宗教とは何か、オウム事件とは何だったのか、宗教を信じるということはどういうことなのか、私は仏教徒なのか、オカルトとは?・・・、という問いは私の中でずっとくすぶっている。
私は幼少の頃からどちらかというと宗教的考え方、東洋的無常感に親しみを持っていた。日常生活における仏事は疑問を持たずに仏式で行ってきた。しかし、経典などは散発的に接したことはあったが、体系的に紐解いたこともない。こんな私を仏教徒と言っていいのだろうか。
私の周辺の方々を見ていると、宗教に関しては二極化しているようだ。
宗教家と言われる方々の大部分はおそらくは信仰を持っておられるであろう。
それ以外の方の中では、神仏の救いを信じて普段からそれなりの行動をしている、信仰を持っていると評すべき人は稀で、大部分の人は宗教的行事を社会習慣として利用する、私と同じレベルにあるような気がする。尤も、日本では日常生活の中で宗教的立場が話題になることはその必要もないから、とても少ない。だから、私の知人たちがどんな宗教的背景を持っているかを知る由も無い。
私が今まで会った中で、クリスチャンネームをお持ちの方は10数名はおられたが、私の目にはとても信仰を持っているようには見えなかった。
私が「信仰を持っていた方」としてとらえているのは、僅か10名程度である。
▪️新潟大学の同級生の一人は敬虔なクリスチャンで、彼の日常での物事の判断、発言、医師として生きた道は、キリスト教的世界観に基づいていた、というべきか、私とは全く異なっていた。
▪️浪人時代に仙台で下宿していた一家4人は創価学会の信者であった。
▪️長く患者としてみていた中年女性の一人は真如苑の信者であった。
▪️輸血関連の判断等で診療に参加せざるを得なかった数名の患者はエホバの証人であった。
これらの方々は私と価値観が違うためか、信仰上のこだわりなのか、何となくコミュニケーションが取りにくかった。いや、それ以上に、私の理解の及ばない別世界からきた人のようにさえ思えた。考え方、ものごとへの感じ方は凝り固まっており、共感は持ち得なかった。
私をこの分類に当てはめれば、私は「信者」ではなく、仏教・神道の「利用者」のレベルである。それでもこの社会の中でなんとなく相手を信頼し、理解できるのは、具体的信仰をもたなくても、日本人の多くは「諸行無常的」な感覚をもっているし、「もののあはれ」を理解する心をもっているからなのだろう。生活習慣上、多くの方々は仏教と神道をセットとして臨機応変に利用している。これに儒教や道教の要素もまじった曖昧な「宗教観」が日本人の心理のベースにあるから、日本人は「無宗教」と言えない、ような気がする。「宗教観」は生まれ落ちた社会の生活習慣で徐々に形成されていくものみたいだ。
この宗教に対するファジーな感覚は海外では通用しないらしい。かつて私も旅行した際に、時に宗教について問われる場合があるが、その際に「無宗教・・」あるいはそれに近いあやふやな返事はしないようにと指導を受けた。外国では「無宗教」であることは「非人間的」であることを自から表明するようなもので、その後の対応に雲泥の差が生じる、とのことであった。だから、私は海外旅行中は自称敬虔な「仏教徒」になっていた。
私は、本日の段階では仏教徒とは言えず、「神仏利用者+α」のレベルにいるとしておこう。
私は幼少の頃からどちらかというと宗教的考え方、東洋的無常感に親しみを持っていた。日常生活における仏事は疑問を持たずに仏式で行ってきた。しかし、経典などは散発的に接したことはあったが、体系的に紐解いたこともない。こんな私を仏教徒と言っていいのだろうか。
私の周辺の方々を見ていると、宗教に関しては二極化しているようだ。
宗教家と言われる方々の大部分はおそらくは信仰を持っておられるであろう。
それ以外の方の中では、神仏の救いを信じて普段からそれなりの行動をしている、信仰を持っていると評すべき人は稀で、大部分の人は宗教的行事を社会習慣として利用する、私と同じレベルにあるような気がする。尤も、日本では日常生活の中で宗教的立場が話題になることはその必要もないから、とても少ない。だから、私の知人たちがどんな宗教的背景を持っているかを知る由も無い。
私が今まで会った中で、クリスチャンネームをお持ちの方は10数名はおられたが、私の目にはとても信仰を持っているようには見えなかった。
私が「信仰を持っていた方」としてとらえているのは、僅か10名程度である。
▪️新潟大学の同級生の一人は敬虔なクリスチャンで、彼の日常での物事の判断、発言、医師として生きた道は、キリスト教的世界観に基づいていた、というべきか、私とは全く異なっていた。
▪️浪人時代に仙台で下宿していた一家4人は創価学会の信者であった。
▪️長く患者としてみていた中年女性の一人は真如苑の信者であった。
▪️輸血関連の判断等で診療に参加せざるを得なかった数名の患者はエホバの証人であった。
これらの方々は私と価値観が違うためか、信仰上のこだわりなのか、何となくコミュニケーションが取りにくかった。いや、それ以上に、私の理解の及ばない別世界からきた人のようにさえ思えた。考え方、ものごとへの感じ方は凝り固まっており、共感は持ち得なかった。
私をこの分類に当てはめれば、私は「信者」ではなく、仏教・神道の「利用者」のレベルである。それでもこの社会の中でなんとなく相手を信頼し、理解できるのは、具体的信仰をもたなくても、日本人の多くは「諸行無常的」な感覚をもっているし、「もののあはれ」を理解する心をもっているからなのだろう。生活習慣上、多くの方々は仏教と神道をセットとして臨機応変に利用している。これに儒教や道教の要素もまじった曖昧な「宗教観」が日本人の心理のベースにあるから、日本人は「無宗教」と言えない、ような気がする。「宗教観」は生まれ落ちた社会の生活習慣で徐々に形成されていくものみたいだ。
この宗教に対するファジーな感覚は海外では通用しないらしい。かつて私も旅行した際に、時に宗教について問われる場合があるが、その際に「無宗教・・」あるいはそれに近いあやふやな返事はしないようにと指導を受けた。外国では「無宗教」であることは「非人間的」であることを自から表明するようなもので、その後の対応に雲泥の差が生じる、とのことであった。だから、私は海外旅行中は自称敬虔な「仏教徒」になっていた。
私は、本日の段階では仏教徒とは言えず、「神仏利用者+α」のレベルにいるとしておこう。