなく事なきを得ました。この準備が新型インフルエンザ対応に役立ちました。同年秋、東北医連の席上、慈恵医大青戸病院事件関連の質問し坪井日医会長を怒らせてしまいました
■ 2009年、諸事情から役員の最後の一年と思っていたこの年に新型インフルエンザの流行を迎えたことは本当に奇遇でありました。10年以上も強毒型を想定して準備をしてきましたが、幸いなことに別タイプの発生・流行で、何とか乗り切ることが出来ましたが、感染症危機管理上大きな経験が出来ました。
■ 2期4年間、小山田会長のもとで副会長を努めさせていただきましたが、私にとって本当に光栄なことでありました。十分なサポートが出来たのか、と自問すれば忸怩たるものがあります。
この様にならべてみますと、随分長く役員をつとめたものだと改めて思います。ザッと総括すれば、随分頑張って来たと思う一方、やり残した事項の方が多かった様に思います。