福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

真の豊かさとはなにか (8) 22世紀に向けての準備を怠りなく 主役は国民なのだが

2024年07月11日 15時46分15秒 | コラム、エッセイ
 モノとカネがあふれる世界有数の金持ち日本。だが一方では、労働環境破壊、過労死、受験競争、老後の不安など深刻な現象にこと欠かず、大多数の国民にはゆとりも豊かさの実感もない

 日本はGDPが豊かだった時に、統計的に、疫学的に少子化・高齢化が予想され将来は右肩下がりの経済に陥ることの予想はできていたはず。
 有識者と言われる方々、特に政治家が真剣に考えることなくこの状態を現在まで放置してしまった。日本は余力があるうちにすべきであった舵取りを完全に踏みまちがえた。

 半世紀以上も前から指摘されながら、岸田内閣までほとんど手を打ってこなかった人口減少・高齢化で、人材の確保、再生産さえもおぼつかなくなった。このままでは社会機能の維持さえ困難になっていく。

 個人の幸福や心の問題は、自己責任だと片付ける考えは正しくない。社会的に安心できる基盤が背景になければならない。
 
 民主的な政治制度がある以上、法事国家である以上、この国をどうしていくのかは私たち自身が考えるべきで、最終的には国会に持ち込まなければならないのだが、明らかに日本人の精神は疲労しているように思う。問題点が上がってこないのだ。

 日本人は社会のあり様、政治のあり様が自分の考えと異なっていても、政治的不祥事が頻発しているのにも関わらず、怒りの声は小さい。現在、最低賃金が問題になっているが、その賃金で働いている労働者自体からの意見は決して大きいとは言えない。その表れは選挙の投票率も現れている。社会のの問題点に気づいていたらまず投票に行かねばならないのだ。

 日本は経済大国となったはずなのに、今も経済大国のはずなのに豊かさを感じられないのはなぜか。
 社会の、個人の「本当の豊かさを手に入れるためにはなにが必要か?」
 社会の歪みに対する批判的視点の回復であろう。改善には相当長期的な時間が必要になると考える。

 昨今の日本社会を見ると、長時間労働はだいぶ減り、有休が一定日数取得することが義務化され、子どもの教育も多様化しているが、各分野に従事している労働者の環境は本当に良くなっているのだろうか。
 
 教育界の労働の実態は??官僚たちの実態は??介護の分野などブラック企業に近いままではないのか??

 さらに、最後のセーフティネットとしての社会保障は充実しているとは言えない状況にある。

 今後、22世紀に向けて、人口減・高齢化社、経済力低迷の中でどう乗り切るのかが問われていく。

 

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真の豊かさとはなにか (7) 参考文献:輝峻淑子(てるおかいつこ)著「豊かさとはなにか」 岩波新書 1989年(1)

2024年07月10日 10時26分52秒 | コラム、エッセイ
 私は田舎の開業医の孫として生まれ、戦後の窮乏期にも比較的豊かな幼少期を過ごした。小学生の時は自分の弁当が恥ずかしくて自宅に戻って昼食を食べたこともある。しかし、祖父が死去し、父親が事業に失敗し、住居も手放し生活はかなり厳しくなった。

 「赤貧洗うが如し」というレベルではなかったが、計画的に財を崩していけば、私が社会に出るまでは両親の生活は何とかなりそうであった。新潟大学進学時は6年間の学費として入学時に50万円を確保し、持参した。学生寮で過ごしたが、年間10万円でのやりくりは当時の物価でもかなり厳しいものがった。
 特に教科書が1-3万と高額であった。私は数千円と安価な英文のアジア版を多用した。卒前2年間は所持金が底をつく可能性があり、岩手県医療局の奨学金も利用した。

 こんな状態での学生生活であったが私はバイトで収入を得ることより勉学に集中して過ごした。

 1971年卒業、医師として給与をいただく身になって経済的には一段落した。
 1973年から秋田大学に、1980年から現在と同じ法人の病院に赴任したが、ほとんど家のことは省みることが出来ない激務の中で過ごした。当時の激務状態は記録してあるがもう2度と当時には戻れない。

 本書は私が激務をこなしていたころに出版された。
 何でこの本を購入したか今となってはわからないが、赤鉛筆で真っ赤になるほど線を引いて読んだものである。おそらく、自分を含め日本の労働者が置かれている立場に自分でも疑問を感じていたからであろう。

(iPad mini画面上の本書の表紙)

 本書は以下の6章からなる。
(1)金もちの国・日本
(2)西ドイツから日本を見る
(3)豊かなのか貧しいのか
(4)ゆとりをいけにえにした豊かさ
(5)貧しい労働の果実
(6)豊かさとはなにか

 このうち、(4)-(6)章が今でも色褪せない主張に満ちている
 私の社会を見る目が大きく開かれた本である。

 今回、「真の豊かさとは何か」に注目し再勉強するにあたってまず再読したのは本書であった。再読してみて出版から35年近く経つが、基本的に本書の中で指摘された問題はほとんど今でも解決されていない。むしろ状況は深刻になりつつある。

 「資源がないからがむしゃらに働くしかない」、「敗戦の復興と先進国に追いつくため」・・日本全体が熱に侵されていた時代だった、と思う。



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真の豊かさとはなにか (6) 日本人の幸福感は諸外国と比較出来難い

2024年07月09日 05時27分08秒 | コラム、エッセイ
 幸福は、人類に共通で、古来より追求されてきた感覚である。
 個人の幸福感は、周囲に伝わる。逆に、個人の幸福は社会全体の幸福の影響を濃厚に受ける。

 しばしば幸福は個人のものと考えられがちだが、社会全体の幸福と相互に影響し合う。人は社会的生物で、無人島に一人暮らす場合を除き、個人の幸福と社会の幸福は、互いにリンクしており、まわりまわって個人の幸福につながっていく。

 近年、社会の幸福の追求を政策課題として見る動きが出てきた。ブータンやニュージーランドなどで具体的な政策判断に取り入れているし、日本でも教育や環境などの分野で重要な考慮事項になってきている。

 しかし、幸福の概念は単純なものではなく、社会・文化によってとらえ方に違いがある。その国固有の幸福感があるようだ。

 欧米では個々人が幸せになる因子として、個人単位で健康、教育、収入、楽観的性格、自尊心が安定している人が幸福であり、そこにはより高みを求めるというものに見える。すなわち、欧米では「独自的、絶対的な、幸福観」が主である。アメリカ企業のCEOたちの報酬は私どもが理解できないほど高額であるが、この面にも現れているように見える。

 日本的幸福感はあくまでも個人単位ではなく、良くも悪くも他者とのバランスを重視し、自分だけが幸せになることに引け目を感じる考え方が多い。それが転じて、人並みの幸せ+アルファの幸せを手に入れればそれで良いということになりやすい。競争を経て獲得するというより、まわりまわって自分にも幸福がやってくるという信念である。そのように、日本では「協調的、相対的な幸福観」が主である。

 したがって、日本の幸福感を測定するために、「人並み・協調的幸福」という尺度が必要である。

 日本人の「幸福感」に表れているように、自分の幸福と周りの幸福の関係は切り離せない。

 個人が社会の中で暮らす以上、個人の幸福と社会の幸福は互いがリンクしている。
 その際、日本でも「多様性」を認め合うことが必要である。身近な集団内で信頼関係を築けてこそ、多様な人や新しい考え方を受容できる部分が広がっていく。


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真の豊かさとはなにか (5) 豊かさと主観的「幸せ感」の関係(2) 

2024年07月07日 16時44分23秒 | コラム、エッセイ
 2011年11月ブータン国のワンチェク国王夫妻が国賓として来日され、東日本大震災・原発事故に打ちひしがれた日本に対して祈りを捧げた。

 九州とほぼ同じ面積のブータンは、当時は島根県と同じ人口約70万人で、秋田県の現在の人口91万4000人より少ない国である。経済成長だけでなく精神的豊かさを重視する「国民総幸福量  Gross National Happiness「GNH」」を国の政策の中心に置くことで知られている。国王夫妻が来日された当時は国民の約99%が幸せと答えている。私にはいまだに信じられない高い数値であるが、最近の調査でも国民の90数%が幸せ、と答えていると言うので驚いている。
 ブータンの国民は妬みや嫉妬の感情等の「人間の原始的感情」が欠如しているのではないか??とさえ思っている。この辺は時間が許せば追求してみたいところである。

 当時、イギリスの社会心理学者E・ホワイト教授が作成した世界の幸福地図によると、上位5カ国はデンマーク、スイス、オーストリア、 アイスランド、バハマであった。ブータンは8位、米国23位、中国82位、日本は90位であった。世界の幸福地図では人口小国が上位を占めた。大国の政治は国民目線には立てないのだろう。

 国の豊かさの指標はGDPであるが、この値だけではどれだけ国民に豊かさが還元されているかわからない。だからいろいろな指標が開発されている。

 その中の一つとして「人間開発指数Human Development Index(HDI)」がある。「長寿で健康な生活」、「知識」、「人間らしい生活」という3つの側面を包括的にまとめたもので、各国がどのくらい発展しているか、どのくらい貧困しているか、といった指標に使われる。最新2024年のランキングで日本は2年前の19位から24位に後退した。


 一方、そもそも人間の幸福度を比較することが可能なのか、意味があるのか、と言う疑問がある。
 禅の修行者は最低の衣食住の中でも悟りで深い幸福感に到達する努力を続けている。私は悟りに到達した方を知らず、悟りの境地も知らない。悟ると言うことは心理学的にどのような状態なのか。本当に悟りの境地とはあるのだろうか??これも追求してみたい項目である。

 並の人間には金銭的豊かさが幸福度の一要素となっている。赤貧の状態で生活している方々には生きることが精一杯で幸福度は乏しいのだろうことは推定できる。
 ニューヨーク大名誉教授佐藤隆三氏は師のS.サミュエルソン(2009年、94歳で死去)の幸福の方程式を紹介している。「幸福は、所得に比例し増大するが、欲望に反比例して減少する」と言う。如何に所得やカネを多く持っていても、欲望が大きければ、幸福度は低くなる。 

 確かに、金持ちは特殊詐欺の犠牲になっている。あれほど財産がありながら、あの世に持っていけるわけでないのに、持てるがために不安が強いのだろう。
 一部の大金持ちは本当は不幸なのではないだろうか??

 されど、「幸福感というのは個人の考え方次第なのだ」という割り切りは何か物悲しい。

 
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真の豊かさとはなにか (4) 豊かさと主観的「幸せ感」の関係(1)

2024年07月06日 06時30分28秒 | コラム、エッセイ
 国の経済的・物質的豊かさを示す経済学の伝統的指標はGDPである。
 現在、日本はGDPで世界の4番目だが、日本の戦後の公害事件が示すように、高いGDPを獲得した陰には公害、劣悪な労働環境、劣悪な社会保障などのマイナス要因がある。 

 これに対し、「人はパンのみにて生くる者にあらず、Man does not live by bread alone.」と言われるように人は物質的に満足すればそれでよいというものではない。人は精神的に満たされることを求めて生きる生き物である。「旧約聖書」のモーゼの言葉、「新約聖書」のイエスの言葉に由来している。

 だから、精神的豊かさを考慮した指標が必要となる。

 仏政府は世界の著名な経済学者たちに委託して「経済的パフォーマンスと社会的進歩」の新指標の作成に乗り出した。そのほか先進国各国でも同様の試みがなされた。

 我が国でも「幸福度指標試案」なるものが内閣府経済社会総合研究所で検討されたことがある。幸福度指標とは、幸福度を具体的に見えるように各種指標で表したもの。平成22年度(2010)に閣議決定された「成長戦略」に幸福度指標を作成する旨が盛り込まれた。

 「幸福度指標」作成の意味があるとすれば、「幸せ」に光を当てることによって、これま で政策などにおいて焦点化されてこなかった「個々人がどういう気持ちで暮らしているのか」に着目することにある。

 より具体的には以下の2点に あると考えられる。
(1)日本における幸福度の原因・要因を探り、 国、社会、地域が人々の幸福度を支えるにあたり良い点、悪い点、改善した点、悪化した 点は何かを明らかにすること、

(2)自分の幸せだけでなく、社会全体の幸せを深めていくためには、国、社会、地域が何処を目指そうとしているか、実際に目指していくのかを議論 し、考えを深めることが不可欠であり、その際の手がかりを提供すること、

 素晴らしい着目点であるが、その後この試みがうまく発展しているとのニュース、データはない。結論を出さないまま途中で頓挫したものと考えられる。総括もせずに途中で検討を止めてしまうのは日本の政治の悪しき点の一つである

 最近の政策としては「地方創政策」がある。あれはなんだったのだろうか??
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真の豊かさとはなにか (3) 豊かさと幸福度の関係

2024年07月05日 08時12分05秒 | コラム、エッセイ
 近年、GDPと幸福度の間には乖離があることが注目され、世界中で新たな幸福度指標づくりが試みられている。

 GDPに代わる「より良い暮らし指標」とは、経済協力開発機構(OECD)が発表している「ベターライフ指標」が代表で、OECDの「より良い暮らしイニシアチブ」の一環として、2011年に初めて公開された。

 これは、より良い暮らしに欠かせない11の分野(住宅、収入、雇用、共同体、教育、環境、ガバナンス、医療、生活の満足度、安全、ワークライフバランス)について、36カ国の比較データを見ることが出来る。
 それによると、日本は多くの項目において先進諸国の中では最低に近い順位となっている。
 
 日本の評価結果で高い項目は、「一人当たりの国内総生産(GDP)」と「健康寿命」、「 教育」や「安全性」で平均を上回る。

 平均を下回っているのは、「コミュニティー」、「市民参加」、「ワークライフ・バランス」など。

 評価結果で低い項目は、さらに「汚職の有無」や「社会的支援」など。
 更に顕著に低い項目が「社会的自由」、「寛容さ(他者への寛大さ)」、「人生評価/主観満足度」となっており、特に「人生評価/主観満足度」が非常に低い結果となったのは、GDPが高い日本独特の結果といえる。

 だから、真の豊かさのためにはGDPを単純に増やせばいいという発想ではダメである。

 日本にはまだまだ大きな生産力があり、1人当たりの家計金融資産は世界トップ級で潜在的購買力はたかい。問題はお金を使わず、溜め込んでいることにあるが、これは短期間に超窮乏社会から豊かになったことへの反動、不安感であろう。

 日本は分野ごとに評価すれば、他国に比べて劣っている領域も浮かび上がる。その点に注視し、GDP幻想から目を覚まし、国民生活本位の発想に切り替える時期だろう。

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真の豊かさとはなにか (2) GDP中国に抜かれ誇りと自信喪失

2024年07月04日 15時59分33秒 | コラム、エッセイ
 GDPは、「Gross Domestic Product」の略で、「国内総生産」を指す。 1年間など、一定期間内に国内で産出された「付加価値」の総額で、国の経済活動状況を示す指標として用いられている。 「付加価値」は、サービスや商品などを販売したときの値から、原材料や流通費用などを差し引いた値を示す。

 日本人の多くは「GDPは内容や意味は知らないが、超大国米国の次であるという立場の安心感をたっぷり享受してきた」。そんなレベルでしかなかった、と思うが、長らく世界第2位という経済大国にいた、という誇りと安堵感に浸っていた多くの日本人にとって2010年にGDPが中国に抜かれた時は「誇りの喪失と自信喪失」が大きかった。

 特に、それまで発展途上国として軽く見なしてきた中国に経済規模で後塵を拝したショックは、想像以上に大きかった。

 外交面で中国は次第に大国意識を露わにし始めた。中国のゴリ押しは目に余るようになった。尖閣然り、南シナ海問題然り、台湾問題然り、処理水放出問題然り・・・と枚挙にいとまがない。

 それに伴い、日本人のゆとりと余裕あった対中国を見る視点は一気に変化し対中感情は悪化、両国関係は悪循環に陥った。

 日中逆転後の暗いムードが第2次安倍政権のアベノミクス登場を後押しした。「日本を、取り戻す。」という安倍自民党の復古的キャッチフレーズが国民に受けたのも、2位から転落したショックの反動だろう。しかしながら、10年超に及んだアベノミクスは結果的にみて失敗だった、との評価もある。

 私はアベノミクスそれなりの意義はあったと思うが、結果的に大きな目標とした経済成長は実現できなかった。これはやむを得ないことだと思う。右肩上がりの好調ムードにある国と、経済が爛熟し守りの姿勢に入った日本では自ずから目指す方向性が異なる

 GDPはもともと国民の福祉や豊かさを計測する手段ではなかった。 1930年代後半に米国政府がGDPの原型を作ったのは大恐慌への対応と、それに続く第2次世界大戦への備えのためだった。いま、ウクライナや中東で大量消費されているミサイルや戦車もGDPを増やす要因となる。 

 経済大国にあることが国民にとって真に幸せ??・・・ではないことは明らかなのだが・・・。

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真の豊かさとはなにか (1) GDP以外の指標で評価をすべきだ

2024年07月03日 08時20分58秒 | コラム、エッセイ
 昨年の10~12月期の国内総生産(GDP)は、1位は米国、2位中国で、第3位ドイツ、第4位日本となった。第5位のインドに抜かれるのも時間の問題である。日の出の勢いで2位まで伸びたのが今や夢のようだ。

 とはいえ、2位の時も4位の今も、私どもの国民生活の中身は実感としてそう変わらないように思う。GDPの順位などとは関わりなく、私どもの生活は総じて変わっていない、といえよう。

 もちろん国内の状況は所得格差は拡大する一方だし、貧困のどん底で出口も見えない人が存在することも無視できない。しかしこれはGDPと直接関連していない。国内政治の貧困の現れである。

 私から見て、日本の社会には常に「何かが足りない感はある」。その視点は維持し、それが何であるかを追求したいと思っている。
 ひとつの指標としてGDPを見るのは参考にはなるだろうが、国民生活はGDPの世界順位とは無縁だ。

 その例を若干上げると、第一位の米国は社会保障の面で劣悪だし、銃社会で危険極まりない。治安が悪く、NYで子供を一人にしては置けない。夜間が外出は危険である。第二位の中国には自由がなく、自由な考えも許されず、全てが統制されている。貧富の差はとても大きいが、無理やり権力で納得させられている。

 だから、その国の豊かさはGDPでは量りきれない
 経済が富むのは悪いことではない。が、そのことが国の豊かさを量る物差しにはならない。GDPはもともと国民の福祉や豊かさを計測する手段ではなかった。 1930年代後半に米国政府がGDPの原型を作ったのは大恐慌への対応と、それに続く第2次世界大戦への備えのためだった。

 日本がGDPのランクを落としたことで負け惜しみで言うわけではないが、GDPを他の国と比べたり競ったりするのは何の意味もない。国際的に通用する別の「豊かさの尺度」を確立し「国民生活の真の満足感」を図る指標にすべきである。

  多くの国民が自由を謳歌し、暮らしを楽しめれば、別にGDPが世界のトップクラスにならなくともよい。ところが、その視点でみても我が国は決して満足できる国ではない、と思う。


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季節の話題2024(18) 傘の歴史は長いが何でバリエーションが少ないのか

2024年07月02日 10時20分59秒 | 季節の話題
 が初めて使われだしたのは約4,000年前の、古代エジプトやペルシャ。当時の壁画にも、その様子が残っている。
 当時は雨をしのぐことは目的としておらず、日傘であった。開閉機能はなく、常時開きっぱなしで構造的に頑丈で、かなり重量があり召使や奴隷が差し掛けていた。

 13世紀頃傘の骨組みとなるフレームが考案され、18世紀頃になると軽量化が図られ現在のような傘の形状になったとされる。
 
 傘は次第に雨避けにもなってた。

 画家ジョルジュ・スーラ の名作に「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(1885)という作品がある。


 この作品では多くの女性が日傘をさしているが、この頃に初めて軽量化した傘が売り出され、上流社会に爆発的に普及した。女性たちの表情は新い傘の出現を楽しんでいるようである。この作品は当時の世相を濃厚に反映している。

 傘の歴史は約4,000年もあるとされるのに、まだ「完璧に雨や陽射しを防げるもの」ではない、「未完成品」と思う。

 例えば、二人用の相合い傘もあってもいいじゃないか、と思う。自転車にだって二人乗り用のタンデム自転車なるものがある。丸型でなく楕円形にして2本の取手で支える構造にすればいい。相合い傘なんてロマンチックではないだろうか。

 なんで傘は総じて丸いのだろうか?
 じっと立ったまま雨を凌いでいるなら特に困ることはないが、傘は多くは歩きながら用いるものである。どうしても前も後ろも濡れやすい。特に背中にディバッグを背負っている時には濡れてしまう。傘を前後に伸ばした楕円形にすればかなり解決する。

 上半身の一部、背負ったディバッグもカバーするような裾を伸ばした細長い傘はいかがか?

 荷物がある時に傘のために片手が取られるのは不便である。傘の肢を短くして頭で保持するようにしてはどうだろうか??江戸時代の雨傘の如くに。また当時の簑に代わるような機能を持たせるため防水の布片をホックで傘の後ろに装着できるようにするのはいかがだろうか。

 ドローンを利用し頭の上に浮かぶ「手に持たなくてもいい傘」も考えられないことはない。
 
 私は雨が好き。
 でも運転免許を返上してから思った以上に生活に不便をきたしている。
 傘の発展性の無さは指摘したい。
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季節の話題2024(17) もともと雨は私の友達であった、が・・・(3) 好きな雨の歌

2024年07月01日 16時09分16秒 | 季節の話題
 私は音楽が大好きである。
 最も好きなジャンルはいわゆるクラシックと言われる分野であるが童謡や唱歌、昭和の歌謡曲、演歌等にも捨て難い魅力を感じている。それがフォークやニューミュージックに置き換わって私は寂しい思いに駆られている。

 ざっと言えば昭和の歌謡曲、演歌等には言葉があり、メロディがあり、情があった

 自転車通学の時に雨に降られた時などは思いつくまま雨に関連する歌を歌いながら必死にペダルを踏んだものである。そんな時に何を歌っていたのか忘れてしまったが、子供向けの童謡や唱歌であったような気がする。

 雨は私の友達であった。
 雨の日は心が落ち着き心身がリラックスモードになる。雨音には心を落ち着かせる効果がある。心身が休まり、包容力が増すような気がする、などなど。

 雨の雰囲気は歌謡曲にも合う。私は雨を歌った曲が好きである。その中でダントツに親しみを感じている曲は「佳山明生氏」の「氷雨」である。

 古い話であるが、2010年9月、私は「第59回東北六県再生資源組合連合会総会」という堅苦しい会で400名ほどの方々を前に講演した。
 続く懇親会ではメインテーブルに座らせて戴いた。隣の席は中年の演歌歌手の「佳山明生氏」であった。さすがにプロ歌手は身なり、姿、身のこなし、表情等が素人とは段違い、世界が違う、と思った。「佳山氏」は「氷雨」を中心に約1時間ほど会場を回りながら数々の歌とトークで雰囲気を盛り上げた。私も親しく言葉を交わした。

 「氷雨」はイントロ、バックの伴奏を含めて実に良い曲と思う。
 「氷雨」は数々の歌手がカバーしている名曲である。テレサ・テン、本田美奈子、前川清、研ナオコ、日野美歌、ジェロ盤もあった。各々特徴、個性があって比較は困難であるが、本人の歌を直接聴き、言葉を交わしたこともあって、佳山明生氏の盤が一番親しみを持って聴けた。

 私が好む雨の曲は以下の如くである。

氷雨(佳山明生)
京のにわか雨(小柳るみこ)
アカシアの雨がやむとき(西田佐知子)
雨の御堂筋(欧陽菲菲)
雨の日のブルース(渚ゆう子)
雨だれ(小林麻美)
雨がやんだら(朝丘雪路)
雨(三善英史)
雨の慕情(八代亜紀)
みずいろの雨(八神純子)
雨宿り(さだまさし)
長崎は今日も雨だった(前川清)
などなど・・・・・

 雨を歌った曲には名作が多い。小雨、篠突く雨、小糠雨などの言葉も知った。
 雨は雨音は心を落ち着かせてくれる。

 なお、暴風雨は問題であるが、荒れ狂う雨を歌った作品にはお目にかかっていない。
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季節の話題2024(16) もともと雨は私の友達であった、が・・・(2)

2024年06月30日 18時18分07秒 | 季節の話題
 幼少の時はちょっとした雨など気にせず野山で遊びほけていた。当然シャツもパンツもずぶ濡れは日常的なものであった。

 中学高校時は冬季間を除き片道16Kmを90分かけて自転車で通学していた。降雨時、間も無く降りそうなときはさすがにバスを用いた。雨が降らないと見込みをつけて出発するときはこうもり傘と雨合羽を用意し、教科書類はビニールの風呂敷を巻いて出発した。しかし、途中で雨に降られることは日常茶飯事であった。

 傘は短時間では上半身には有効であったが下半身には無力でびしょ濡れになった。雨具はそれなりに有用であったが自分の汗でびしょ濡れになった。学校ではトレパンに着替えて授業を受けた。濡れた衣服は廊下で乾かした。

 だから、私は雨に降られびしょ濡れになるのはほぼ当然、自然現象はやむを得ない、と雨をそれほど忌避していない。さすが土砂降りは嫌だったが小雨や中等度の雨には抵抗感もなく、いや、親しみすら感じていた。ただし、向かい風だけは呪ったものである。

 大学は徒歩通学可能範囲で傘が役立った。
 1971年、社会に出てからはまもなく車を購入したために雨との付き合いは基本的に少なくなった。

 1990年、子供達も中高校生となり私の車で移動することも少なくなった時期、私は突然バイクに目覚めた。一人で動くならバイクの方が合理的で利便性も高い。大型二輪免許は取得してあったので中年ライダーとして最初練習用にヤマハビラーゴXV-250を購入した。それで十分練習を積んだのち、1992年にはハーレーFLSTOF 1340ccに乗り換えた。

 バイクは風が心地良い。
 頭部への雨はヘルメットでしのげたが、スピードが速いだけ雨との闘いは時には壮絶なものであった。雨によっては無理せず駅とか農家の物置の軒下で雨宿りした。こんな経験もなかな捨てたものではなかった。自然との対話が豊かにできたことの意義の方が大きい。

 2011年、私が65歳時にハーレーは重すぎて取り回しが困難になったので手放すことになり、ディーラーに引き取られていった。20年もののボロハーレーであったが相応の値段がつき、東日本大震災の義援金の一部として役立った

       
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季節の話題2024(15) もともと雨は私の友達であった、が・・・(1)

2024年06月29日 08時07分24秒 | 季節の話題
 秋田は、幼少時に過ごした岩手に比較して降雨量が多い様な気がする。
 確かにそうだろう。地形的に見ても十分理解できる。日本海で十分に水蒸気を吸収した季節風が、秋田の平野で温められ上昇し、奥羽山脈にぶつかって雨を降らせ、米作に向いた肥沃な土地をもたらした。一方、奥羽山脈を越した大気は湿気を失い、そのため岩手側は快晴になりやすい。

 秋田市郊外には雄物川があり、秋田市内にも河川が数本流れている。そのおかげで秋田市は生活用水、農業用水に不足することはなく、水という面ではとても恵まれていた。

 しかしながら、昨年7月には東北地方北部を中心に大雨となり、局地的に約500ミリとなるなどの記録的な大雨となり、基本的に平野が多い五城目、秋田、秋田市岩見三内、仁別、角館で72時間降水量が観測極大値を更新し,驚くことに秋田市街が冠水し、床上浸水の住宅、車の水没が頻発した。私どもの病院も地下の設備を中心に多大な被害を被った。
 私が秋田に住む様になってからほぼ50年になるが水害は初めての経験であった。新しい治水策が必要になるだろう。

 秋田の降水という点では夏よりも冬の降雪が問題で、最近かなり少なくなってきているとはいえ降雪は県民にとってかなりストレスになっている。12月中旬から2月下旬までは厳しい日々が訪れる。しかしながら、連日の降雪、積雪と戦いながら秋田県民の雪を受け入れる眼差しは暖かい。有数の稲作地帯として、夏に備える水瓶としての意義を理解しているからである。

 私は2020年9月運転免許証を返納し、56年間の運転に終止符を打った。これによって私は再び雨と親しむ、時には雨と闘わなければならなくなった。返納当時、通勤は往路は基本的に6:40のバス、復路は通常は家内の車に同乗して帰宅していた。間もなく4年になる。もう高齢でもあるし、厳しい気象時には無理をせずにタクシーでの出勤もやむを得ないと思っていたが、雨や風雪でタクシーを利用したことはまだ一度もない。
 免許証を返納と同時に最初に購入したのは大型で丈夫なビニール傘
 16本の丈夫なグラスファイバーの骨で支えられ、空気の逆止弁がついており、風の影響は少ない、という。素材は通常のビニールとは異なり三層構造で丈夫である。実行直径は約108cm、重さは約590gとやや重くできている。手に持つグリップ部分は丈夫な木製である。コンビニで売っているビニール傘とは違う重圧感があり、14.000円もしたが、それだけの価値ある製品だと思う。

 免許を返上すると直ちに天候に左右される生活になる。
 もともと雨は私の友達であった、が歳とともにそんな優雅なことを言っておれなくなった。6:40分の朝の通勤時間帯には雨が降らないことを毎日願っている。

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本;倉嶋厚 原田稔編著 「雨のことば辞典」 講談社学術文庫 2014/6/11

2024年06月28日 05時45分36秒 | 書評
 本書は文庫本で再発売と同時に2014年に購入した。
 雨のことばと情緒、文化を学べる1冊で、日本語への敬意を感じとることができる優れた書籍である。

(広重の作品を表紙に用いている 急な雨にあわてている様子がイキイキと表現されている)

 誰でもそうだろうが子供の頃から何をするにも「雨の日」、「雨以外の日」の過ごし方が異なっていた。何度も軒下に「テルテル坊主」を吊るしたものである。当然、童謡などでも雨を歌った作品が多く、いずれも心に染みたものである。「雨」、「あめふり」、「テルテル坊主」、「かたつむり」、「カエルの合唱」、「雨降りお月さん」などは簡単に思い出す名曲である。

 この辞書には、雨関連のことばをだけを網羅し、季節ごとに掲載されているが、加えてその言葉に関連した俳句も併記され、巻末には「季語」が紹介されている。

 編者の一人倉嶋氏(1924-2017年)は理学博士。気象庁防災気象官、主任予報官、鹿児島気象台長、NHK解説委員などを歴任。気象放送の発展に力をつくした方。歌心もかなりのものと推察できる。

 雨にまつわる言葉1190余を収集した辞典。気になった言葉をちょっと調べる。気まぐれに開いて、未知の雨の表現に出会う。そんな利用に丁度良い文庫版の辞書。

 一つ一つの項目が解説というよりも随筆調になっている。雨は私たちの生活に多くの影響を及ぼすだけに著者の心情を反映した記載、添えられた俳句の一句が好ましい。

 日本語には雨の表現のみならず神羅万象を適切に表現した言葉がたくさんある。日本語の発展の中で短歌や俳句が果たした役割はとても大きい、と思う。

 その事象に興味や関心が高いほど、ことばは細分化していく、という。それだけ日本人は自然の移ろいを大事にし、「雨に関心」を持ってきて広範に言語化した、ということ。

 雨は恵みをもたらし、また災いも連れてくる。日本で生活する以上、雨に関心を持たざるを得ない。

 比較したわけではないが英語などの他の言語に雨に関連した言葉はどれだけあるのだろうか??


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季節の話題2024(14) 水資源として豊かな日本の「空の水道」網

2024年06月27日 06時12分05秒 | 季節の話題
 日本の上空には自然がもたらす「空の水道管」が集中している。
 「台風」、「梅雨前線」、「温帯低気圧」、「雷雲」、「冬の季節風による雪雲の行列」などである。

 日本は「自然に作られた空の水道管」に恵まれている。それが、「干ばつであっても不作なし」の経験とあいまって、日本人の心に「水資源に対する甘え」を生んだ。

 日本の雨は水資源利用という面では、いくつかの不利な特徴を持っている。それは、第一に、狭い国土に人口が多いので、一人あたりの降水量は世界平均の1/5以下であることである。

 日本の水収支を見ると、年間の降水量約6,600億m3(1992年-2021年の平均値)のうち、約35%に当たる約2,300億m3 は蒸発しており、残りの約4,300億m3 が日本の国土で我々が最大限利用することができる理論上の量となる。これを水資源賦存量という。

 このうち、実際に使用される年間の水量は、2019年の取水量ベースで、生活用水として約148億m3 、工業用水として約103億m3 、農業用水として 約533億m3 であり、その合計量は約785億m3。これは琵琶湖約3杯分の水量にあたる。

 河川水と地下水の内訳を見ると、2019年に使用された約785億m3の水のうち、約699億m3(約89%)は河川及び湖沼から取水されており、約86億m3 (約11%)は地下水から取水されている(国土交通省)。

 また狭い国土から見ると、日本上空に集中している「空の水道」は実に不安定。
 たとえば梅雨前線の位置が僅かにずれても、日本は「から梅雨」になったり、「梅雨前線豪雨」になったりする。同様のことは「空の給水車」である台風の発生数や経路のズレについてもいえる。

 また日本の雨は、傾斜の急な山岳地形に短時間に強く降るので流出が早く、水資源として使いにくい性質を持つ。さらに気候の長期変動が加わるので、「空の水道」の不安定性は一層増大する。

 気まぐれな「空の水道」から、余裕のある安定した「地上の水道」を導き水を有効に用いる長期計画、最近頻発するゲリラ豪雨などの思いがけない災害対策は国民的重要課題の一つである。
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季節の話題2024(13) 「地球は水の惑星」 地球の水はどこから来た??

2024年06月26日 10時08分46秒 | 秋田の話題
 地球は水の惑星と言われる。
 しかし、元々は地球には水はなかった。
 表面積の7割をしめる海は平均約3700mの深さ。地球上の水の97.4%は海にある。氷河や地下水、川や湖などの陸水は2.6%。そして大気中に0.001%。こんなに豊かな水に恵まれた惑星は、太陽系で地球だけ。

 この地球の水がどこからやってきたのか、実際にはまだよくわかっていない。

 太陽や地球のもとは、宇宙にただよう気体や塵。それが集まって太陽ができ、ほぼ同時に、惑星などの天体が太陽のまわりに誕生した。

 水などなかった地球に水をもたらした可能性のある最大の候補は、氷由来の水分を岩石中に含む小惑星たちの存在。これが地球に飛んできて次々と衝突し、その水分が地球の水のもとになったという考え方、これが主流である。

 太陽からの距離が偶然にも適正であったために地球ではそれらの水を失うことなく氷や水蒸気、水の形で保持できた。
 その水によって地球は冷やされ、豊かな今の環境ができた。

 大気中には全水の0.001%しかないが、これらが見える形として認識できるのが雲である。雲は上昇気流の力で空間を漂い、雨や雪をもたらすが決して「しとしと降る」様な静かな現象ばかりではない

 日本では毎年各地域で豪雨が起こり、多くの災害が発生する。 昨年7月に起こった秋田県の豪雨は記憶にも新しい。 

 地球大気の対流現象の特徴は集団化し強い雨をもたらすこと。豪雨をもたらす雲は基本的に積乱雲。日本は地球上でも集中豪雨の起こりやすい地域である

 集中豪雨はおおざっぱに言うと、数十キロの狭い地域に数時間に数100mmの降雨が集中する現象をさす。一般に、積乱雲は移動しながら雨を降らすが、1ヵ所に1時間に50mm以上の雨をもたらすことは多くない。

 複数の積乱雲が急激に発達し、 ごく狭い地域に豪雨をもたらす現象は線状降水帯と呼ばれるが、これを予測することは現時点では非常に難しい。

 頻繁ではないにしても、積乱雲は1時間に50mm以上の雨を降らし得る危険な雲として警戒が必要である。


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