人間社会においては名前と顔はほぼ同様な意味を持っているのだが、実際には名前の方がより重要な意味を持つといえよう。とはいえ、名前を必要としないレベルの間柄では顔を見せていることは最小限の礼儀でもある。
私は時にバイクでの帰宅時に書店などに寄ることもあるが、フルフェイスのヘルメットは外してから店内に入る。路上で道を聞くときも同様である。これは人としての礼儀だと思っているからである。
県医師会の会員名簿には全会員の住所や専門領域、連絡先等が掲載されており、実務的にはこれで十分役に立つ。記載されている個人名がその個人の存在そのものを直接示しているからで、直接的知己で無くともほぼ十分である。もし仮に、これが個人名でなく記号や識別番号であったら、その有用性は大きく損なわれるだろう。
たとえば私の場合、医師No450514 中通総合病院勤務 院長(65)、男、一般内科 新潟大学卒・・だけでは間接的な情報で、病院にこれに合致する医師がいる、と言うことだけしかわからず、実態を何も示していない。これでは利用する際にほとんど役立たない。
名前を提示すると言うことは特定の個人の存在を直接記載することであり、同時に責任の提示でもある。
学術論文には個人名や所属だけでほぼ十分であるが、随想などの文章の場合は、個人名に加えて顔写真が掲載されていると、その文章の価値は一層高まる。私は自分の顔写真が掲載されることに若干気後れするが、これも責任の一端の表示と思えば割り切らざるを得ない。逆に、顔写真が掲載されている文章の場合、読み取る内容も深まるし一層親しみを持って読むことができる。それ以上に、顔自体、十分何かを語っている。
相手がどなたかわからない状態で会話しなければならないことがあり、この際は何とも居心地が悪いが、相手が目の前にいるし、表情からいろいろ読み取れるし、名前を確認しようとすれば出来る状況だからまだいい方である。これが、メールとか投書等で署名無しのはさらに不快である。後者の場合には直筆であればまだ個性や血の通った人間としての雰囲気が感じとれるのであるが、パソコンやワープロで印字された文章には血の通った暖かさは感じがたく、内容によっては何とも言いようのないクールさ、時には不気味さを感じてしまう。
だからこそ、署名が必要である。
私は時にバイクでの帰宅時に書店などに寄ることもあるが、フルフェイスのヘルメットは外してから店内に入る。路上で道を聞くときも同様である。これは人としての礼儀だと思っているからである。
県医師会の会員名簿には全会員の住所や専門領域、連絡先等が掲載されており、実務的にはこれで十分役に立つ。記載されている個人名がその個人の存在そのものを直接示しているからで、直接的知己で無くともほぼ十分である。もし仮に、これが個人名でなく記号や識別番号であったら、その有用性は大きく損なわれるだろう。
たとえば私の場合、医師No450514 中通総合病院勤務 院長(65)、男、一般内科 新潟大学卒・・だけでは間接的な情報で、病院にこれに合致する医師がいる、と言うことだけしかわからず、実態を何も示していない。これでは利用する際にほとんど役立たない。
名前を提示すると言うことは特定の個人の存在を直接記載することであり、同時に責任の提示でもある。
学術論文には個人名や所属だけでほぼ十分であるが、随想などの文章の場合は、個人名に加えて顔写真が掲載されていると、その文章の価値は一層高まる。私は自分の顔写真が掲載されることに若干気後れするが、これも責任の一端の表示と思えば割り切らざるを得ない。逆に、顔写真が掲載されている文章の場合、読み取る内容も深まるし一層親しみを持って読むことができる。それ以上に、顔自体、十分何かを語っている。
相手がどなたかわからない状態で会話しなければならないことがあり、この際は何とも居心地が悪いが、相手が目の前にいるし、表情からいろいろ読み取れるし、名前を確認しようとすれば出来る状況だからまだいい方である。これが、メールとか投書等で署名無しのはさらに不快である。後者の場合には直筆であればまだ個性や血の通った人間としての雰囲気が感じとれるのであるが、パソコンやワープロで印字された文章には血の通った暖かさは感じがたく、内容によっては何とも言いようのないクールさ、時には不気味さを感じてしまう。
だからこそ、署名が必要である。