福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

捨てる2014(10) 恐怖感と劣等感
 

2014年07月31日 11時22分15秒 | コラム、エッセイ
 私の人生があまりにも恵まれて、安易な道ばかり選んできた。 
 自らも望んだし努力もしたが、医学部に進学出来た事で私の人生の大部分が決まってしまった。本当に運が良かったといまでも思う。ホンの、紙一重の差、ちょっとした幸運で得られた幸運が運のよさだけであったと自認している。

  この幸運が無かったらどうなっていたのか?もし、医師へ進めなかったら私はどうなっていたか?と言ったような恐怖観、それなりの苦労はあったが、地を這う様な思いをして生きてきたわけではない、子育てしたわけではない・・こんな事が長い間の劣等感、自責の念を抱く事になった。

 医師として歩んだ私の道は人的にも社会的にも、最高に恵まれていた。家庭的にも恵まれていた。このギャップが逆に私の劣等感のもとになっている。
 ただ、私が抱いた恐怖感、劣等感は「他人との比較によるものではない」事が自分にとって最大の救いであった。すべて自分の内面の問題であった。他人ををうらやむ事は無かった。従って、私のこんな心情に気づいていたのは、おそらく誰もいなかったと思う。

 恵まれていた状況にありながら消す事が出来ない劣等感、それを乗り切るために、私は自らを苛む様な生活設定をして自らを鼓舞して来た。ただし、この事自体も今考えてみれば甘い自己満足の遊びの様なものだ、とも思う。
 「こうすればもっと楽になるはずだ」と分かっている様な道は、その道に流される様に進めばさらに大きく後悔するから、自分の弱さに対し小さな闘いを挑んできた。

 なぜ、徒然日記を続けてきたのか?職場のエレベーターに乗らないのか?手術した時に術後あえて鎮痛剤を拒否したのか?現役の時に処理しかねるほどの業務を引き受けていたのか?・・・・。
 
 私は修行中と言う言葉を好む。「何にもならないムダな努力だけれど、劣等感を凌駕するためにムダな修行はない」とでも考えていたのだろう。今となればそう思うが、バカであった。

 現役の最中に迎えた困難な日々が私の人生をとても豊かにしてくれた。その果実をたくさん得たからこそ、多くの事を学ばせてもらったからこそ、私の満足感はとてつもなく大きかった。しかし、心の中では別な感覚もあった。
 今はもう、それほど自分を追い込む必要も無い。こんな事が過ぎ去った日々を忘れようとしている理由である。自分自身に気を使う事もなく、自由に生きられる喜びで一杯である。
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午年を迎えてから6ヶ月も経った(3) 午年・馬について(2)馬とのホットな関係を示す言葉



2014年07月30日 19時31分36秒 | コラム、エッセイ
 近年は実生活の中では馬と触れる事は無くなったが、今でも各地域では神事や祭りの際に馬を欠く事は出来ない。盛岡の「ちゃぐちゃぐ馬っこ」は私にとっては懐かしい祭りで、馬が主役である。「南部曲がり屋」は馬は家族の一員であった事を示す住宅形式である。郷里の岩手では馬と人間が深く関わって生きていた。

 その他、ダービーが盛んであるが、精悍な馬の姿、疾走する姿は美しい。映画やTVの時代劇の中でも馬は重要である。遊園地の馬を見るたびに懐かしい思いがするが、老齢馬が多く痛ましい感じがする。

 人間の社会にとって馬が如何に大切であったか、今は知る人も少ないが、生活文化の中に名残が残っている。馬が関連している言葉はとても多い。
 ■絵馬:むかしは豊かな貴族達、大名等は神社に馬を奉納していた。馬は神の使いとされ神馬と言う言葉もある。かつての神社には馬小屋が在ったとされる。時代とともに馬から木に代わり、次いで木片になり、馬から他の絵柄に変化した。今は馬の面影も無いが、木札の名前が絵馬として残っている。

(近所のお堂に納められた絵馬。一週間前にお堂っこ祭りが行われ,多数の子供達が参加した。)
 ■御馳走:馳せるのは高速で走る事であり、馳走は馬で走り回る事である。馬に乗って走り回ってもてなしの準備を集めたので、もてなす料理を御馳走と言う様になった。美味しいものをしめす事もある。宅配便で届くのは御馳走とは言えないようである。
 ■引き出物:招待した客にかつては馬を贈り物にした。庭に引き出した馬を客に選ばせて贈り物にしたとされるが、その馬を引き出す風習が引き出物と言う言葉で残っている。
 ■はなむけ:むかし旅立ちの人を見送る時に旅の安全を願って目的の方向に馬の鼻を向ける風習があった。この鼻向けがはなむけと言う言葉として残ったもの。入学式などの時に歓迎の言葉として「はなむけの言葉」などと使われるが、相応しくない。卒業式なら間違いでない使い方と言う事になる(この項はラジオ深夜便1月20日4:05amを参考にした)。

 この様に馬が登場する言葉、熟語、教訓はとても多い。国語辞典等を参照にざっと並べてみた。
•馬子にも衣装 •馬車馬の様に働く •馬が合う •馬乗りになる •馬には乗ってみよ、人には添うてみよ •馬耳東風 •馬を水辺に連れて行くことは出来るが水を飲ませることは出来ない •じゃじゃ馬ならし •天高く馬肥ゆ •人を射るには先に馬を射よ •人間万事塞翁が馬 •尻馬に乗る •生き馬の目を抜く •馬並み •馬脚を現す •馬の耳に念仏 •人馬一体・・・・・・・。
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新年を迎えてからもう6ヶ月!!(2) 午年・馬について(1) 人馬一体


2014年07月29日 03時26分14秒 | コラム、エッセイ
 午年を迎えてからもう半年以上経過した。早いものである。
 馬は人間にとって代表的家畜である。干支の中で午年をウマ年と読むが、馬年ではない。何でだろうか。中国から伝来した十二支を一般的に覚えやすくするために適当に動物の名前を割り振った時に、午の所に馬が割り振られたことから来ているのだそうだ。

 馬は頭がよく、飼い主の指示を理解し人と馬との間に共感も生まれる。昭和20-30年代は各戸とも農耕馬を飼っていたものである。黙々と農作業に従事する馬を大事にしていたし,馬もそれに応えていた。夕方、泥に汚れた躯を地域のため池で洗ったものだ。馬のうれしげな表情は忘れられない。私が小学に入る迄はわが家でも祖父の往診用に一頭飼育していた。優しげな目をした馬であった。

 人と馬の主従関係の確立は紀元前4000年ほど前からだったとされている。主に乗り物として用いていたらしいが、紀元前2000年ごろに馬車を疾走させることができるようになって馬が瞬く間に世界に広まり、陸上輸送の要、戦車としてとして軍隊の主力となった。また、馬耕という農法を生んだ。西ヨーロッパでは騎兵戦闘法が生まれ発達した。第一次世界大戦時が騎馬戦と銃砲戦との端境期であった。

 わが国に馬が渡来したのは弥生時代末期といわれ、平安時代には競馬が行われていた。平将門は騎馬による機動的な戦闘を行ったとされている。その際,馬は跨がる主人の指示に従っていのちを張って戦いに参加した。動物の本能として自ら受傷する可能性も自覚していただろうに、その際の行動の背景は何なのだろうか。
 飼い主は馬を大事にし,馬はそれに応えた。人馬一体となったヒトとの間に多くのエピソードが生まれている。名馬として歴史に名を残している馬も少なくない。

 江戸期の太平の時代になると、軍馬としての馬の需要は減り、一方で市民経済の発展に伴って荷馬・農耕馬に用いられるものが増えてきた。日清戦争・日露戦争以降には再度軍馬としての需要が増し、国力の維持にも重要な位置づけであった。

 太平洋戦争後の経済復興期迄ウマは農耕、荷役、鉄道牽引などに用いる代表的家畜であり、ピーク時には国内で農用馬だけで150万頭が飼育されていた。平成13年の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬だと言う(ブリタニカ百科事典を参照した)。
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四季2014(6) 7月中だと言うのに2週間前から早朝はもう秋


2014年07月28日 16時51分30秒 | 季節の話題
 私の大好きな夏は間もなく終わる。秋は嫌だ。


 ここ最近、17:00のNHKTVニュースは連日気象のニュースから始まる。関東以南のゲリラ的豪雨の話題、さらに、猛暑のニュースが並ぶのが常である。7月25日は共同通信の集計では一日1.009人で3人が死亡している。

 秋田はここ数日日中の気温は30℃もある。しかし、2週間ほど前から早朝3-5時頃はかなり冷え始めた。私はしらじらと明けて来る早朝4:30頃にはいったん外に出る。この時間帯がとても気持ちがいい。畠の収穫と撒水、庭の植木、草木に対する撒水等を行う。

 明けてくる早朝の空は高い。もう秋に特徴的な細切れの雲が出始めた。涼風が足下を冷やし,足下の雑草の露のスリッパ履きの足が濡れる。

(早朝の空と秋の雲。電柱の最上端に小さな風車が回っていた。誰が何のために??)

 通常は8月中旬、お盆の頃からであるが、今年はちょっと早い。一昨年は夏の猛暑が長引き約1ヶ月ほど延びた。昨年は7月下旬に感じた。熱中症などの問題はあるが、これからの日々は残暑が一日も長く続くことを願っている。



 マア、いろいろだが四季の移ろいには味がある。それを毎日体感出来る生活であることに喜びを感じる。嫌いだ・・と言ってても必ず秋は来る。そんなことを言っているより、毎日を楽しむ方が良い・・と納得。

 一方、植物はどうしているのだろうか?
 植物は移動する事が出来ないために四季の移ろいを敏感に感じ取って次の季節の、さらには翌年の準備を早々に開始している。要するに、植物は精密な情報収集機能を持ち、命を守るために数ヶ月以上も前から備えを怠らない、という。

 メディアは最高・最低気温、湿度などを報じているて長期予報も出しているが、住民の五感を通じた観測が取り上げられることはまず無い。

 先日、農村復興政策の指導者であり、かつて小学校の校庭に銅像があった二宮金次郎(尊徳)についての小冊子を読んだ。
 二宮金次郎は、自然観察に長けており、毎日観察日記を怠らなかった。時には土を味わい、土地に何が不足しているのかを判断して耕作・施肥を指導した。ある年に、夏に漬けたナスが秋なすの味がした事、芋の蔓の伸びが悪い事、葉の先がかれた枝が多数見られた事、などから冷夏の訪れを予想し、育ち始めたコメの苗を抜き、代わりにヒエや粟などを栽培させた。二宮の予言どおり、冷夏で凶作が続き天保の大飢饉となったが、金次郎の地域では餓死者が一人も出なかったと言う。
 五感を大事にした金次郎も人間関係の維持には五感が働かなかったらしく、「荒れ地の開拓は易しいが、荒廃した人のこころを開拓するのは難しい」と言う言葉を残している。

 私の気候に関する五感など、蓄積も無いし中てにはならない。しかし、個人的には今秋、今冬の気候についてはより厳しいのではないか、と予想をしている。
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「絆」、「おもてなし」などの美しい言葉の意味は変容していく

2014年07月27日 17時10分37秒 | コラム、エッセイ
 2011年の世相を一字の漢字で表す「今年の漢字」は「絆」であった。選ばれた時点では私もとても良い選択だったと思った。


 漢字を含む日本語はとても素晴らしい言語だと思う。一つ一つ の漢字に歴史,生活があった。漢字の研究で名高い白川静氏の著書を読む度に感心してしまう。漢字一つ一つのに深遠な意味が込められている。だから,「今年の漢字」などの行事が成り立つ。

 震災後「絆」、「助け合い」などの言葉が繰り返されて強調されてきた。この言葉が空虚であったことは、大震災の記憶が忘れられかかっているぱかりか、これらの言葉が刃の様になって、「被災者の分断」と「相互敵対心」をもたらした、と言う見方もある。
 いつまでも甘えるなという被災者バッシングさえも聞かれた。勿論、助け合いには、「自助」、「共助」、「公助」がある。まず自助の考えがあってしかるべきで、その後に「共助」、「公助」であることは理屈としては分かる。しかしながら、被災地域、被災者が「自助」出来る迄の援助が体系的になされなければならない。被災者を仮設住宅に住まわせ、地域のガレキが整理されただけでは地域は再生しない。

 あれほど強調された「絆」、「助け合い」などの言葉は、あまりにも無造作に使われ過ぎて手あかにまみれてしまった。今となってみれば、「絆」という言葉をことさらに言い立てて、震災復興がドラマ化されたように感じられる。

 これらの言葉の真の意味は言う側からではなく、被災者の側からの評価がされなければならない。おそらく、良い反応はでてこないのではないか、と思う。

 2020年の東京オリンピックを迎えるにあたって「おもてなし」と言う言葉がクローズアップされ、流行語にさえなっている。
 あたかもきめ細やかな「おもてなし」のこころは日本特有の美徳のごとくに用いられているが、世界中どこでも、訪問者や旅人をもてなすのは当たり前のことだ、と思う。各国で「おもてなし」の風習、文化が違うだけだろう。

 過度に配慮された「おもてなし」は相手の心に響かない。もてなす側の自己満足であってはいけない。もてなされた側が楽しめる「おもてなし」であることが大切だろう。それができなければ、「おもてなし」とは言えない。それに、「おもてなし」の言葉は、もてなす側が強調すべきでない。「おもてなし」される側にたった方々によって評価されなければならない。
 東京オリンピックで日本においでになる方には地方の国際空港に降り立てば良いと思われる。その方が細やかな「おもてなし」がなされるのではないだろうか。
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