福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

ドコモがサービス終了  財布代わりのポケベルと別れが来た

2007年03月31日 08時14分54秒 | コラム、エッセイ
 NTTドコモは、「ポケベルサービス」を明日3月31日で終了する。
 「ポケベルサービス」はNTTの前身である日本電信電話公社が1968年に始めたもので、1996年のピーク時にはドコモだけで契約数は650万件、業界全体では1078万件にも達した、と言う。しかし、その後、携帯電話やPHSの普及で、ポケベルは契約数が著減し2004年からは新規契約を停止、今年2月末の契約は約13万件にまで減少していた、と言う。一方、携帯電話やPHSの契約は今年1月末に1億件を突破した、とのことである。世代交代の激しさにただただ驚くばかりである。

 当院では医師の緊急呼び出しに院内用には松下製のベル、院外用にはNTTドコモの「ポケベル」の2種を併用してきたが、前者も修理が利かなくなってきていたので4月からPHSに一本化する事となった。
 10年ほど前から先進的な医療機関ではPHSが用いられてきており、さぞや便利だろうと半分羨ましく思っていた。そのPHSが今手元に届けられた。まだ操作法もよく解らないが、携帯とほぼ同様の多機能で驚かされる。うまく使えるか不安が出てきた。

 私は約30年間ポケベルを愛好してきた。これは機能が単純明快でとても良かった。ただ、ポケベルが鳴ったときに電話機を探すのが大変だったので、あまり普及していなかった時代から携帯電話も持っていた。実際のところ特に不便なところはなく今までほぼ満足していたが、また新しい時代の機器に適応していかなければならない。期待感半分、面倒くささ半分の心境である。

 実は、私のポケベルは他にも重要な任務を一つ持っていた。
 この30年間、私のポケベルはずっとキーホルダー代わりと財布代わりを兼ねていた。紙幣を4つに折りたたみ輪ゴムでポケベルの背面に固定していた。普段、あまり現金を持ち歩かない私はこれで何ら不便さを感じていなかっただけに、今後どうしようか困惑している。
 とりあえず4つ折りの紙幣をPHSの背面に取り付けてみた。何か雰囲気が変で、PHSに輪ゴムなんてダサイ感じである。それに、ポケベルだとポケットの中だったから良かったが、頚から下げたPHSだと輪ゴムが切れると紙幣がなくなってしまう恐れもある。
 小さな悩みが増えるばかりである。時代に即応していくことは年寄りには大変なことである。
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人は時に自分の立場を忘れる  パスポート申請に何でこんなに人が!!

2007年03月30日 05時00分10秒 | 近況・報告
 今、我が家の賄いの石井さんはヨーロッパ旅行中である。英、仏、独、スイスの4カ国を14日間でめぐるツアーへの参加である。今頃はちょうどパリにいるはずである。ノートルダム寺院あたりをウロウロしているのかな、と思う。

 2ヶ月ほど前に旅行に参加したいが、と打診があった。2週間ものまとまった休暇は、飢餓状態で帰宅する私と老、中、若のネコ3匹、花や観葉植物も少なくない状況にあっては決していい話ではないが、従業員として働いて貰っている以上、彼女にとっては恐らく今生の見納めになろうから、従業員の福祉対策の一環として、私は休暇をあげることにした。顔は笑顔で、心中は渋顔であった。私の空腹はどうにかなるだろうが、特にネコ対策が問題である。それに、いつかは急にこうなる事態もあり得るのだから、その面では予行練習にもなる。

 許可が出たので早速、彼女はルンルン気分でパスポート申請に行ったみたいだが、かなり待たされ、何でこんなに申請者が多いのか、と驚いて帰ってきた。心から驚いたようである。「貴方の様な立場の人も気軽に外国旅行する様な時代だから、当たり前・・・」と憮然と、嫌みを若干込めたニュアンスで答えたら、何かを悟ったか、サッと納得したようだ。

 この時、20数年前に子供達を連れて、当時の特急「たざわ」で盛岡に向かっていたとき、下りの「たざわ」が向かいのプラットホームに停車していたのをみて、長女が「パパ、ママ、私も特急に乗りたい・・!!」としんみりと言った時のことを思い出した。子育ての最中、子供の誰かがふと漏らした言葉に親として感動したことも少なくないし、名言クラスと言っていいような、貴重な言葉も数多く記憶に残っている。この時は列車の情景と共にこの言葉を思い出した。人は自分の置かれている立場をふと忘れることがあるのだ、と言う一つの例である。

 我が家では夫婦共に家にいる時間は極端に少ない。だから、ネコの世話など出来ない。
 対策はどうしたか、というと、この間、一日3-4時間、家政婦さんを雇うと言う、一番安易な方法で対応している。家政婦さんはとてもきれい好きの方らしく、おかげで家の中は奇麗に維持されているし、ネコたちの毛並みも良い。ネコトイレも奇麗である。私はとても満足している。
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雪の名残2題:(ァ)雪が下から上に流れた(イ)雪面が宝石の如くに見えた朝

2007年03月29日 06時22分15秒 | 季節の話題
 3月に入って居座っていた冬型の寒波もやっと緩んできた。つい数日前まで雪が降っていたが、本日は雨。もう降雪はないだろう。やっと春か!!と心もち嬉しくなる。昨年は豪雪であったが今年は一度も雪かきの必要がなかった。

 例年であれば11月末から3月頃の東京出張はJRのこまちを用いる。片道1時間以上所要時間が短く、その分仕事が出来るから空路の方がやはり便利である。しかし、積雪期の空路は、空港への往復、駐車場と空港ビル間の移動が滑って危ない、駐車中の積雪の処理も面倒、かつ飛行機の運行も不安定になるからこまちにするのもやむを得ない。

 今年は雪が無く、この間の数回の往復を全部空路とした。若干の遅れはあったが、欠航は一度もなかった。3月に入ってからの2回の往復は降雪の中での往復であった。離陸時に窓から見える雪は横に激しく流れるが、日常的印象と大差ない。しかし、夜間の復路は降雪がある場合、翼からの発せられる光で雪が映えてとても美しい。

 特に羽田18:00発JALのMD-87またはMD-90は、着陸に際し機内を暗くすることと、翼の先端から前後方にレーザービームが発せられるから降雪があるととりわけ奇麗である。高度、スピードによっても様子が変わって面白い。3月上旬、秋田空港に向かって降下し、地上の光が見え始めたことから激しい降雪に遭遇した。窓から見える雪をしばらく眺めていたが、雪が下方から上方に流れて行くのに気づき、とても不思議な気がした。恐らく機の降下速度が雪の速度と近似、あるいはそれを上回っていたからではないかと予想した。こんなに降っていて着陸できるかな?とも思ったが、空港に近づくにつれ雪は徐々に少なくなり静かに着陸した。風は殆どなく、比較的大きめの雪がゆっくりとフワりフワりと降っていた。

 一週間ほど前の朝の事、前夜は天候が実に不安定でまず数cmの積雪があり、夜半には一時的に雨も降った様に思う。早朝には厳しく冷え始めた。5:00amはまだ暗い。出勤時、路地の雪はまだ誰も通っておらず、ヘッドライトの光にやや蒼白く映えた。更に、私は初めての経験であるが、あたかも小粒のガラス玉を新雪の上に蒔いたが如くに黄色く、青く光が反射し、実に見事、美しかった。恐らく、新雪の一部が雨で不規則に融け、更に表面が凍ったために光を乱反射したのであろう、と思われた。早起きは三文の得だね、良い経験した、と感動したが、その雪の、つぶつぶの反射光の美しさを文章で表せないのがとても悔しい。

 昨年は雪の塊に圧倒されたが、今年は雪と光の織りなす美に感じ入った年となった。
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何で地方紙は県や市の人事異動を大きく報道するのか??

2007年03月28日 18時50分08秒 | 秋田の話題
 
 毎年この時期になると秋田県の県警、教職員、県庁の各部署の他、秋田市の職員の移動がさみだれ式に発表になり、地方新聞の1-3面ほどを何度も何度も占拠する。私は前から何でこれを新聞が取り上げるのか?と常に思ってきた。これほど末端までの人事異動が報道されるべきか?県民が本当に求めているデータなのだろうか?

 税で運営されている公務員の人事異動などを行政が納税者である県民に提示するのは当然のことである。しかし、これは本来行政自身が発表すべきもので、新聞がそれを代行する、あるいは新聞に代行させるのはおかしい。新聞社にとって報道すべきニュースバリューがあるなら掲載するのは自由だが、だからといって県が正式に発表しないのは片手落ちである。

 秋田県に根付いている地方紙といえども県民が全て購読しているわけではない。一方、県や市には全戸配布の広報誌がある。だから本来であればこれを使って全県民に広報すべきだろう。また、何時でもスタッフ名を確認できるように県や市はホームページに公開しておくべきであろう、と思う。

 ちなみに、2006年度版秋田さきがけ年鑑は970ページ中、役立つ記録データは前の300ページほどで、残りの600ページは殆ど名簿から成っており,そのうち270ページを用いて県、市関連の職員名簿が占拠している。だから、毎年購入しても参考になる部分は少ない。県内の各機関、会社等の名簿を購入しているようなものである。データ編と名簿編との上下二冊に分けて販売すればいいと思う。
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初期臨床医を送る(2) 中医になることを願って

2007年03月27日 06時37分32秒 | 医療、医学
 医師として2年過ごした先生方は実際にはいろいろな壁に当たったことでしょう。自分のこと、人間関係のこと、病院のこと、研修医制度のこと、医療制度のことなど、いろいろあってともすれば自分を見失う様なこともあったかも知れません。 

 そのような際にプライベートなことは別にして、自分が如何なるアクションをしてきたか、についても考えていただきたいと思います。みなさん方7人は実に個性が豊かな方々だと私も感じています。いろいろ不都合な点も、不満に思った点もなかったわけではないでしょうが、それに対する感想は水面下から多少聞こえてくるものの、きちんとした形で対応を求めたことは少なかったのではなかったのでしょうか?

 私自身も中通病院で働くようになってから大きな流れに流されながらも常に問題提起はし続けて来ました。その大部分は否定されて、聞き入れられたのは10に一つ程度、あるいはそれ以下かも知れません。私自身に考えがあるように、相手もそれなりの立場と考えがあることだから聞き入れられなかったという結果はそれほど問題にはしません。私の提言は文章として方々に残っています。提言は単に発言するだけでなく、記録として残しておくことは責任だと考えています。残さなければグチと同じであり、風邪の時の一過性の発熱と大差ありません。

 私が具体的なアクションしたことについて一つだけ話してみます。大学の頃ですが、急性白血病の臨床を通じて感じた壁は化学療法が発展するにつれて再発が多くなると言う現実でした。患者も医師も苦労してやっと寛解状態に達したのに多くは1-2年の間に再発し、この時、大部分の患者は化学療法に抵抗性となり厳しい療養生活を過ごしながら例外なく死の転機を迎えます。同じ事を何年も悩み続けても何も解決しなかったことから白血病の臨床には化学療法とは全く異なる機序の治療法である骨髄移植の導入は必須であると考え、私は2年間かけて秋田大学に骨髄移植の準備を整えました。私がやらなくとも何れは誰かが導入しただろうとは思いますが、私自身が周囲を説得し、先鞭を付けたことを今でも小さな誇りに思っています。今、白血病の臨床は私自身が想定した以上の成果を挙げています。何事にも壁がありますが、それを打破していくために何らかのアクションを自分からしてみる、これは大事なことと思っています。

 2004年に発足した新臨床研修制度は今3年目を終わろうとしています。
 2年の研修を終了した医師は、大学で更なる臨床研修を積み研究生活を指向するのも良いでしょう、更に高レベルの専門研修を求めて病院を替わるのも、より一層地域に密着した医療機関に移るのも良いでしょう、若い医師達の将来の道の選択はいろいろあります。それぞれベストと思われる道に進んで自らの資質を一層伸ばして欲しいものです。

 その際、診察室に訪れる患者、自分が担当している患者に最善を尽くすのは医師として当然ですが、みなさん方にはそれだけで満足するような「小医」のレベルで止まっていて欲しくない、と思います。患者、医療関係者が置かれている厳しい医療環境についても、疾病の背景因子についても研修を通じて何かを感じ取ったはずです。その状況の改善に向けて現場から発言する「中医」の一人に是非なって欲しいと思います。小医的発想だけでは医療環境は一層悪化していくでしょう。患者も医療関係者も夢を失う、そんな環境にはなって欲しくないと思います。

 若干長い話になりました。無事、研修期間を終了し、本日修了証を受けられた先生方の今後の発展を、心から願いながらお話しました。
 私からみなさん方にお礼も申し上げたいと思います。2年間、本当に有り難う御座いました。
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