戦艦武蔵はいつどこで建造が決定されたのか、これほどの巨艦を、世界最高の戦艦のイメージしたのは誰か、具体的装備の計画は誰なのか、設計の統括者は誰なのか、吉村昭氏の「戦艦武蔵」を読み進んでもなかなか疑問は解けない。
これだけの巨艦のあらゆる箇所を詳細に設計したことも、そのまま建造して、大きな変更を加えることなく、昭和15年秋に、2年8ヶ月という短期間で進水にまで完成させたのも驚きである。
かくして武蔵は浸水の運びとなった。
大和は呉のドックで建造されたから、ドックに海水を満たす方法で進水させることが出来た。長崎造船所ではこの方法は取れず船台に載せた武蔵を滑らせて浸水させる方法となった。その際、進水の機会は満潮に達する11月1日朝9時が選ばれた。この進水作業は武蔵の重量から見て、一度失敗に終われば再度試みるのは不可能と考えられていた。また、船台から無事滑り降りたとしても、狭い湾の対岸に激突し破壊される可能性があった。これらについての詳細な対策がとられた。
吉村氏は進水式周辺の対応についても詳細に調査している。その表現の緻密さには驚くばかりである。また、進水式自体も極秘に行われたが、その隠蔽方法についても詳細である。
船体自体はシュロのすだれの中で極秘裏に建造されたが、進水後約1年は艤装工程のために長崎港の中央部にむき出しになる。これほどの巨体を隠すのにどうやったのか。
▪️進水式は簡素に行った。天皇ご名代軍令部総長官他の来賓はまとまって長崎入りするのではなく三々五々。平服で参加、数も大幅に限定した。
▪️進水日を察知されないために進水日の2週間前から徹夜作業を日常的に行った。
▪️特別徽章無き作業員は船体に一切近づけず。
▪️領事館前に急遽目隠し倉庫を建設。
▪️海軍・憲兵隊・警察署合同の防空訓練と称し、ダミーの演習を行った。この間、市民の外出を一切禁止。海岸付近の住宅は家族を全員を家の中に閉じ込め、雨戸を閉めさせ、窓にはカーテン。各個に憲兵隊を配備。
▪️海岸線・丘陵地一帯に1800名ほどの憲兵・警察職員を配置して市民の監視に当たらせた。これらのスタッフも進水時間には海岸線を向いて立つことが禁じられた。
▪️大型の春日丸を武蔵に横付けし、船体の一部を遮蔽。
▪️外国人家庭には家族調査と称する偽装の調査を行い、進水時間にはできるだけ調査を長引かせて時間稼ぎし、家の中に釘付けした。
▪️湾内外の船舶は全て湾外に出し、運行禁止した。
結果的には浸水式は滞りなく進行、ゆっくりと海面に浮かんだ武蔵は対岸に衝突することなく計画地点に停止した。と同時に湾内の海面が満潮と武蔵の体積の影響によって約50cm上昇、進水による衝撃波は1.2mの高波となって対岸に押し寄せた。海岸付近の住宅は突然床下、床上浸水となった。飛び出した住民は憲兵によって家の中に押し戻され、恐怖の中で震えていた、という。高波は渓流されていた小舟を覆した。
進水は全く完璧なものと評価された。その後1年余をかけて戦艦として艤装がおこなわれ昭和17年3月30竣工した。
これだけの巨艦のあらゆる箇所を詳細に設計したことも、そのまま建造して、大きな変更を加えることなく、昭和15年秋に、2年8ヶ月という短期間で進水にまで完成させたのも驚きである。
かくして武蔵は浸水の運びとなった。
大和は呉のドックで建造されたから、ドックに海水を満たす方法で進水させることが出来た。長崎造船所ではこの方法は取れず船台に載せた武蔵を滑らせて浸水させる方法となった。その際、進水の機会は満潮に達する11月1日朝9時が選ばれた。この進水作業は武蔵の重量から見て、一度失敗に終われば再度試みるのは不可能と考えられていた。また、船台から無事滑り降りたとしても、狭い湾の対岸に激突し破壊される可能性があった。これらについての詳細な対策がとられた。
吉村氏は進水式周辺の対応についても詳細に調査している。その表現の緻密さには驚くばかりである。また、進水式自体も極秘に行われたが、その隠蔽方法についても詳細である。
船体自体はシュロのすだれの中で極秘裏に建造されたが、進水後約1年は艤装工程のために長崎港の中央部にむき出しになる。これほどの巨体を隠すのにどうやったのか。
▪️進水式は簡素に行った。天皇ご名代軍令部総長官他の来賓はまとまって長崎入りするのではなく三々五々。平服で参加、数も大幅に限定した。
▪️進水日を察知されないために進水日の2週間前から徹夜作業を日常的に行った。
▪️特別徽章無き作業員は船体に一切近づけず。
▪️領事館前に急遽目隠し倉庫を建設。
▪️海軍・憲兵隊・警察署合同の防空訓練と称し、ダミーの演習を行った。この間、市民の外出を一切禁止。海岸付近の住宅は家族を全員を家の中に閉じ込め、雨戸を閉めさせ、窓にはカーテン。各個に憲兵隊を配備。
▪️海岸線・丘陵地一帯に1800名ほどの憲兵・警察職員を配置して市民の監視に当たらせた。これらのスタッフも進水時間には海岸線を向いて立つことが禁じられた。
▪️大型の春日丸を武蔵に横付けし、船体の一部を遮蔽。
▪️外国人家庭には家族調査と称する偽装の調査を行い、進水時間にはできるだけ調査を長引かせて時間稼ぎし、家の中に釘付けした。
▪️湾内外の船舶は全て湾外に出し、運行禁止した。
結果的には浸水式は滞りなく進行、ゆっくりと海面に浮かんだ武蔵は対岸に衝突することなく計画地点に停止した。と同時に湾内の海面が満潮と武蔵の体積の影響によって約50cm上昇、進水による衝撃波は1.2mの高波となって対岸に押し寄せた。海岸付近の住宅は突然床下、床上浸水となった。飛び出した住民は憲兵によって家の中に押し戻され、恐怖の中で震えていた、という。高波は渓流されていた小舟を覆した。
進水は全く完璧なものと評価された。その後1年余をかけて戦艦として艤装がおこなわれ昭和17年3月30竣工した。