福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

永山則夫著 「無知の涙」(2) 著者の性格が分かる作品

2014年06月30日 05時43分23秒 | 書評
 


永山則夫著「無知の涙」は「ノート1」から「10」まで10章で構成されている。さらに散文調の記述と詩で記述される。

 「ノート1」で、永山則夫は文章を書くことで「自分の世界を確立する積もりだ」と書いている。何か書きたい大きな欲望が湧いてきていると言うことを示唆する記述である。
 読み進めると、「囚人と言えど私は人間である」、「人間失格者が人間であることを忘却したら一体全体どう成るのだ」などなどと人間の権利の要求などが畳み込む様に、頻回に記述されている。普通の環境にいる人以上に社会に向けて問題提起している面がある。獄中生活と言う,自業自得でありながら国家権力で自由を奪われていると言う特殊な環境の中で、国家や社会に対する恨みを連ねた気持ちは、分からない訳ではない。

 「ノート4」になると、自ら犯した犯罪をふり返りながらも、「自分は決して狂っているのではない」、「あまりにも騙されすぎた自分であった」、「このまま沈黙を守ったまま死ぬのだとしたら情けない」、「法廷で怒鳴ってやりたい衝動にかられ、やり切れなくって筆を取る」、などの記述が見られる。 
 永山は自分を客観視しようとする理性と、邪悪なるものへ怒りを覚える人間としての尊厳を兼ね備えている事を言いたかったのだろう。すごい自己顕示欲である。

 いま「ノート5」にさしかかったところであるが、この時点で私は「無知の涙」から一時離れる事とした。

 永山の文章ははっきり言って読み難い。私が知らない様な難解な言葉,言い回しが次々と出てくる。彼は獄中で「資本論」を始めとする各種の書籍、哲学書、罪と罰等の文学書を読破したとされるが、覚えたてと思われる難解な言葉を各所に散りばめていてとても読み難い。参考にした本からの長文の引用も見られる。難解な言葉,意味深い引用文を並べている自分に陶酔しているような感じがしてならない。
 勾留されて初めてまとまった時間を読書に費やし、次々と頭に入って来る知識を吐露したかったのかもしれない。この事からも永山の性格や心理状態がうかがえる。

 永山の「無知の涙」記述からだけでは彼の人生がどんなものだったのか、どんな過程をへて4人も殺害する事件を起こしたのか、その動機は何だったのか・・・を十分読み取る事は出来ない。
 永山を知るには永山以外の人物による評価が必要がある。それで、佐木隆三著「死刑囚永山則夫」と永山の詳細な精神鑑定を行いながら裁判では取り上げられなかった鑑定医・石井義博氏の手記を記録した、堀川 惠子著「封印された鑑定記録」に乗り換えて読んでいる。

 「無知の涙」の存在には驚き、圧倒された。
 私は永山の解読力、文筆力は一般的にいわれているほどは低くなかった、と思う。逮捕後に如何に努力したからと言って僅か2年余で「無知の涙」を上梓し、後に文学賞を受けるに至った作品を書き上げるなど、私の理解を超えた人物である。永山は1990年に死刑が確定、1997年に死刑が執行されたが、この間、毎朝、刑の執行におののきながらも執筆し続けた事も驚異である。彼は本当に「死ぬために書き続けた」と思う。

 刑が執行された時にかなり暴れ、抵抗したとの事である。その事は周囲のものに予告していたとされる。心に思っている何かの,最後の表現だったのではないか。
 それだけに、永山をもっと知りたいと思っている。
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永山則夫著 「無知の涙」(1) 増補新版 河出文庫 1990年初版(2005年14刷)

2014年06月29日 01時50分04秒 | 書評


 いま「無知の涙」を読みかけている。
 著者の永山則夫は1968年に4人を殺害した死刑囚である。永山則夫自身についてもその事件の背景や影響についても、私はおぼろげながら記憶にあるだけで殆ど知らなかった。永山則夫には10册ほどの著作があるが、彼の作品を読んだのも初めてで、内容について、正直驚いた。

 永山は貧しい環境で荒れた生活を送りまともな学校教育を受けていない。1969年に19歳で逮捕されたが、読み書きも困難な状態だった、とされる。しかし、獄中で独学によって識字能力を獲得し、哲学・文学書などを読みあさり、同時に執筆活動を開始した,と言う。

 1971年に手記「無知の涙」を上梓し、その後も多くの作品を発表している。1983年には小説「木橋」で第19回新日本文学賞を受賞、創作活動を通して自己を振り返るという、死刑囚としては稀有な存在であった。

 彼は逮捕後に猛勉強した・・と言われているが、最初の手記「無知の涙」を出版するのに僅か2年余である。文庫本にして500ページもある大作である。獄中で猛勉強して書いた??それは本当だろうが、私は信じられない。

 拘留中、日々の時間は多分豊かにあっただろうが、逮捕された時点から死刑を意識し,自分に先がない,と分かっていた中での向学心,向上心のルーツは何だったのか? 私は旺盛な自己顕示欲だったのではないか?と思った。

 私はかつて徒然日記を何のために書いているのか、と考えた時に、私の学習記録であり、ノートである。そして私は死を迎えるために書いている、と書いたことがある。「死ぬために書く」、なかなか格好いいじゃないか、とちょっと悦に入っていた。
 その後に気づいたのは、かつて、「死ぬために書く」と表現された誰かの言葉があるのを思い出した。誰だったのか、なかなか思い出せずに数日呻吟したが、死刑囚永山則夫でなかったのかと気づいた。

 永山に関す資料の中に永山は逮捕時には読み書きも困難な状態だった、とあった。当たり前に教育を受けて来てもろくな文章をまともに書けないでいる私とはあまりにもかけ離れた人物のようである。
 突然、私は永山に、特にその旺盛な向上心、勉学、創作活動に、興味を持った。

 彼は1979年に死刑判決、1981年無期懲役、1990年に死刑が確定、1997年に死刑が執行されたが、その間も執筆し続けた。

 「無知の涙」を早速購入した。小冊子程度の本か?と思ったが、分厚い文庫本であった。
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都議会のヤジ騒動(3):私どもは恐ろしい時代に生きている

2014年06月28日 08時16分23秒 | 時事問題 社会問題
 今回の都議会のセクハラヤジ問題は、内容的には捨て置けない問題である。

 ヤジ問題は一人歩きして外国メディアからの批判も受け、慰安婦問題にまで飛び火した。安倍首相は女性の社会参加の機会拡充を訴え続けているが、その自民党の一員からヤジが飛び出し、立場を悪化させているなど弁明に負われている。日本の性差別は先進国の中では遅れているのは確かであろうが、国際的な印象を悪くした。いや、諸外国が日本の実態を知ったと言いことだろう。

 ヤジを飛ばした何人かの男性議員は、おそらく何も考えずに「軽い乗り」でヤジを飛ばしたのだと思う。その是非は別にして、それが何千倍、何万倍の反論として返ってきた。 
 ヤジを飛ばされた女性議員にとっても同様であろう。当初はそれほど深刻に考えていなかったと思う。男性議員が名乗り出なかったこともあって女性議員はメディアに頻回に登場し、問題はエスカレートした。議員は一気に祭り上げられ、一種の「ヒロイン」となった。内容は違うがSTAP細胞で一気に注目を浴びた方と似ている。

 ヤジを飛ばした男性議員は、翌日名乗り出れば「いさぎよし」の評価もあり得たし、ここまで問題が大きくならなかったと思うが対応が不味かった。結果的にセクハラ問題を一人で背負いむことになり、すっかり「悪者」扱いとなった。

 「軽い乗り」であっても、この現代はネットを通じて話題が一気に広まる。これは考え様によってはとても恐ろしいことである。ネットを通じて一種の制裁が行われていると言っていい。今回の東京都都議会のセクハラ問題もネットを介して広がり、メディアに飛び火した。

 昨年の今頃、某岩手県議が病院の対応に腹を立て、ネットに「自分と病院のどちらに非があるか?」と投稿した。これが瞬く間に炎上、県議は数週後に死亡した。私は岩手県議に反省すべき点はあったが、それ以上にネット上でのバッシングの激しさ、怖さのに注目した。県議も「軽い乗り」で自分のホームページに記載した。私も読んだが深刻さは殆どなかった。しかし、反響は凄まじかった。県議の非を責める内容であった。県議は数週後死亡されたが自殺とみられている。県議は自分のホームページで積極的に意見を発信してこられた様であるが、その一方で、ネットの恐ろしさについてどれほど認識されていたのだろうか。

 メディアの不適切な取り上げ方によって個人が社会的制裁が加えられる時代でもあるが、ネットを通じて誰でもバッシングを受ける可能性がある。便利な面も勿論あるが、裏を返せば実に恐ろしい時代なのだと思う。

 私もネットを利用しているのでこころしておかねばならないと思う。
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いわゆる「医療否定」の考え方(6)秋田産業保健総合センター メルマガへの投稿文

2014年06月27日 08時02分28秒 | 医療、医学
 最小限の診療以外の対外的活動すべてを断って来たが、本年度は秋田県産業保健総合センターの相談員一つだけ引き受けた。かつてお世話になった先輩のたっての願いで断りきれなかった。センターのメールマガジンに掲載するための小文の原稿依頼があった。事務局からいわゆる医療否定本について・・と言うことで以下の小文を投稿した。
―――――――――――――――――――――――
いわゆる医療否定本について

 あの有名な近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」が日販の昨年暮れの集計で総合2位に入った。近藤氏はがんには「本物」、「がんもどき」があって前者は治療しても効果は殆どなく、後者は治療不要だから双方とも治療の要なし、と言う考え方で、「がん放置療法」を一般の方々向きに提唱している。



 「医者に殺されない47の心得」と言う題名の本は目を引きやすい。私が担当する外来でも約10人ほどからこの本や、近藤氏のかつての著書、近藤氏以外の医師たちによるいわゆる「医療否定」本についての質問を受けている。その際の私の説明は「近藤氏をはじめ、一部の医師達の偏った意見で、関連学会の討論を受けていない。参考にするのはいいが、信じてはいけない・・・」と答えている。近藤氏ら本は、患者の選択をあやまらせる可能性もある「危険な本」と考えている。



 近藤氏の、がんには「本物」と「もどき」があるとの考え方そのものは間違っていないと思う。ただ簡単に白黒を決めることは出来ない。
 それと、治療をしてもしなくとも結果が同じと明快に言えるのだろうか。それこそ一定の先入観で解釈した個人的感覚、と思う。



 がんそのものはかなり多様である。


 悪性度が高い群と低い群の間には広いグレーゾーンがある。診断時に転移を伴っていれば判断に迷うことはないが、転移を伴わない初期の腫瘍の場合には、多面的に検査しても良性腫瘍と悪性腫瘍の区別すら、明快に決めるのは困難である。



 私の診療領域は主に血液疾患であった。もう歳だから血液学会の専門医、指導医は昨年返上した。近藤氏も睾丸のがん、血液領域の悪性疾患は抗がん剤で治る可能性があるので「がん放置療法」の対象外、としている。この区別も納得出来ない。


 血液領域の悪性疾患の代表的なのは白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫等がある。私は診断がついたからと言ってすぐに治療を開始する事はない。年齢を始めとする患者の背景、疾患の性格、考えられる経過、本人の希望などを勘案して他の専門医を紹介する。強い希望があって、私のもとで治療する際にも即抗がん剤だ、放射線だ、手術だなどと進める事はない。一部の患者については病気との共存の方がベターと判断して「放置療法」を選択することもある。



 私は他の領域の固形がんについてコメント出来ないが、近藤氏の考えは受け入れ難く、一般論としての「がんは早期発見・早期治療がベスト」との考えに立っている。

 近藤氏は検診の是非にも言及している。確かに検診の過剰診断を示すデータはあるが、検診で発見された「がん」の治療成果は良好である。検診は問題点はあるものの現時点で検診を全否定することは出来ない。


 「がん」の治療は個別性が大きい。がんの性質、進展度、患者自身の状態も千差万別である。治療をする側の専門性の違いによっても選択肢に違いも生じる。病院ではより広い視点で治療を選択できるようカンファレンスを入念に行っている。
 放置療法により助かる命も肋からないこともありうる。私は放置療法の方が良かったとするのは、一部の患者に当てはまることもあろうが、広く「がん」患者に適応するのは危険だと思う。

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都議会のヤジ騒動(2):ドラマ化またもや メディアは騒ぎ過ぎだよ


2014年06月26日 17時50分09秒 | 時事問題 社会問題
 6月18日、東京都議会の本会議で独身の女性議員が、東京の晩婚晩産を指摘し、妊娠・出産・育児に悩む女性への支援の充実を訴えていた。そこへ、「早く結婚した方がいいんじゃないか」などと数人の男性議員からヤジが飛び、議員がたじろぎ、議場に冷笑が広がった,と言う。



 ヤジそのものもは「セクハラ発言」であり、「いじめ」に繋がる悪意に満ちたもの。さらに「都議会の場」で発せられたことも併せ、許し難い内容である。私もその判断に異議はない。しかし騒ぎ過ぎである。

 野次を飛ばした自民党の某議員は5日後に名乗り出た。某議員はそれまではメディアに「関与を否定」し、そればかりか「ヤジを飛ばした議員は辞職すべきでしょう」などと発言していただけに実に見苦しい。某議員は名乗り出た後、女性議員に陳謝し、責任を取って自民党会派を離脱したが「議員は辞職しない」と二枚舌である。

 こんなことも関与してか、メディアはまたまた騒ぎ過ぎである。
 今年はメディアが作り上げたドキュメントが、騒ぎ過ぎの話題が、多い。「佐村河内問題」、「STAP細胞問題」、「美味しんぼ問題」、「金目発言問題」・・・然りである。今回の都議会ヤジ問題はこれと同等である。

 この問題を担当したメディア関係者は全員女性なのか??と思わせる内容である。しかしそんなことはないだろう。

 今回のヤジに関する画像を見たが、質問した独身の女性議員はヤジを受けたとき、若干たじろいた様に見えたが、質問を続けている。私はこの画像を見て、質問した某女性議員にとっても、ヤジを飛ばした某議員にとっても、その後の経過は考えもしなかったほどの大きく、めまぐるしい展開になってしまった、と思う。最も困惑しているのは当のお二人だと思う。メディアによって報道がエスカレートし、二人ともモルモット化されてしまった。

 感想をちょっと。
■質問者は、それほどのショックを受けたのなら、なぜ質問を中断し、議長に対して意義を申しでてヤジに対して抗議しなかったのか?質問終了後でも良かった。それがベストの対応であった。
■質問者は、議会内の規律委員会または倫理委員会などにヤジに対する抗議と善処を申し出なかったのか?? そんな組織があるか否か私には分からないが、そんな機構があればそれを利用するのがベターであった。
■質問者は、当日自身のツイッターで「心ないヤジの連続」と投稿した。おそらく時間の経過とともに自身の中で憤りが増幅したのであろう。その日のうちに2万回もの転載があったと言う。上記の過程を経てからの投稿の方が良かった、と私は思った。

 その後のメディアの取り上げ方は凄まじかった。ヤジを飛ばした議員が名乗り出る前は犯人探しの論調、メディアによっては「犯人」と記載していた。これは、犯罪なのか??疑問である。
 名乗り出た後は彼一人の問題として矮小化した論調になり、「非常識」、「辞職せよ」などと非難の声が続いている。

 これは日本社会の後進性が表に出たのであって、ヤジ議員個人の問題ではない。だいたい、関与したメディア関係者は自分を顧みて恥じるところはないのか? 私は、ヤジ議員の言動を自分自身に投影して「近似性」を感じてしまう。私は少子化については関心が高く、講演や講話を通じて若い方々にはもっと子供を産んで欲しいと述べてきた。
 まさか、まともでないのはヤジ議員と私だけであろうか。
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