福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(3) 詳細な浸水時の記述

2014年10月31日 08時16分41秒 | 書評
 戦艦武蔵はいつどこで建造が決定されたのか、これほどの巨艦を、世界最高の戦艦のイメージしたのは誰か、具体的装備の計画は誰なのか、設計の統括者は誰なのか、吉村昭氏の「戦艦武蔵」を読み進んでもなかなか疑問は解けない。

 これだけの巨艦のあらゆる箇所を詳細に設計したことも、そのまま建造して、大きな変更を加えることなく、昭和15年秋に、2年8ヶ月という短期間で進水にまで完成させたのも驚きである。

 かくして武蔵は浸水の運びとなった。
 大和は呉のドックで建造されたから、ドックに海水を満たす方法で進水させることが出来た。長崎造船所ではこの方法は取れず船台に載せた武蔵を滑らせて浸水させる方法となった。その際、進水の機会は満潮に達する11月1日朝9時が選ばれた。この進水作業は武蔵の重量から見て、一度失敗に終われば再度試みるのは不可能と考えられていた。また、船台から無事滑り降りたとしても、狭い湾の対岸に激突し破壊される可能性があった。これらについての詳細な対策がとられた。

 吉村氏は進水式周辺の対応についても詳細に調査している。その表現の緻密さには驚くばかりである。また、進水式自体も極秘に行われたが、その隠蔽方法についても詳細である。
 船体自体はシュロのすだれの中で極秘裏に建造されたが、進水後約1年は艤装工程のために長崎港の中央部にむき出しになる。これほどの巨体を隠すのにどうやったのか。

 ▪️進水式は簡素に行った。天皇ご名代軍令部総長官他の来賓はまとまって長崎入りするのではなく三々五々。平服で参加、数も大幅に限定した。 
 ▪️進水日を察知されないために進水日の2週間前から徹夜作業を日常的に行った。
 ▪️特別徽章無き作業員は船体に一切近づけず。
 ▪️領事館前に急遽目隠し倉庫を建設。
 ▪️海軍・憲兵隊・警察署合同の防空訓練と称し、ダミーの演習を行った。この間、市民の外出を一切禁止。海岸付近の住宅は家族を全員を家の中に閉じ込め、雨戸を閉めさせ、窓にはカーテン。各個に憲兵隊を配備。 
 ▪️海岸線・丘陵地一帯に1800名ほどの憲兵・警察職員を配置して市民の監視に当たらせた。これらのスタッフも進水時間には海岸線を向いて立つことが禁じられた。
 ▪️大型の春日丸を武蔵に横付けし、船体の一部を遮蔽。
 ▪️外国人家庭には家族調査と称する偽装の調査を行い、進水時間にはできるだけ調査を長引かせて時間稼ぎし、家の中に釘付けした。
 ▪️湾内外の船舶は全て湾外に出し、運行禁止した。
 
 結果的には浸水式は滞りなく進行、ゆっくりと海面に浮かんだ武蔵は対岸に衝突することなく計画地点に停止した。と同時に湾内の海面が満潮と武蔵の体積の影響によって約50cm上昇、進水による衝撃波は1.2mの高波となって対岸に押し寄せた。海岸付近の住宅は突然床下、床上浸水となった。飛び出した住民は憲兵によって家の中に押し戻され、恐怖の中で震えていた、という。高波は渓流されていた小舟を覆した。
 
 進水は全く完璧なものと評価された。その後1年余をかけて戦艦として艤装がおこなわれ昭和17年3月30竣工した。
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吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(2) 超弩級戦艦大和は極秘裏に建造が進められた

2014年10月30日 18時44分46秒 | 書評
 1894年(明治27年)7月から1895年3月の日清戦争、1904年(明治37年)7月から1905年9月の日露戦争に勝ち、1914年(大正3年)から1918年にかけて戦われた人類史上最初の第一次世界大戦でも、中国のドイツ基地に出兵した日本軍はそれなりの成果を収めた。このことが、日本の行く道を決定したと言っていいようだ。
 1931年(昭和6年)9月18日に奉天の郊外の柳条湖で、関東軍が起こした柳条湖事件に端を発した満州事変、関東軍はわずか5か月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。1932年(昭和7年)3月1日満洲国の建国が宣言された。この後、日本は国際社会の荒波の中で徐々に孤立していく。

 そんな時代の流れの中、昭和12年7月、九州の漁業界に異変が起っていた。海苔養殖漁業で用いるシュロが市場から姿を消したのだ・・・・。吉村氏は意表をついだ書き出しで戦艦武蔵について書き始める。

 武蔵の建造は極秘裏に進められた。知っていたのは軍の中でもほんの一握りの関係者だけであった。建造する三菱重工長崎造船所の周辺は小高い山に囲まれているのでその姿を隠す覆いを作る必要があった。そのために軽くて腐蝕しにくく、しかも火災に強いシュロを集めていたのである。
 武蔵は完成すれば全長263m、全幅38,9mもある。それを長崎市民からも、航行中の船からも見せないようにするためである。それが最後までうまくいったのも驚く。対岸にはアメリカ・イギリスの領事館があったため、目隠しのため大きな倉庫を建造して遮蔽するなど、建造中の艦の様子が窺い知れないようなあらゆる対策を施した。長崎住民に対する監視も厳しく行われ、丘から景色を見ていた市民などはすぐに逮捕され、身辺調査された。

 このような巨大な建造物を極秘に、建造するために設計図は極秘事項として厳重に管理された。そのために一枚の設計図が無くなったときの特高警察の取り調べに関する記述が印象的である。吉村はこの項目について20ページを割いている。
 憲兵隊に連行された被疑者8名は警察署に収容された。独房に留置され、刑事たちの鋭い訊問を浴びることになった。刑事たちは、8名の身辺調査の結果と答弁の食いちがいがあると、刑事たちは数人がかりで暴行を加えた。竹刀で乱打、平手打ち、皮製のスリッパで殴る、など執拗な拷問を繰返しても、取調べの面には少しの効果もあらわれなかった。

 結局、19歳の少年製図工が、図面を持ち出し焼却したことが判明した。動機はその職場から逃れたいためにとった行動なのだという。
 無罪放免された7名の被疑者たちの3名は強度の神経衰弱に陥った。少年は裁判にかけられ懲役2年、執行猶予3年の判決を受け、特攻の手で密かに満州に送られた。その家族は密かに長崎から姿を消した。

 造船所には身元調査で問題がない、有能な技術者だけが集められていたが、何万枚もある設計図の一枚が紛失しただけで上層部はパニックに陥った。特攻の捜査は辛辣さを極めた。武蔵の前には従業員の人権など無に等しかった。
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吉村昭著 「戦艦武蔵」新潮文庫(1)  吉村昭氏と三陸海岸大津波と戦艦武蔵

2014年10月29日 10時17分14秒 | 書評
 歴史を学ぶ上で避けて通れないのが第二次世界大戦である。

 世界最大の戦艦大和の存在は複雑な感情を国民に植え付けた。どちらかといえば象徴的な思いでとらえられているような気がする。しかし、戦艦大和は極秘に作られていたから戦時中にその存在を知るものは極めて少なかった。真に国民の中に姿を現したのは戦後数年経ってから、すでに海の底に眠ってからである。戦後のドサクサと落ち着きつつあるときに、半ば象徴的、悲劇の戦艦として国民の間に一気に知られることとなった。大和に関しての文献、物語、漫画などは多い。

 一方、大和と同型の二号艦・戦艦武蔵については知る人は知るが、大和の陰に隠れて知名度は今ひとつである。

 作家吉村昭氏が丹念な取材と資料の読み込みによって戦艦武蔵が建造される過程から撃沈されるまでの過程を、精緻に描いている。それが本書「戦艦武蔵」である。

 本書は、約七割が、武蔵の建造に過程の記述に充てられている。
 軍事的観点からは、もはや超大型艦船の建造は合理的でないのではという意見が発せられつつあった昭和の初期に、当時の日本がこのような巨大戦艦を2隻も、いや、実際の計画では4隻が着手していた。これらの巨大戦艦群を作ろうとするエネルギーはどこにあったのだろうか。本書を読み進めるにつれて感じた第一の疑問である。

 第一次世界大戦後、各国は戦争によって疲弊し厳しい経済不況に襲われていた。当時の海軍予算は国家予算の32%も占めていた。国家予算は破綻の危機にあった。にもかかわらずの建造である。海軍航空本部長であった山本五十六中将は大和・武蔵の建造に反対意見を持ち、もし、これを航空機に向ければ2000機以上の作ることができると主張した、とされる。

 私が作家の吉村昭氏の著作を知ったのは1971年である。これ以降、氏の作品に親しんでいる。
 当時、私は岩手県宮古市の県立病院に2年間勤務した。海岸には津波の跡が残り、所々に三陸海岸大津波が到達した高さを示す指標が立っていた。内陸育ちの私が初めて津波を意識した。さらに、在任中は釣り仲間とともに釣り大会をはじめとして磯釣りを楽しむ機会があったが、その際の気構えとしてなだらかな丘ではなく、急峻な崖の上から糸を垂らすよう、地元の方たちからしつこく注意を受けた。津波ではなくとも、数時間ごとに予想外の大波が来ることがあり、釣り人がさらわれることがあるからだという。確かであった。いい天候で凪いでいるときにも驚くような大波が押し寄せ、海の怖さを知った。東日本大震災・津波の脅威については予想すら困難である。

 氏の作品、『三陸海岸大津波』は、1970年(S45年)に刊行された。これは氏の取材によって記されたルポルタージュである。三陸海岸各地の大津波を受けての被害状況、人々の行動を克明に記録している。
 私は三陸大津波の被害地にいたこともあって、私は津波の威力に驚くとともに、作家の吉村昭氏を知り、心酔し、多数の作品に親しんでいる。彼の緻密な調査活動と、それをまとめあげる能力に感嘆したが、医師の立場でも、その姿勢から学んだことは少なくない。

 その吉村氏が1966年、戦艦武蔵 について詳細な作品を残した。
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品物以外に何を売っているのか(3) 看護学生の方からのご意見に

2014年10月28日 03時28分41秒 | 医療、医学
 10月11日の「品物以外に何を売っているのか(1)コンビニで82円の切手を買って」に対してお二人の方からご意見いただきました。書き込み、ご意見に感謝いたします。

 私の記述の趣旨は、「コンビニで82円切手一枚購入した。私はこの際の店員の笑顔とさりげないサービスに感心した。切手はどこで買っても同じである。でも、私が得たのは82円の切手だけではなかった。一日気分が良かった。私が働く病院の患者対応ははたして良いのだろうか、と気がかりになった。」という内容であった。
――――――――――――――――――――――――
看護学生の方からのご意見
ブログを拝見している看護学生です。実習う講義の忙しさに追われ、『いつも笑顔で話を聞けないこともある!どうしてこんなにへりくだらなきゃいけないの~!』と思いがちになっていました。
へりくだる必要はなく、お互い気持ちよく過ごせるよう、態度よく接する姿勢が大切なんだなと感じました。
――――――――――――――――――――――――――――-

 私の拙文から何かを感じ取っていただけたようですね。感謝します。
 まず、看護教育のカリキュラムについて私も問題を感じます。短期間に詰め込まれる知識の量は膨大です。こんなカリキュラムをこなさなければならない看護学生は気の毒で、そんな気持ちにったのもやむを得ないかもしれません。
 看護教育の問題点については、もし可能でしたら、▪️2013年1月21日「看護学院講義(6) 学生・講師にとって、教務にとっても辛いカリキュラム」、▪️2011年10月17日「看護学院講義(2)難解な教科書を用いる看護師養成カリキュラムに難あり」、ご参照ください。

 でも、看護学生のうちから、自分の置かれている立場を自覚する必要があります。学習環境がいかに大変でも、ひとたび「患者」と向かい合った際にはその気持ちを出してはいけません。患者にとっても、学生との対話は時に楽しいことも、時には辛いことがあるでしょう。時に感情をあらわにする方もおります。でも、多くの方々は病める身で、自習だとわかっていても協力してくれます。気遣いさえしています。有難いことです。

 実習の前には戴帽式があります。みなさん感激しませんでしたか? 私も役職上5回ほど法人立の看護学院の戴帽式に出席させていただきました。その時の祝辞の一部を引用します。


 何故戴帽式では「周囲を暗くする」のか、「何故ゆらぐロウソクの光」なのか。この暗闇は、病に悩む患者の揺れ動く不安を表しており、一筋のロウソクの光はそこを訪れる「看護師のこころ」を表し、患者にとっては「希望の光」なのだ、と私は解釈しました。(中略)私は本年8月1日に泌尿器系の病気で下腹部を大きく切開する手術を受けました。術後の痛みに耐えている時、深夜に懐中電灯を片手に私の状態を確かめに訪れた看護師さんの姿、言葉に大きな「安心感」と「闘病する勇気」を戴きました。手術という体験を通じて「看護師のこころ」を実感できたことは、私にとって大きな喜びになっています・・・。

 まだ未熟な看護学生の実習生に患者は何を感じながら協力しているのでしょうか?若い学生の学ぶ姿から、「生きる意欲」、「闘病する勇気」などを貰っているからです。看護学生の実習は、自分たちだけが得るだけではない、それ以上の意味があるのです。
 みなさん方のフレッシュな表情、若さにも価値があります。患者も「かつては若かった」のです。対話を通じ自分の若かった頃を偲び、懐かしみ、人生を振り返っているのです。

 まだまだありますが、最後に一つだけ追加します。笑顔です。これは万人にとって最高の価値があります。憂いをたたえた表情、不機嫌な表情、これが似合う看護学生に私は一度も会ったことがありません。勉強、実習に追われているからか、病院実習で緊張しているのか、実習生にはちょっと笑顔が足りません。ついてくる指導教官にも問題があり、笑顔が足りません。緊張を振りまいています。
 自分のためにも笑顔です。笑顔は自分のためだけでなく、人としていろんな可能性を導いてくれます。その扉です。

 今後の勉強を通じて看護の心、看護技術を学んでください。加えて、それだけではない看護師になりますよう願っています。
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「孤舟」 渡辺淳一著 集英社(2) 「定年退職亭主在宅症候群」をテーマにした作品

2014年10月27日 08時29分29秒 | 書評
 主人公は何もすることのない、有り余る時間を過ごすのに苦労するが、その日常生活の描写に作者はページを延々と消費していく。主人公の孤独や無力感、妻や娘から受ける疎外感に焦りを感じ、干渉し過ぎ、夫婦仲も娘との関係が悪くなって行く。この過程の描写はなかなか面白い。

 主人公は、大手広告会社の常務まで上り詰めた人である。その背景や苦労、意志の強さは人物像は作品の中に的確に表現されていない。妻の人間性も軽く表現されている。だから、読む側として主人公の気持ちに入り込めない。共感を抱き難い。だから一歩退いて読んでしまう。そんな感じを抱くが、これは著者が意図した表現なのかもしれない。

 後半に至って,主人公は寂しさのあまりデートクラブに入会し、ある女性に出会う。この辺から作者のお得意の恋愛まがいの話が中心になる。しかし、作者の売り物の一つである、濃厚なエロチックな展開は一切ない。著者も老いて発想転換したのか。私はそれも良しとするが、余りに綺麗すぎる内容で、小説としては盛り上がりを欠く。なんにも起こらないままハッピーエンドでまとめている。

 定年退職は社会的存在であった男性にとって「喪失の初体験」から始まる苦渋の体験を日々味わう人生である。
 退職の日、笑顔と花束で送られるだろう。送る側は厄介払いをしているだけ。
 家では家族の労いの笑顔と言葉、で迎えられるだろう。30年近く給料を届けていたのだから当然であるが、多分、翌日からは家族との価値観の違いに愕然とするだろう。
 
 定年後の男の孤独や行き場のなさ、なかなか足が地につかない空虚感、孤独感・・・現実はもっと深刻だろう。この方面をもっと掘り下げても良かったのでは?もっとも、作者はサラリーマンの経験はないから不案内だったかもしれない。

 勤務医を3年前に定年退職し現在嘱託医として働いている自分の場合は「喪失の体験」はなく、「いい意味での離別への置き換え」になっている。私にとっての社会的な立場の多くは、初めから私にとっては不要なもの、不似合いなもの、であったと自己評価しているからである。

 来年は年齢的節目にあたる。医師を続けていくのに心身ともに問題が生じてきた。だから、嘱託医としての立場は不似合いだし、病院や患者への責任も負えなくなってきている。私もそろそろ「孤舟」 の主人公のごとく24時間フリーの体験をしてみたい。その際に私の独自の道を歩めるか、主人公と同じ轍に落ち込むか、分からないがいまから楽しみにしている。

 本書は読者に受け入れられやすいテーマで、エンターテインメント小説としてとても読みやすい。
 軽く読めて楽しめる作品である。
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