福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

匿名化、顔の見えない社会化はまずい(5)個々人の名前の持つ意味(2)

2010年02月28日 07時47分45秒 | コラム、エッセイ
 人間社会においては名前と顔はほぼ同様な意味を持っているのだが、実際には名前の方がより重要な意味を持つといえよう。とはいえ、名前を必要としないレベルの間柄では顔を見せていることは最小限の礼儀でもある。
 私は時にバイクでの帰宅時に書店などに寄ることもあるが、フルフェイスのヘルメットは外してから店内に入る。路上で道を聞くときも同様である。これは人としての礼儀だと思っているからである。

 県医師会の会員名簿には全会員の住所や専門領域、連絡先等が掲載されており、実務的にはこれで十分役に立つ。記載されている個人名がその個人の存在そのものを直接示しているからで、直接的知己で無くともほぼ十分である。もし仮に、これが個人名でなく記号や識別番号であったら、その有用性は大きく損なわれるだろう。
 たとえば私の場合、医師No450514 中通総合病院勤務 院長(65)、男、一般内科 新潟大学卒・・だけでは間接的な情報で、病院にこれに合致する医師がいる、と言うことだけしかわからず、実態を何も示していない。これでは利用する際にほとんど役立たない。
 名前を提示すると言うことは特定の個人の存在を直接記載することであり、同時に責任の提示でもある。

 学術論文には個人名や所属だけでほぼ十分であるが、随想などの文章の場合は、個人名に加えて顔写真が掲載されていると、その文章の価値は一層高まる。私は自分の顔写真が掲載されることに若干気後れするが、これも責任の一端の表示と思えば割り切らざるを得ない。逆に、顔写真が掲載されている文章の場合、読み取る内容も深まるし一層親しみを持って読むことができる。それ以上に、顔自体、十分何かを語っている。

 相手がどなたかわからない状態で会話しなければならないことがあり、この際は何とも居心地が悪いが、相手が目の前にいるし、表情からいろいろ読み取れるし、名前を確認しようとすれば出来る状況だからまだいい方である。これが、メールとか投書等で署名無しのはさらに不快である。後者の場合には直筆であればまだ個性や血の通った人間としての雰囲気が感じとれるのであるが、パソコンやワープロで印字された文章には血の通った暖かさは感じがたく、内容によっては何とも言いようのないクールさ、時には不気味さを感じてしまう。
 だからこそ、署名が必要である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

在宅死と死亡診断書(2) 医師からの投稿 「自宅でみとり 検視」は誤解から

2010年02月26日 19時58分38秒 | 医療、医学
 昨日の在宅死と死亡診断書〔1〕の朝日新聞の投書は2月2日の掲載であった。私は気が付かなかったのであるが、2月10日の同欄に以下の如くの投書が載った事を本日の県医師会理事会で知った。

 投稿者は横浜在住の47歳医師とのことである。
 『自宅でみとりなぜ検視なのか』を読みました。その主治医が在宅でかかわっていた揚合には、残念ながら主治医の誤解に基づくものと推察されます。通常、医師が継続診療している方が亡くなられた時は、医師は「死亡診断」をすることが可能です。診療中の病気と異なる疾患で死亡したと診断できれは、医師は「死体検案」を行います。いずれも、死因が異状と判断されなければ警察介入はありません。生前24時間以内に診察していないと死亡診断が出来ないと医師が誤解している向きがあります。正しくは継続診察中に亡くなられた場合、受診後24時間以内なら死後診察をせずに死亡診断書を交付できるという意味です。法律の難解な文言が招いた誤解ですが、在宅医療が普及し、自宅での看取りが普通のことになれば消えていくと期特しています。投稿の方たちにご心痛を与えたこと、医師の一人として申し訳なく思います。』

 私はこの文章を読んでこれを投稿された方はとても暖かい方だとの印象を持った。「投稿の方たちにご心痛を与えたこと、医師の一人として申し訳なく思います。」は素晴らしい表現である。私は2日の投稿を読んだ時点ではこんな医師もいたのか・・とは思ったものの特別のアクションを取ろうとしなかったのであるが、この方はご家族の心痛を思い、黙ってはいられなかったらしい。ただ、誤りではないが、内容的には誤解され易い表現になっている。これは短く制約された文章の中で一部の主語や述語が省略されたからかもしれない。

 この方の文章に沿って私の考えをコメントすると、■継続診療中の患者の死亡では主治医は死亡診断書を発行できるが、この場合は、最終診察から24時間以内の場合である。■24時間以上経過していた場合、他の疾患で死亡した場合には検案書の発行になる。■どちらの場合でも、異状死体でなければ警察への届け出は不要である。■死亡確認は医師しかできない。他の医師が死亡確認をした場合でも主治医が24時間以内に診察していれば死亡診断書を発行できる。■そうは言えども、可能であれば主治医が死亡確認と死後診察をすべきである。

 ところが、旧厚生省は昭和24年に医発第385号として更に現場を混乱させるような文章を各都道府県知事宛に発行している。多少表現を変えた。
------------------------------------
 医師法第20条但し書に関する件に関し若干誤解の向きもあるようであるが、以下の通り解すべきものであるので、御諒承の上貴管内の医師に対し周知徹底方特に御配意願いたい。  
1 死亡診断書は、診療中の患者が死亡した場合に交付されるものであるから、苟しくもその者が診療中の患者であった場合は、死亡の際に立ち会っていなかった場合でもこれを交付することができる。但し、この場合においては法第20条の本文の規定により、原則として死亡後改めて診察をしなければならない。  
 法第20条但し書は、右の原則に対する例外として、診療中の患者が受診後24時間以内に死亡した場合に限り、改めて死後診察しなくても死亡診断書を交付し得ることを認めたものである。  
2 診療中の患者であっても、それが他の全然別個の原因例えば交通事故等により死亡した場合は、死体検案書を交付すべきである。  
3 死体検案書は、診療中の患者以外の者が死亡した場合に、死後その死体を検案して交付されるものである。
---------------------------

 この文章を拠り所に継続診療中の患者であれば主治医は24時間以上経過していても死後診察さえすれば「死亡診断書」を発行できると解釈する意見もあるが、賛同できない。その意見では、例えば2ヶ月前に診察した患者が死亡したとき、死後診察すれば「死亡診断書」を発行できるという事になる。半年前の患者ならどうなる??もう主治医の判断が及ぶ範囲でない。
 だから24時間以上なら主治医であっても「検案書」発行で統一、でいいのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

在宅死と死亡診断書(1)「自宅でみとり なぜ検視なのか」

2010年02月26日 14時23分07秒 | 医療、医学
 死亡診断書の発行というのはなかなか正しく伝わっておらず、いろいろトラブルのモトになっている。
 2月10日朝日新聞の読者の欄に以下の如くの投書が載っていて興味を持っていた。「自宅でみとり なぜ検視なのか」というタイトルで64歳、愛知県の主婦からである。

 一昨年、ケアハウスで過ごしていた姑に胃がんが見つかりました。高齢なので積極的な治療をするより、様子を見ながら天寿を全うする方がよいのでは、という複数の医師の意見もあり、家に引き取りデイサ-ビスに通いながら穏やかに過ごしていました。異変が起き始めたのはお正月過ぎ。生きる気力を失い始めたのかと思っているうちに足腰が立たなくなり、食欲もなくなり、あっという間に逝ってしまいました。私たちが寝ている間、一人静かに。天寿を全うしたと思ったのもつかの間、主治医に連絡すると、警察に電話するようにとのこと。「検視」のため刑事さんが入ってきて「お気持ちはわかりますが、仕事なので」と質問攻め。「なぜ、そんなことまで聞かれなきゃならないの」と声を荒らげざるを得ませんでした。穏やかな旅立ちのはずが、検視という、故人と遺族の心を踏みにじられました。腑に落ちません。

 主治医はなぜ警察に連絡するように指示したのであろうか。以下のどれかだと思われる。■死亡診断書発行に関して勉強不足で誤解している。■何かの都合で自ら死亡確認に行けず、かつ頼める医師もいないために警察、警察医にそれを委ねようとした。■死因に不審をもっている。■医師としての自覚に欠ける?

 死亡診断書の発行に関してはなかなか正しく伝わっていない。死亡診断書の書き方については旧厚生省統計局発行の「死亡診断書・死産証明書・出生証明書の書き方」を参考にすると良い。多くの医師がこの様な本があることも知らない。日本の死亡診断書の記述内容は必ずしも正しくない、と国際的評価である。それでも保健所には受理されているからなかなか改善されない。

 診断書や処方箋の発行を規定した医師法の第20条は以下の如くの文章である。
 「医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後二十四時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。」

 死亡の認定は医師でなければならないから主治医は少なくとも自分で診療している患者が死亡した際には自ら出向いて死亡の確認をすべきである。その上で、死亡に不審がなければ、24時間以内に診察していれば死亡診断書を、そうでなければ検案書を発行すればいい。
 他の医師が死亡確認した際にも24時間以内に患者を診ていれば主治医は死亡診断書を発行できる。

 多分、家族は主治医の予想外の対応と、警察の検視を受けたことで大きな傷を負ったと思われる。実に気の毒なことであった。
 私の感覚ではあり得ない様な、不思議な内容の投書だったのでスクラップして保存しておいた。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今期をもって県医師会役員を辞退(2)「まだ出来る」、と感じたから が無投票当選された

2010年02月25日 20時25分01秒 | 近況・報告
 県医師会の選挙が無投票で決まった日以降、私は今期限りで役員を辞退したことを表明している。
 何名の方々からいろいろ御意見やねぎらいの言葉を戴いた。有り難いものである。ある医師一人だけが、「とても良い判断だと思います」と賞賛?してくれた。何でそう考えられたのか分からないが、そこまでクリアに褒められると脇腹あたりがこそばゆくなる。
 何で辞めるのか?と問われれば、理由は公私を含めて多数ある。それら個々について話したことは無いが、私の返事は一言で言えば「まだ出来る・・と考えたので辞めることにした」である。

 私は従来から、組織の中の一員として、あるいは何らかの役職としての立場を考えるとき、それを継続する論拠として「私が必要とされている」あるいは「自分として、何としても続けたい」と自ら感じている間、としてきた。初めて勤務した県立宮古病院を去るときも、秋大第三内科を辞したときもこの2点が微妙に変化したから自分で決定した。

 県医師会役員を私が来期も継続することはそう不自然なことではなかったと思う。にもかかわらず、今期で最期としたのは「自分として、何としても続けたい」という意欲が少しだけであるが萎えてきたことを自覚したからである。それは、やはり、もういい歳である。体力不足を背景にした気力の減退を自覚した。

 現会長の下での2期4年は副会長と、感染症等危機管理の担当は任されてきたが、全体的には会長の配慮もあってかつての8割程度の業務でしかなかったような気がする。一方、病院の方の業務は年と共にハードになってきたこともあり、医師会業務を十分にこなしたとは言えず、申し訳ないと感じていた。
 早朝の起床も若干辛くなってきた。日中も机に向かった姿勢で休息をとる頻度も多くなってきている。今の体力の中では業務を選択しなければならないが、立場上、病院業務を優先させざるを得なかった。

 「まだ出来る」と自ら感じることは守りの姿勢の自覚でもある。組織の中では次々と人材が力を付けて来るからその方々に道を譲るのは少なくとも悪い判断ではない。県医師会が新しい執行部のもとで一層発展していくはずである。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「下手な聞き手のしるし 上手な聞き手のしるし」 私にも参考になる子供達の声

2010年02月23日 13時04分16秒 | コラム、エッセイ
 昨夜、家の中の書類を整理・処分しているときに「下手な聞き手のしるし、上手な聞き手のしるし」と題したプリントが見つかった。NPO法人チャイルドライン支援センターの講習会か勉強会の資料と思われる。

 チャイルドラインは1986年イギリスで始まった活動で、日本では33都道府県61団体が活躍している、というが、これは3年ほど前のデータなので現在はもっと多いと考えられる。チャイルドラインは名前が示す通り子供のための専用電話で、子どもの声を受け止める活動をしている団体である。チャイルドラインあきたは、比較的新しく発足したNPOの様である。
 多分、これはいろんな処に顔を出している家内の勉強用の資料なのだろう。要らないというので貰ってじっくりと読んだ。

 プリントは二部に分かれていて「下手な聞き手のしるし」、「上手な聞き手のしるし」とある。 
「下手な聞き手のしるし」には、■私が言おうとしたり、考えている流れを妨害する人、■問題をそらしてしまう人、■私がまだしゃべっているのに、もう自分の答えを考えている人、■答えを一緒に考えてくれず、すぐ助言をする人、■私も皆と同じだといって、話を一般化する人、■すぐ結論を出し、私を邪魔する人、■私の間題を決めつけようとする人、■理性的にも感椿的にも、私の今ある情況の外に立つ人、■手足や姿努の位置を頻繁に変える人、■「私もそうだったのよ」という人、■沈黙や間をあけてはいけないと思っている人、■私の質問を避ける人、とある。

「上手な聞き手のしるし」には、■心を開いて、受け入れるような態度で、「そうだ」と言ってくれる人、■暖かく、適切に接してくれる人、■黙って、成長の節目を聴いてくれる人、■ほんとうのことを全部知っている、というふりをしない人、■私の感惰を感じ取ってくれる人、■私と同じ気持ちになって、内面の情況に立ち入ってくれる人、■私の考えや気持ちを反映してくれる人、■私を批判せず、あるがままの私を受けとめてくれる人、■私が口ごもっても、そのままでいてくれる人、■聞き手側の自分の関心や欲求を押しのけて聞いてくれる人、とある。

 一つ一つの意見にはちょっと不自然な言い回しもあるか、これは多分子供達の声をそのまま集めたものだろうと思う。NPOの相談員が教育用にまとめたものなら何と言うことない常識的な項目の羅列であるが、子供達の声だとすれば捨て置けない意味がある。たかが子供の、といって捨て置けない。

 私どもも患者や家族との面談を通じて十分告げたいことを聞いているのか、常に反省が必要である。悩み事、心配事を聞く相談電話担当とは立場が違うし、常に時間に追われているから、つい知らず知らずのうちに「下手な聞き手のしるし」に書かれたような聞き手になっている可能性が高い。
 これを見て反省した。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする