福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

医療事故、医事紛争は何故減らないか?(11)科学至上の考え方がもたらした期待と誤解

2011年03月31日 18時57分07秒 | 医療、医学
 蓮如上人の「白骨の章」の一節、『されば、未だ万歳人身を受けたりと言うことを聞かず。されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。・・・』は私の好きな文章の一つである。 上人の時代に、「朝の紅顔、夕の白骨」はあまりにも時間経過が早すぎる。火災で焼け死ぬ以外には無かろうが、人が火災で白骨になる事はあるまい。
 私は講演などでこの言葉からスタートする事が多いが、その際には「朝の紅顔、夕の屍」、と置き換えている。命のはかなさを示すこれ程の良い言葉はない。今回の東北沿岸部を襲った未曾有の津波による犠牲者の方々は水に呑まれる数分前までは紅顔であっただろう事を考えると言葉が出ない。

  医療が救命・延命を至上の目的とし、「病気を治すこと」「命を長らえさせること」が大きな目的になったのは、いつ頃からだろうか。私は不勉強にして古いことをまだあまり知らないので何とも言えないが、大きなエポックは第二次世界大戦直後の抗性物質の発見、普及でなかったかと思う。抗生物質の劇的な効果は、従来なら到底助からない様な重症患者が次々と助かるようになり、驚きをもって迎えられた、と思われる。

 もともと医学研究はより科学的であることを志向してきたが、近代科学の方法論を実際に手に入れたのは20世紀の初頭からと思われる。それ以降、医療を語る際に科学とか技術といった言葉を多用するようになり、医学・医療界は科学至上主義へと向かって行った。そして、20世紀後半には、それまでならば死亡したであろう状況にある患者の救命、延命すら可能になってきた。医学研究、医療は共に細分化の一途を辿ったが、この頃から医師は「病気を診て人を診ない」とか「臓器を診て人を診ない」と一般社会から批判を受けるようになった。更に、臓器移植、人工授精、体外受精など等を通じ医科学は生命倫理の領域にまで踏み込むようになった。

 ただ、この動きを通じ、医師だけでなく、医師の姿勢を批判する社会も国民も、医療を病気を「治す」学問、技術としか見ていなかった。進歩、発展、成長は善なのだという、右肩上がりが人に幸せをもたらすと言う価値観と、科学技術への信仰が、人には生老病死があるということすら忘れさせてしまった様である。しかし、人は誰もが老い、そして死ぬ。時には齢若くして病で死ぬ。いかに医科学が発達したといえども、今まで老い死ななかった人は一人もいない。しかも、人の人生はすべてが個別であり、死に向かう姿も個別である。

 この辺の理解は医療関係者であっても一致していない。ましてや、医療関係者と患者家族の間には大きな溝がある。患者側の医療にかける期待は往々にして大きく膨らみ現実からかけ離れつつある。この乖離が、医療事故、医事紛争に発展する素地となる。
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医療事故、医事紛争は何故減らないか?(10)安心・期待・納得は情緒的言葉だが、規範とみなされつつある

2011年03月30日 18時05分03秒 | 医療、医学
 最近も患者や家族野方からの苦情や投書が多い。小泉首相の骨太の方針の後顕著に進んだ医療崩壊でマスコミの医療不信報道もやっと沈静化して来たので、苦情の方にも何らかの影響があるのかと思っているが、なかなかどうして軽減してこないし、内容は相変わらず鮮烈である。

 投書や苦情の中では「安心出来ませんでした」「期待と異なった結果になりました」「納得いきません」と言った言葉が使われる傾向にある。この様な言葉が意味するところは、気持ちは分かるもののあまりにも主観的・情緒的であり、私共医療者側としては相手方の言いたいことの真意が理解出来ず対応に困窮する。少なくとも苦情としてあるいは責任追及としての意向であるならばもう少し客観的な内容であって欲しいと思う。そうは言えども、「火のないところに煙は立たない」と言われる如く、患者・家族が実際に感じ取った事実、その時の感情に起因しているだろう、と思うと、そう無碍には扱えない。ただ一方、医療の現場ではいろいろな方がおられるから、往々にして「火のないところにも煙は立つ」が実際である。

 それに、私共の病院の「基本方針」にも一つの項目として「納得と安心、安全な医療の提供」とうたっているから「安心」「納得」は主観だと言いたい私の気持ちはやや迷いが生じてしまう。「安心」「期待」「納得」は意味する所は用いる人によっては際限がなく大きく深い。医療の中で使われる「安心」「期待」「納得」と言う言葉には理想が含まれるのだ、と言う意味で考えれば、医療の理想郷であり、医療者側と患者家族の共通の到達目標点である。ただ、実際の医療には明らかな限界があり、医療者側と患者側の感じ方には大きな乖離がある。ここから問題が生じてくる。

 にもかかわず、最近の裁判の判例とかを見ていれば患者の心情の満足度に一つの規範が置かれ、「期待権」などとして用いられている。このことは裁判や第三者的な意見が患者よりにあると言うことであり医療者側にしてみればかなり辛いものがある。医療の持つ不確実性、現在の医療レベルに即した期待であれば理解できるが、患者家族側の感情を大きく含んだ期待に関しては客観性という意味からも分けて考えるべきである。

 この様な考え方、思考の整理をすれば「期待に反した」とか「納得がいかない」という言葉に惑わされることは少なくなるだろう。
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書籍・本・文献の電子化(3)10年間ほど、殆ど開くことがなかった「音楽の友」を読み返す

2011年03月29日 17時23分36秒 | 近況・報告
 私が書店から定期購読している雑誌は「日本医事新報」「音楽の友」「文藝春秋」「MacFun」の4誌である。「音楽の友」は昭和48年秋田に来て直ぐとり始めた。だから間もなく40年にならんとしている。私の中では「日本医事新報」に次ぐ長さである。

 ただ、定期購読はしていたもののここ約10年は「音楽の友」が届いてから殆ど開いたことはなく、多くは付録の演奏会スケジュールの小冊子が挟まれたまま書棚に鎮座していた。また、同時に音楽そのものを楽しむ時間が極端に少なくなっていた。やはり、余裕のないスケジュールで過ごしていたからである。

 そんな中、年に1-2度書棚を整理し、新しい方から5年間分を残して旧い順に廃棄して来た。その際に特集によってはパラパラとめくるのだが、一旦見始めると未練がでて廃棄できなくなるので大部分は見もしないで廃棄した。
 それが、先月から、雑誌も含め書籍のPDF化を始めたので若干様相が変わった。残してあった「音楽の友」を旧い順に自分の興味の分野だけ切り取り、ザッと目を通した後スキャナーで取り込みハードディスクに収めている。実際まだ2年間分しか処理していないが、これだけでも本棚にかなり空間が生じた。私自身も持ち物も、大幅にスリム化が必要である。

 「音楽の友」は旬の演奏会とかの予定、演奏会評、アーティスト紹介、インタビュー記事などが主であって数年経過した段階で身を入れて読むべき、あるいは保存しておきたい特集記事はそう多くはない。だから、その作業の大部分は本をバラス作業で、1冊のうちで取り込むのは1-2割程度である。改めて検索でいつでも取り出せる音楽関係のライブラリーが出来上がりつつあり、若干豊かな気持ちを味わっている。もう少し時間が取れるようになったらメインのセットにスイッチを入れて種々の曲を楽しみたいものだと考えている。

 殆ど捨ててしまったが、作業の過程でかつて旬であった話題部分を見なおすのも楽しい。この5年間の間に音楽界も新旧交代が進み、私が親しんだ年代の多くのアーティストが亡くなっていた。寂しい限りであるが、この移ろいこそに価値があるのだ、と思える年代になった、と自ら自覚した。
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KAMPO MEDICAL SYMPOSIUM2011(2)若手医師と漢方、熟年医師と漢方

2011年03月28日 05時17分12秒 | 近況・報告
 漢方に不案内な私がこの会に出席しようと思ったのは研修病院の長としての立場で医学教育に無関連でいられないからである。日常的にこの様な演題を聴く機会はそれほど無いから意義は大きい。特に今回は卒前卒後の教育の中における漢方の位置づけが内容であるので特に興味を覚えた。

 大学でも臨床で、研究で、教育で、研修で広く漢方が取り入れられており、薬理学的なエビデンスも徐々に学術的に証明されつつある。しかし、他の学会は若手研究者が中心であるが、この会の出席者は熟年の医師、医育機関の長である。私が属する血液関連の学会に比較すると出席者の年齢は平均して10数歳は年長の方々と思われる。

 医師にもライフサイクルがあり、分析、細分化、実験的エビデンス尾重視する医療の問題点に気付き、その考え方だけでは患者を十二分に治療し得ないことを実感するまでにはかなりの経験を擁するように思われる。そこに日本の医学のあり方の問題点があると指摘するのは簡単であるが、これが現実の姿でもある。今回、若い医師の教育の中にどれだけ漢方を取り入れることが出来るのか興味を持ったが、現実的に教育、研修の現場では苦労していることがよく理解出来た。
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KAMPO MEDICAL SYMPOSIUM2011(1) 卒前卒後の漢方教育のあり方は?

2011年03月28日 04時54分05秒 | 医療、医学
 2月5日KAMPO MEDICAL SYMPOSIUM 2011 「大学卒前教育から初期研修までの一貫性のある漢方医学教育を目指して」を聴講した。


 昨年のこの会に初めて出席して感銘を受けた事で若干変わりつつあると言え、私にとって漢方はあくまでも補助的な使用のレベルでしかない。ただ、その後はツムラKKの学術的リーフレットをしっかり読むようになっている。


 今年もこの会に出席した理由は、漢方薬への興味と言うより話題の中心が医学教育システムについて論じられるからである。

 最初に、ツムラの代表社長が挨拶に立ち、ほぼ全ての大学病院で漢方の授業、漢方外来を開設していること、その上で、目標は医師国家試験に漢方が取りあげられること、漢方の国際化であると述べられた。


 シンポジウムは、■2001年「医学教育モデル・コア・カリキュラム」から10年■北海道大学における漢方医学卒然教育の方向性ー位置づけと学生サークルー■漢方医学教育教材の共有化を目指してー南九州5大学間ネットワークの試み■研修医への地域連携型漢方教育の導入■地域連携型研修医への漢方教育の導入ー広島県内の臨床研修病院の取り組みー■日本医科大学での「卒前から初期研修」までの東洋医学教育の現況と展望。
 特別講演は滋賀医科大学学長■「卒前卒後の医学教育のあり方」。

 「医学教育モデル・コア・カリキュラム」の目的と成り立ちの概要を知った。基本教育内容の標準化が第一であるが、薬物治療の基本として「漢方薬を概説できる」が取り上げられた。何で漢方が特に取り上げられたのかと思っていたが、細分化した近代医学の欠陥を補うのに東洋医学の考え方が寄与するという位置づけであった。漢方医学の思考過程の重要性が認識されたと考えれば理解出来たし重要なことと思った。

 それを受けて3大学からの報告があったが、北海道、南九州大学の報告は漢方の教育への導入は人材不足のために近隣の大学間で互いに補完し合う必要があるなど問題点が示された。報告は上手くまとめられ形をなしていたが、現場ではまだまだ混迷状態ではないだろうかとの印象で聴いた。日本医科大学の取り組みは一朝の進歩が感じられたが、その背景にはコ・オーディネーターとして一人の教授の存在が大きいとの印象であった。大学の教育の中における漢方はコアになる人材が居るか否かに負っていると言えよう。

 臨床研修病院から2題報告があったが、いずれも十分うまくいっているとの印象はなかった。指導スタッフ不足があるほかに研修医の漢方に対する関心度が希薄であることが挙げられよう。研修医のアンケートではそれなりの関心度があることが示されているが、調査自体にかなりバイアスがかかっているように思われた。
 現実問題としては臨床研修病院はほとんど急性期病院である。この中においての漢方医療の対象は慢性疾患を有する患者であることから、相容れない面もある。この辺のバランスを如何に取るかが必要であるが、病診連携、クリニカルパスが解決方法の一つであろう。
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