福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

不思議な臓器「脳」(3) 記憶について(3) 理解と共感(2) 日航123便墜落事故について

2023年10月29日 07時50分47秒 | コラム、エッセイ
 1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、JAL123便(ボーイング747SR-100型機)が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山ヘ墜落した。

 乗客乗員524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名。単独機の航空事故の死者数として過去最多。

 私は乗るのは嫌だが飛行機そのものは大好きで書籍を通じて飛行機や航空業界についてずっと学んできた。

 こんな中、1987年(昭和62年)6月、運輸省航空事故調査委員会は1978年(昭和53年)伊丹空港で起こした「しりもち事故」で破損した圧力隔壁の、ボーイングによる不適切な修理が原因で生じた再破損が墜落事故の原因と推定される、という報告書をまとめた。

 報告書の骨子は、以下のごとく。
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 隔壁の修理ミスがあった 
→ その付近に疲労亀裂が進行した
→ 客室の加圧に耐えかねて隔壁が再破損、穴が開いた
→ 激しい空気の流れが生じ機内は「急減圧」した 
→ その風圧で垂直尾翼が空中で破壊 
→ 全油圧システム破損 
→ 操縦不能に陥った
-----------------------------------------------------

 この論理の最重要点は垂直尾翼を吹き飛ばすほどの空気の流れの存在であるが、その事実を客観的に示す証拠が全く見当たらない。 この理屈に合わない論旨がこの報告書の最大の弱点であり問題点である。

 この事故調査報告書に対しては識者、パイロットや航空関連職種団体から異論が出されたが運輸省はこのような声に全く耳を貸さず、調査資料を破棄し、調査を終えた。

 この事故は30分近く激しいローリング (横揺れ)、フゴイド運動(縦揺れ)を繰り返し、あたかもジェットコースターに乗っているごとくの激しい揺れを続けながら墜落した。
 乗客たちの恐怖は如何許りかと思う。

 日航123便事故は「しりもち事故」で修理したことがあった機体を都合よく利用した虚偽の結論で、国家の権力のもとに結論はねじ曲げられ、しかも真実解明の道は閉ざされた。

 犠牲者の人生は抹殺されたに等しい。
 数千人に及ぶであろう犠牲者の縁故の方々、事故の関連の方々にとっても同様である。この38年の歳月は苦しかったと思う。

 私は現役時代に200回ほど旅客機に搭乗したが、その度ごとに若干の恐怖感・不安感を味わった第三者に過ぎない。
 それでもこの事故の犠牲者の方々の人権について、事故の処理顛末には疑問を感じざるを得ない。

 この事故で私が読んだ関連書籍は30冊を優に超える。事故は調べれば調べるほど理解できない形で処理されている。

 今後も記憶にとどめ、目を離さずに関心を持ち続けたい。


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不思議な臓器「脳」(2) 記憶について(2) 理解と共感(1) 深く刻まれる記憶

2023年10月28日 06時23分31秒 | コラム、エッセイ
 記憶には深さがある。
 それを決めるのは第一にその事象に対する共感であろう。さっと目の前を通り過ぎた事象は、たとえ一瞬目を向けた、としても記憶に残り難い。

 共感は、印象付けられた物事との間に、瞬発的に生まれるものと、意図的に理解しようとする努力の中で育まれて行くものがある。

 瞬発的共感は目まぐるしい生活の中で一瞬で生まれるものだ。そのような共感を引き起こしうる事象は日常的にあふれている。
 
 特に、自分と深く関わりのある事象についてはなおの事、共感の感情的強度は増すに違いない。瞬発的に生じる共感にはそれを自分で判断する鋭い感度のアンテナと共鳴しうる素養が備わっていなければならない

 共感は調べ学習し理解することでも深まっていく。

 強い感情をもたらさなかった事象は背後に追いやられ、やがて忘れ去られる
ことになる。 

 物事と共感の距離は、自分で調整することができる。 慎重にピントを合わせ、自らの内に像を結んでゆくこと。 その際大切なのは、「理解する」姿勢である。

  全体像の把握のために情報を集め、事実と信頼できるものを選び出し、それを思考の起点として生まれるのが、理解というものではないだろうか。 そこに強い共感が伴うことがある。

 当然ながら、それには時間がかかる。 すぐに結論にたどり着き、「分かった」と満足感を得ることが目的ではない。

 つまり、理解するために大切なのは、答えにたどり着かず、常に問い続けることだろう。

 言い換えれば、自分の思い込み思考や既知の眼差しの方向性を完全に信頼しないことなのだ。自分に寄り添いすぎず、少し距離を置いて見つめること。この過程で浮かんでくる像こそが理解の形であり、やがては共感、記憶として自らに刻み込まれることになる。 自分がいかに無知であるかの自覚がスタートラインになる。

 既製の言説で満足せず、自分の足で歩いて見回し、誰かの声に耳を傾け、読書や調査など独自の方法で、物事に対する視点を築き上げること、それこそが「記憶すること」なのである。そのように時間をかけて出来上がったものは、簡単に壊れはしない。 そして、新たに何かを得る度に形を変えつつも、深く根付き育まれることになる。

 別の言い方をすれば、記憶するという行為は、簡単に消えて行くようなものをを引き留めることなのかもしれない。

 共感には物事を噛み砕き、消化を促す作用がある。
 意図的に自分で仮説をたて、消化不良を起こせば、内に留まるものに目を向けるきっかけとなる。その時、一過性のものではない、理解に依る共感的感情も生まれてくるに違いない。

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不思議な臓器「脳」(1) 記憶について(1) 遠ざかる戦争や災害の記憶

2023年10月27日 07時47分41秒 | 人権問題
 2022年6月、私の子供の頃から用いていた本棚が図鑑の重みなどで壊れたために、修理に2階に上がった。 本棚の状態と修理工程について確認したが、やがて私の眼と心はそこにしまい込まれていた古い本やアルバム、写真や手紙、などに向かった。

 過去の生活の痕跡、記憶に触れてゆくうちに、ふいに敬虔な気持ちになった。
 この本棚は私の体験や記憶をしっかり内に抱えているのだ。

 ある一つの出来事について思い出すということは、その後ろに長く連なる過去の記憶も扱うこと。次から次へと古い記憶に沈んでいる声を引き出して行く。 記憶は、個人の言葉、語りによって立体的になってゆく

 過去は、文献や各種の記録、映像などを通じて確かめられるが、真の過去は箇々人の記憶の中だけにある。

 東日本大震災で津波による壊滅的な被害を受けた場所では、震災遺構が保存され、たくさんの声や言葉と共に記憶を留めようとしている。福島の帰還困難区城のように、震災の生々しい爪痕が刻みつけられたままの場所もある。

 証人の声が集められ、 デジタルアーカイブ化する試みも始まっていた。 

 津波の具体的なルートを地図に表し、証言者の目撃場所も重ねて特定してゆく。 

 日付や数字、出来事の概要の間にある空白を、生きた声や語りで埋めてゆく。 鮮やかに、そして立体的に留められた記録は、ここで初めて土地と人の記憶となるのだろう。

 ある出来事と時間的に距離が近ければ、それは記憶に留まりやすい。しかし、時間が経ち遠ざかるうちに、物事は平面的に受け止められ、記憶からすり抜けてしまう。だからこそ、遺構など視覚的な記録を土地に埋め込みつつ、生身の言葉や語りでそれの意義を持続させてゆかなくてはならない。

 このような方法が必要となるのは、私たちが自分に距離が近いものに目を向けがちで、かつ共感しやすいからだ。 この場合の距離とは空間的なものだけではなく、時間的なものも含まれる。 

 身近な物事は、共感の範囲内に収まるからこそ忘れにくい。
 遠い時代の戦争、遠方の自然災害を、ただ過去や場所の出来事と平面的に位置づけてしまいかねない。

 何かに共感する時、隅々まで思いが覆いつくすのであるが、しかし、多忙な生活、情報過多の中、実際の関心が容易に別のものへ置き換わってしまう。

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作曲家・指揮者の外山雄三氏死去された(2) 不肖、私も間接的に影響を受けた

2023年10月25日 16時21分45秒 | 音楽談義
 外山雄三氏(1931-2023年)は東京出身。1952年に東京藝大作曲科卒。N響の打楽器練習員、1954年指揮研究員となり、25歳N響を指揮してデビュー。1958年から1960年にかけてウィーンに留学。 

 1960年秋に行われたN響世界一周演奏旅行では、岩城宏之氏とともに多くの公演で指揮を務めて世界の檜舞台に立つ一方、このツアーのアンコールで演奏するために作曲した日本民謡に基づく《管弦楽のためのラプソディー》は各地の聴衆に熱狂的に迎えられ、作曲家としての名声も高まった。

 私が氏が指揮するN響を聴いたのは1958年頃と思う。実に颯爽とした指揮ぶりでその格好良さに一度に魅了された。その後楽器を始め、大学オーケストラの一員としてアンサブルを乱し続けたのは氏の影響でもある。

 氏は1979年にはN響正指揮者に就任。定期公演や日本各地での公演でたびたび指揮台に立ち、現代音楽の振興にも熱心に取り組んだ。

 N響以外でも大阪フィル、京都市交響楽団、名古屋フィル、神奈川フィル、仙台フィルで要職を務めたのをはじめ、日本国内のプロ・オーケストラを数多く指揮し、また教育者として若手指揮者の育成面で氏の貢献は計り知れないものがある、という。 

 氏の代表的作品としてヴァイオリン協奏曲、交響曲があるほか合唱曲も多い。 

 指揮のリハーサルでは多くを語らず奏者を見て「にやりと皮肉っぽく笑った」り、「ギョロッとにらんだり」。 そのたびに楽員たちは震えあがり、結果として虚飾のない楽曲が現れた、という。
(晩年の外山氏 yahoo記事より借用)

 NHKは7月にFM放送で氏の追悼番組を二日間にわたって4時間ぶん放送した。氏のインタビューのほか氏が指揮した貴重な音源が放送された。私はそれを録音しておいた。今それを再生しながら当時を回顧しつつこの小文を記載している。


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作曲家・指揮者の外山雄三氏死去された(1) 

2023年10月24日 03時41分13秒 | 音楽談義
 外山雄三氏が2023年7月11日、慢性腎臓病のため長野県の自宅でお亡くなりになった。享年92。

 氏は私が初めて生のオーケストラを聴いた時の指揮者で今でもその時の様子は鮮明に思いだす。

 我が家には蓄音機2台と大量のSPレコードがあり、私の格好なおもちゃであった。子供用のレコードも20-30枚はあり童謡を中心によく聴いた。自然と「G線上のアリア」「タイスの瞑想曲」等、クラッシックの小品にも親しんでいた。

 そんな私を音楽にのめり込ませる決定的機会は中学1年頃に訪れた。
 ある夕方、初来日したオイゲン・ヨッフム指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会がNHKTVで中継された。最初の曲はベートーヴェンの「エグモント序曲」。題名すら聴いたこともなかったが、最初の強奏和音を聴いた途端に全身に鳥肌が立った。

 それから間もなく、盛岡でNHK交響楽団演奏会を聴く機会が訪れた。

 中学1年か2年かは忘れたが、市の市立体育館でNHK交響楽団演奏会が開かれた。市立体育館にパイプ椅子を並べての会場設定で、席は前1/3ほど、やや右よりの特等席であった。
 演奏会は指揮が外山雄三氏、独奏者は深沢(旧姓、大野)亮子氏。コンサートマスターは海野義雄氏。曲はウエーバー「魔弾の射手序曲」、モーツアルト「ピアノ協奏曲20番K466」、ドボルザーク「交響曲 第9番(新世界より)」。アンコールは「フィガロの結婚序曲」、外山雄三作曲「管弦楽の為の木挽き歌」。

 「魔弾・・」の不安をかき立てるような弦のトレモロによるうねり、「ピアノ協奏曲 K466」の独特な弦の刻み、「新世界交響曲」のダイナミズム・・・。この間、私は全身に、頻繁に鳥肌が立つのを感じながら聴いていた。コンマスの海野氏の音は終始際立って聴こえた。

 これら全てが私にとって鮮烈な体験であり、その後、弦楽器、特にバイオリン、チェロに興味を持ち、大学ではオーケストラに属し、多くの演奏会に通い、今に至るまで代表的趣味の一つとなっている。

 N響演奏会の後、LP用のレコードプレーヤーを購入した。当時レコードはおいそれとは購入できないほど高価であり、ステレオで3200円、モノラルでも2800円ほどで当時のレコードは超高価な買い物であった。2年ほど後の、私の3食付きの下宿が月額5500円だったから・・・。

 最初に購入したレコードは「運命」。ヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮、ウイーンプロムジカ管弦楽団の演奏。本当にレコードがすり減るほど聴きこんだものである。
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