福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

マイペースで(18)1年経過 マイペースも板に付いてきた

2012年05月31日 12時00分11秒 | 近況・報告
 退職して本日で丸一年経った。
 従来にない生活様式を求めていろいろなことを試みてきたが、大体形が出来てきた様に思える。その中で最も大きな変化は、夢にまで見た活字漬けの生活を十分に楽しんでいると言うことで、時間を惜しんで本や文献を読んでいる。

 一日の過ごし方を見ると、睡眠時間は平均1時間ほど延びたが、就寝時間が早くなり、起床時間も早くなってきた。0時半頃から1時半にかけて起き出している。日中に勤務があるので出勤準備に入る6時頃までのこの時間帯は私にとっての極楽の時間である。

 月から金曜までは8時間の業務がある。この時間帯は外来診療を中心に集中して仕事をこなしている。時間と共に徐々に入院患者が減少してきた。外来で診ている患者以外の入院患者を受けもつことは殆どなくなった。更に、大学病院から血液の専門家が外来に診療応援に来るようになり、血液疾患の患者の診療からも解放されつつある。
 8時間で処理しきれない業務は翌日朝に回し、とにかく病院を出て自分の時間を確保する。この夕方から寝るまでの時間と、週末の二日間は素晴らしい時間である。

 人間の歴史、宗教,芸術の勉強にあてるほか、いろいろな展示会や講演会、演奏会に立ち寄り、週に一本は映画を見る。自転車で運動も兼ねている。とにかく時間が勿体なくて無為には過ごせない。

 更に生活パターンが替わりそうである。これまでの安穏とした生活は今日までとなる。
 40年近く我が家の家事を広く引き受けてくれた賄いの石井さんが高齢のために引退することになった。だから、これからは今までのごとくにはいかなくなる。来月から、掃除洗濯、簡単な料理なども担わなければならなくなる。みんな年を取る。来るべき日が来たと言うこと。だから、もう心の準備が出来ているし、何となく面白そうにも思える。
 いろいろあったが、良い一年であった。明日からの2年目を楽しみに過ごしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災(38)東電福島原発事故国会事故調査委員会(2)全員避難??

2012年05月30日 10時59分42秒 | 時事問題 社会問題
 国会事故調査委員会の調査において、絶対に無視できない重要な焦点の一つが、東電に「全面撤退」の意志があったか否かであり、撤退の意志の有無を政権にどう伝えたのか、である。

 東電会長は、当時の社長が海江田経産相に、「直接作業に関係ない人員の退避を検討したい」と伝えたものの、全面撤退は考えていないなかった、と主張している。一方、この電話を受けた海江田元経産相は「全員退避と認識した」と説明している。菅前首相は経産相から報告と相談があった、ということだから同じように解釈したのは当然である。

 この問題が重要なのは、東電の経営陣が原発事故をどのように考えていたか問われるからである。全員撤退するということは、コントロールを失いつつある原発を放擲することであり、場合によっては関東以北を廃墟にしてしまうことを意味するからである。全員撤退の選択肢を微少なりとも持っていたとするなら、東電の全国民に対する裏切り行為である。一方、不明瞭な情報のもと、政権側の思い込みだったとすれば、必要以上に東電を悪者にしていることになる。

 不思議なのは、こんな重大なことでありながら、言った言わないの論争になっている事である。海江田氏は「全員撤退と解釈した・・」と言っているが、再確認も復唱することもせずに電話を切ったのか?と思う。また、政府の中枢を担っている関係者の電話に録音機能もないのか??と思う。電話で直接対話したもう一人の枝野氏も全員退去と受け取ったと言うが、同様にこれにも証拠はない。言った言わない論争である。

 さらに、菅前首相が東電に乗り込んで行った演説の録画の音声が消えていたという。わざわざ音性抜きの操作で録画することはあるのだろうか?後に消去したのでは?と疑われるのは当然である。
 政府の原子力災害対策本部で行われた23回に及ぶ会議の議事録が一切作成されていなかったことも信じ難い。廃棄したとは考えたくないが、各会毎の議事録なしで有益な会議を積み重ねることが出来たのだろうか?
 
 上記のことを含めて、情報管理に問題があったことが強調されている。官邸に十分な情報が届かなかったことが明らかになっている。多分そうだったのだろう。ただ、情報が十分だったら彼らはどんな判断をしたのか?その能力はあったのだろうか?

 私は、こんなあやふやなやりとりする様な人たちによって原発が運営されていたのかと思うと驚いてしまう。同時に、こんな締まりがない方々によって国が運営されている事実に戦慄さえ覚えている。

 今の政治の混乱はなるべくしてなっている、と考えざるを得ないが、実に残念なことである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東日本大震災(37)東電福島原発事故国会事故調査委員会(1)あたふた

2012年05月29日 05時40分41秒 | 時事問題 社会問題
 東電力福島第1原発事故の国会事故調査委員会は、28日まで海江田、枝野、菅氏を参考人として招致し、29日には福島県知事から聴取した。

 新聞報道の範囲からしか情報はないが、原発の炉心メルトダウンという未曽有の危機に見舞われた際の官邸の対応状況の説明を受けたとのことで報道はその一部だろう。事故時の関係者の対応の検証のために重要な意見交換である。結果は、今後の危機管理に十分に生かす必要がある。しかしながら、政権中枢と東電の主張が大きく食い違ったままで、真相はまだ尚不透明なままのようである。

 教訓を最大限引き出し共有するために、関係者は隠さず真相を明らかにすべきである。ただ、この際、関係者を個人的に糾弾することであってはならない。
 政治家や裁判官は、われわれ医療関係者と異なり、結果が誤っていても,また、それによって関係者に損害を与えても、個人的に罪に問われることはないらしいので、多分大丈夫だとは思うが。

 海江田、枝野、菅氏の説明を見ていると、重大な決断を政治家が行わなければならない立場であったことは理解できるが、彼らに原発事故に対する危機管理能力、知識があったかはなはだ疑問である。

 彼らは政治家であって、技術者にあらず、科学者にあらず、学識経験者にあらず,である。彼らは国の中枢にいるのであるが、国家的危機管理についての対応の訓練は受けていたのだろうか?疑問である。原発事故を含め、北朝鮮のミサイル問題など、国内外で突発的大事件が生じた際、上手く対応して行くだけの技量が備わっているのであろうか。少なくとも尖閣諸島沖の漁船衝突事件の際の菅政権の対中国への対応を見ていると、行き当たりばったりで,とてもそう思えない。

 今回の原発事故においては、東電の危機管理対応者にどれだけの準備、知識があり、事故のグレードに応じてどのように行動すべきか、定期的訓練やシュミレーションを行っていたのか、政治家達の決断のバックに原発事故の専門家がどれだけ関与していたのか,それが全く見えないのが一番の問題だったと思う。

 東電社長が海江田通産相に電話連絡していたというが、総論的にしか分からない同士が、結論の再確認もせずに話し合ったことが混乱の一因になっている。菅首相が過剰に介入して現場を混乱させたとされているが、責任に応じた最小限の知識さえ不足していたことが因である。

 要するに、日本の中枢は重大な事故に冷静に対応していなかったことがよく分かったが、政治家はプロではない。バックアップ機能が必要である。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶がダメなら記録に(3) データ蓄積の目的は検索と利用にある

2012年05月28日 02時25分08秒 | コラム、エッセイ
 1993年以降蓄積してきた電子データは現在1.5TBほどの容量になった。
 随分巨大になったが、私がいろんな資料のデータ化を進めているのはため込むことにあるのではない。データは日常的に利用しているが、実際に利用するのは入力したデータの1%程度、あるいはそれ以下かも知れない。だから一見無駄な作業のようにも見えるが、キーワードで検索をかけることによりコンピューターは全データを対象に抽出してくれる。少なくとも私の能力の到底及ばないレベルで、確実に要求に応えてくれる。その結果を見る度に1993年以来こつこつと進めてきた地道な作業に対し自ら満足し、評価している。

 データ化のもう一つの目的は、形あるもの、重量があるものからの解放でもある。
 今まで、書籍、書類、木片、録音テープ、レコードなどなど、不要なものなどないのだ、いつか活用できるハズと、いろんなものを集めすぎたと思っている。それらの活用はとても楽しいが、ものはあれど時間がないという状況になった。とにかく身軽になるべき時期を迎えている。そのために御所野にある処理場に何度も持ち込んでいる。
 もう一つ、形がないもの、いろいろなしがらみも捨てつつあって、この一年かけてとても身軽になった。

 参考までに、単位について。
 わが国で用いている単位は10の4乗毎に、国際単位は10の3乗毎に表示が変わるから徐々にずれていく。変だが実害はない。
 漢字の単位は10の4乗毎に「万」、「億」、「兆」と変わり、その上は「京」、「垓」、「𥝱」になる。経済活動や国家予算は億や兆レベルで身近な単位であるが、 それ以上は大きすぎて現実味がなかった。しかし、時々次の単位も使われる時代になった。例えば、東電原発事故で大気中に放出された放射性物質の量は「90京」ベクレルと推計されている。これを「90万テラ」ベクレル、「900ペタ」ベクレルとも表示している。それだけ社会が巨大化、高速化、大規模化していると言うことである。

 国際規格は10の3乗毎に表示が変わる。「キロ」、「メガ」、「ギガ」、「テラ」となり、次は「ペタ」、「エクサ」、「ゼタ」、「ヨタ」となる。かつて原子爆弾の規模の表現に『メガトン爆弾」というのがあった。せいぜいこのレベルであったが、電子データは、かつて用いた一枚1.2MBのフロッピーディスクには120万バイトのデータを保存できた。1GBなら10億バイト、1TBなら1兆バイトとなる。私が1992年以降蓄積してきたデータは「テラ」の量にまでなったが、私がこのレベルまで扱うなどと言うことはかつては考えてもいなかった夢の量である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶がダメなら記録に(2) 記憶装置は座右の友

2012年05月27日 08時15分59秒 | コラム、エッセイ
 私は記覚えることが苦手である。「記憶がダメなら記録」である。紙ベースの資料を徐々に電子化し、蓄積してきた。

 私がパソコンを初めて購入したのは1985年頃だったが、パソコンに記憶媒体はなく、電子データを音声に変換してカセットテープにアナログ録音していた。データ量として何KB(キロバイト)あったかは分からない。実に不安定でデータをパソコンに戻す時にエラーが出てデータを頻回に失った。その後、数年間ワープロを用いた。これには FDが内蔵されており50枚分ほどのデータとなったが、これらはパソコンに移行できず廃棄した。貴重なデータもあったが、残念だった。

 1993年に購入したMacのColour Classicには160MB(メガバイト)の内蔵HDとFD装置が内蔵されていた。HDの容量が小さかったのでデータの蓄積はFDを併用した。パソコンの処理速度も遅く、外からデータを得ることも少なく自分で入力するデータが中心だった。その頃は1.2MB(メガバイト)のフロッピーディスク(FD)一枚を満杯にするのに何ヶ月もかけたものだ。

 それでも枚数が200枚を超え取り扱いが不便になったので、徐々に大きな媒体に替えていった。1.2MBのFDから100-750MBのZipへ換え、更に700MBのCD-RW、1-2GB(ギガバイト)のJazも併用した。当時日本では外付け記憶装置はMOが主流だったと思う。それを用いずに主流でなかったIomega 社のZip、Jazを用いたのはセキュリティがしっかりしていたからである。欠点はメディアが比較的高額で100MBのZipが1600円、1GBのJazが1万円であった。

 2000年以降、パソコンで新聞、文献等のスクラップを作るようになってからデータ量が一気に増えた。
 更に、一昨年秋頃からは本を丸ごと電子化しているからデータ量はうなぎ登りに増えている。まだ書棚に本が詰まっているから今後もどんどん増えるだろう。ちなみに、標準的な厚さの新書一冊が約30MBである。

 2008年に記憶媒体はすべてHDに移行し、Zipを250枚、1GBのJazは15枚廃棄した。
 思えばパソコンと記憶媒体に随分散財した。また時間もかけた。が、自分の乏しい能力を補ってくれる道具として、特に私の記憶からトウに消えてしまった過去の資料へ私を誘ってくれる貴重なガイド役である。

 私にとって、気兼ねの要らない座右の友であるが、機能を発揮しやすいように毎日メインテナンスをしなければならない。しかし、それも楽しい作業である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする