福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

ソチオリンピック(2) 五輪には魔物が棲む? 総合的実力と言われるが・・


2014年02月28日 06時24分56秒 | スポーツ、相撲、芸能など
 「オリンピックには魔物が棲む」といわれている。
 競技自体は会場の慣れ不慣れ、雰囲気の差はあるだろうが、これに関してはほぼ平等のはず。だから、競技結果には総合的実力が反映されるのは当然であるが、世界の実力者同士であるからどの競技にも安定した、ダントツに秀でている選手はいると思えない。だから、微妙な判定のレベルでこの魔物が関連するのだろう。

 魔物とは、やはりオリンピックと言う、全世界が注目する特別な競技会である事だろう。各種目個別の競技会は多々あるがこれほど注目を浴びる事はない。表彰式では国旗が掲揚される。だから国の代表と言う側面も持つ。選手たちの気持ちとは別のレベルで国民も期待する。地元も大騒ぎで当然プレッシャーは大きい。私は騒ぎ過ぎだと思う。選手が気の毒でならない。勿論、体調もあろう。

 そんな中で日本選手は若手を中心にメダルを7ヶも獲得した。見事だと思う。
 私が関心を持った2-3について以下の様な印象を持った。


■スキージャンプは第一に実力、第二は風か。
 女子ジャンプでは、高梨選手が4位と予想外の成績に終わった。高梨選手のジャンプは与えられた条件のもと、技術的にもは完璧だった、と評価されている。飛距離に大きな影響するのは風の状況である。追い風は揚力を奪う。今回から風の状況を加味するウインドファクターが採用された。高梨にもポイントがプラスされたがメダルには届かなかったと言う事。
 背負ったプレッシャーの大きさなど他の選手と比較出来るものではないが、高校生の彼女にはとてつもなく大きかっただろう。気の毒だと思った。彼女には若い。まだまだ時間がある。まだ伸び盛り。多分、ワールドカップ等の別の大会でさらに連勝して行くと思う。

 男子ジャンプ銀の葛西選手。長野の日の丸飛行隊が多いに注目された時話題になっていた葛西選手とは同姓の別人だと思っていた。その頃から飛び続けていたとは。私は今回初めて気がついた。無知であった。現在41歳、オリンピックは7回目、22年間にわたって出場したと言う。第一人者としてそのレベルを22年間も維持出来た強靭な精神力、体力は大したものである。ワールドカップでは勝利を重ねながらオリンピックではベストが5位、7位とメダルには届かなかった。彼の場合も風に依る不運がついていたのだと思う。ソチは彼の実力を証明した。

■フィギア
 浅田選手は初日は本人も、世界の誰も予想しなかったであろう16位であった。しかし、その後、ラフマニノフのピアノ協奏曲2番に乗せたフリーでは自分でも今までの最高と評価するの演技が出来、笑みを通り越して涙々だったと言う。結果は6位。失意の16位が最高の演技をもたらしたと思う。立派な成績である。

 浅田選手は2004年の初舞台から10年、韓国の金選手と表彰台を二分して来た。昨年4月、ソチを最後に引退する意向を示した。その頃の彼女の表情を見ると迷いがあって見るのも辛かった。ソチの練習でも同じ表情であった。そのため、私は彼女の演技は見ていない。
 とにかく、ご苦労さまでした。

■悲喜交々
 ソチオリンピックでは堂々とメダルに輝いた若手選手、一歩届かなかったベテラン選手たち、多くの選手が健闘し、私にも感動を与えてくれた。

 私は次のパラリンピックを楽しみにしている。
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ソチオリンピック(1) 選手の方々ご苦労さん メディアは騒ぎ過ぎ

2014年02月27日 06時35分35秒 | スポーツ、相撲、芸能など
 2月7日から行われていたソチオリンピックは23日終了した。心配されていたテロがなく良かったと思う。
 私は、正直なところあまりオリンピックに興味はない。だからこの間、毎日見ている19:00のNHKニュースのトップニュースが「物語」化した競技結果で占められ、新聞も大きく報道、ラジオ深夜便が実況中継になるなど、この期間は私にとっては好ましいものではなかった。

 新聞も多くの紙面を割いて報道したが、見たくない記事は無視出来る。ラジオ深夜便はAM放送分が実況中継に回されたが、FMでは通常番組を聴けたから問題はなかった。   
 NHKの19:00のニュースは出来るだけ見るようにしているが、この間は不快な気持ちを抱きながらも、見ざるを得なかった。嫌ならスイッチを切れば良いのであるが、それは出来ない。オリンピック以外の国内外のニュースを見たかったためである。限られた時間のほとんどを「物語」化したドキュメンタリー調のニュースを流す意味はどれだけあるのか?疑問である。私はニュースに於いては枝葉を削ぎ落とし、結果だけを淡々と報じて欲しかった。NHKニュースは「物語」化しすぎる、と思う。

 オリンピックは単なるスポーツの祭典ではなく、「物語」がもっとも作られやすい場の一つでもある。オリンピックへの出場選手は「個人」でなく、「国」、「国民」の期待を背負って出場している、とみなされる。具体的には分からないが経済的負担も小さくないはずである。にもかかわらず、私はあくまでも個人の問題にすぎないと思う。
 
 メディアやそんな立場で長く活躍する選手、メダルが期待できる選手にこぞって「物語」を作り上げる。肥大化した「物語」を選手たちは、どんな思いで受け止めているのだろう。 一方、メダルをあまり期待されていない選手の場合は、思いがけがい結果を出した時から一気に「物語」化される。

 私はスポーツ選手の気持ちはわからない。全く分からない。分かる訳はない。ちょっと分かる様な気がするのは自分との闘いだ、と言う事くらいである。選手の気持ちを一部ながら理解できるのは、同じ道を歩み、同レベルに達したものだけ・・・、と思う。記録や美技に立ち向かう選手にとって、作られた、誇張された「物語」は、戦いの瞬間には意味を持たないだろうと思うが、選手と言えども感情を持つヒトである。「物語」はある者にとっては直接的に、あるいは間接的に強いプレッシャーにもなっているだろう。メディアは選手に苦悩を押し付けている事になる。無批判にそれを受け入れる国民も同じである。

 私たちは、メディアによって作られた、たくさんの「物語」に囲まれて生きている。「物語」は情報でもある。この情報化の時代、良いことでも悪いことでもない。ただ、肥大化した興味本意の「物語」は真の姿を見失しなわせていることは確かである。
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ジジババ・孫論(3) 育児は時代とともに様変わり

2014年02月26日 06時40分43秒 | 近況・報告
 孫は確かに可愛い。私は孫たちを単に可愛いか否かではなく、その発達段階を観察し自分の目で楽しんでいる。孫たちの発達に取ってジジババの存在の意義は何なのか?そんな事を考えている。ジジババには孫たちと出来るだけ多く接しなければならない義務がある、とも考えている。

 わが家の孫は4歳、2歳、間もなく1歳の3人である。前二者は盛岡に、後者は横浜在である。年に数回わが家を訪れる。前者は次男夫婦のサービスなのだろう、ちょっとした時にも機会を作ってくれる。後者は長女の息抜き帰省の様である。先方にはジジは滅多に出かける事はないが、ババは時折会いにいっている。

 私は孫たちにたまに会うだけだから会う度毎にその成長ぶりに驚かされる。私にこんなに驚きを感じさせる対象物が3人もいるのに十分観察しないのは片手落ちで勿体ない。そんな目で私は孫たちをとらえている。

 私も一応3人の子供を育てた。当時の子育てと今はかなり様相が異なっている。私は自分の育った環境から考えて、出来るだけ、大勢の、子供たちが多い環境、さらに出来れば親族たちの中で育てられるのが理想だと考えていた。

 私自身は比較的大勢の大人たちの中で、大事にされて育ったが寂しい子供時代だった。私は小学一年から高校卒業まで一匹のネコと心身とも戯れながら暮らした。中高生のころは離れで二人で?暮らしたが最高の安らぎであった。このネコの生き様から教わった事、特に生老病死について教わった事は大きい。死別してから50年以上も経つが、未だにそっと声をかけ、心の中で戯れている。

 そんな中、私ども夫婦の勉強のために、子育てのために秋田で過ごす事となった。縁あって家内のおばにあたる石井さんとその子供たちと同居し、隣家には義姉と3人の子供たちがいた。こんな環境の中でわが家の子供たち3人は成長した。喜怒哀楽もそれなりにあったようだが、子供たちもいい環境で育った・・と思っているに違いない。私も満足している。

 ひと世代異なった今、盛岡、横浜では核家族の中で子育て中である。核家族の中で育つ子供は、人とのふれあいをどう構築して行くのか、さきざき環境にどう対応して行くのかなど、ちょっと気にかけながら、観察して行こうと思っている。
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診療報酬改定2014(2) 医療現場に新たな混乱が生じかねない



2014年02月25日 17時35分01秒 | 医療、医学
 診療報酬は公的保険医療の公定価格である。
 医療は自由主義経済の中、規制緩和、自由競争が許されていないほぼ唯一の業界である。その公定価格は国によって2年ごとに改定されるが、これは良き医療の発展のためではなく、厚労省が意のままに医療機関を繰るための道具としての「アメとムチ」的意味合いが強い。

 要するに、低医療費政策で医療機関を締め付けておいて、「空腹でやせ細った馬の鼻の前に人参を吊るす」様なものである。医療機関は合点が行かなくとも、吊るされた人参の方向に進まざるを得ない。厚労省は財務省の意向を受けながら方向性を決定する。だから、改訂は厳しい内容となる。患者のために良い医療を提供したい、と医療機関側が孤高の道を選択したとすれば、医療経済の狭間の中でたちまち立ち行かなくなる。結局、医療機関は厚労省の言いなりにならざるを得ない。
 日本医師会はこの方針をのんだのだろうか。

 今回の改訂に類似した例は、2006年度診療報酬改定で見られた。このとき、高度医療の充実を目的に、厚労省はより高い診療報酬を設定し急性期病床への転換を促した。各医療機関はこの方向に進めば飢え死にを免れる事が出来るとし、全国の大規模病院から中規模病院はこぞって急性期病床へ転換した。その時の認定条件は看護体制の強化、在院日数の短縮であった。

 結果として看護師の争奪戦も激化。あおりで看護師が集まらず、各地で病棟の削減や閉鎖に追い込まれる例も生じた。
 紆余曲折はあったが急性期病床は全病床の4割まで増加、この事が国の医療費を圧迫する結果となり、在院日数の短縮の結果、急性期治療を受け快方に向かった半健康的患者は行きどころを失い「医療難民」化した。

 急性期病棟を抱えた医療機関は、患者の入院期間を短縮する必要があったが、それだけでは病床利用率が低下するためにより多数の患者を受け入れる事になった。その煽りを一気に受けたのが急性期病院の勤務医であった。医師一人当たりの受け持ち患者数は増加し、医療の質向上も叫ばれたこともあって一気に労働加重状態となった。これが医療崩壊に結びつき、社会問題化した。

 未だに地方では医療崩壊の状態から立ち直っていない。
 国の医療政策の見通しは完全に誤っていたと言えよう。その総括もなく、反省もなく、誰も責任も取らず、今回の診療報酬改定では急性期病床の基準厳格化で約9万床を削減すると言う。

 この方針転換で新たに混乱を招く懸念は拭えない。
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ジジババ・孫論(2) 孫とジジ・ババ 親の重圧から逃るオアシスに

2014年02月24日 16時37分57秒 | 近況・報告
 まあ、なんであれ孫に接する時間がある事はとても良い事だと思う。孫は確かに可愛い。血縁関係など分からない孫たちは、たまに接するだけのジジババはどんな存在なのだろうか。我が家の孫たちはひげ面のジジを何だと思っているのだろうか。興味がある。私は孫たちを単に可愛いか否かではなく、孫たちとは出来るだけ接しなければならない義務がある、と考えている。

 とはいえ、私は孫たちのペース、活動力に到底対応出来ず疲弊してしまう。辛いのだが、孫たちとは時間を作って接しなければならないのだ、と思っている。

 子供が2歳3歳と年齢を重ねていくと、親の「しつけ」が始まる。当然の事である。しつけにおいては「けじめ≒がまん」などの言葉と威圧が子供を縛る。子供は本来自由にしていたいものであり、威圧などして欲しくないはずである。核家族での子育て、狭い住宅の中で親とべったりの生活の中で育てられる現代っ子。親も大変であるが、子供の側も大変だろう。

 絶対に逃れられない親子の関係の中で、「しつけ」を介して親と子供は強い緊張関係にある・・、と私は感じている。これは子供の側から見れば大変な事と思う。この年代の子供の行動の基本は甘えだから、いろいろな要求をして、表情をして、いろいろな仕草を仕掛けて、どうすれば緊張関係から甘えの関係に切り換える事が出来るか、年端も行かない子供は常に探っている。親の緊張関係から逃れようとしている。子供の「赤ちゃんがえり」現象はその駆け引きの結果だろうと思う。

 子どもを親の重圧から解放し、自由な感覚のなかで過させる時間がなければ子供は重圧に負ける。そのときに必要な条件は、親と子の間に第三者が介在する事だろう。この際、他人の関係では駄目である。ジジババである事に意味がある。

 自分の両親とジジババの間で交わされる親密な人間関係が、自分に向けられる視線と同一である事を子供たちは見抜き、そこに安心感を得てジジババを含めた三角関係が構築されて行く。しかも、両親とジジババの子育ての考え方の違いも見抜く。ジジババからも親と共通のしつけの言葉が発せられても軽い。威圧なんて殆どない。しつけに関する責任もないからである。子供にとっては救いのはずである。しかし、ここで必要なのは、両親とジジババの子育ての考え方が同心円上にある事である。勿論、両親が同心円上の中心である事は論をまたない。この中心点の軸が狂っていてジジババによる甘やかし放題、おやつの買い与えなどが表面化すると、特に女同士の諍いの原因になり、子供は大人の顔色をうかがうようになる。

 孫とジジババの人間的関係の構築には両親とジジババ間の関係がホットであるとの前提が重要である。少なくとも孫の前では互いに誹りあう事などはあってはならない。要するに、良き子育ての前には「敬老の精神」がなければならないと言う事である。
 こんな事を考えながら、内心ではホントかいな、と思いながら私は孫と接している。
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