福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

四季2020(18) 家庭菜園・園芸(11) 本年最後一本となった遅咲きダリアが美しい

2020年11月30日 18時02分59秒 | コラム、エッセイ
 我が家のダリアは連日30°Cを超えた盛夏には直射日光、強い西日のもとで葉も花弁も元気がなくなり変色していた。

 10月に入り徐々に涼しくなり、開花する花は最盛期を迎えとても元気で綺麗になった。ダリアの観察は陽が昇る頃の朝がとてもいい。圧倒的な花の数、その汚れのない美しさを毎朝味わっている。
 
 (左:南雪原、右:ナマハゲとかまくら)

 秋田には全国有数の国際ダリア園のがあるが、そこの営業は10月いっぱいで終了した。この頃になるとダリアの花勢は急速に落ち始めるからである。私も国際ダリア園の動向を参考に作業している。
 11/14(土)にまだ花開いている2本を除き球根をすべて掘り起こし、洗浄乾燥の過程に入った。支柱なども整理したが今年はダリアが見事だっただけに我が家の庭はとても寂しくなった。

 昨今、雪がちらほら舞っているが、残った2本のうち1本はまだ健気に花をさかせている。その姿を見るとまだ球根を掘り出すには忍びない。まだ地面が凍結することはないだろう。健気に咲き続けようとする労をねぎらうと共に、私ももう少し愛でていきたい、と思う。
 
(雪がちらほら舞う中で健気に咲き続ける一本。未確認であるが、県農業試験場産のナマハゲと考えられる)
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不覚にも丸2年間、給与明細書みたことがなかった

2020年11月29日 16時00分53秒 | 近況・報告
 私が嘱託として勤務する法人では2019年1月から各種の事務手続きがペーパーレスとなった。
 身分が嘱託となってからは法人、中通総合病院の動きには関心が無くなっていた。各種書類の手続き方法が変わったことも、そういう予告があったような気がしたが、あまり意識せず放置しておいた。時折回ってくる書類はパソコンを用いない小数人のために残されているペーパー手続きに参加していたから具体的な不便はなかった。

 例外的に、私にとっての大事件は2019年12月、約1年前の電子カルテの更新で、これは知らんフリすることもできず、事前の勉強会にも出席して何とか対応できるようにした。新システムは高機能なのだろう、実に複雑であった。しかも、週1回のみの外来だから習熟するのに苦労した。毎週火曜日の外来日には、壁に当たるたびにクラークを呼び教えてもらったが、時間がかかり、飯川病院の午後の業務にも間に合わないこともあった。約1年経過してかなり操作には慣れたが、今でも操作に困惑することが少なくない。

 給与明細書もペーパーレス化していたらしい。
 あらかじめ通達があったが、手続きするのをすっかり失念していた。だから、私にはこの2年間一度も給与明細書が届いておらず見ていなかった事になる。それに気づいたの1週間ほど前のことである。実に抜けていた。早速教えてもらった。

 私にとっては、給与明細書を見る必要はそれほどなかったのも確かである。
 給与にそれほど関心を持たなかったのは、給与は銀行振込で、毎月入金はあるらしいが、通帳、キャッシュカードは家内に召し上げられており、要求しなければ見ることができなかったからである。今も残高がどれだけあるか知らない。
 
 給与についての思い出は、
 ■最初の赴任先の宮古病院では外来婦長が私の給与を全て預かってくれ、必要な時には婦長から適宜もらっていた。2年間奉職したが、退職時には驚くほどの額になっていた。
 ■岩手県医療局の職員から秋田大学に移った際、後者では日雇い医師扱いだったから給与は1割程度と驚くほど少なかった。初めていただいた袋をチラッとみてあまりの少なさに驚き、現金が入った給与袋を一週間以上も机上に放置し、隣の女医さんから注意された。
 ■大学で医局長の時、医局雇の実験助手二人に給与を支払うのを忘れ、激しく抗議されたことがある。その日のうちにローンとかを振り込むことになっており1日たりとも余裕がない、という。慌てて自分の口座から下ろして対応し事なきを得たが、美しい表情が一時般若の形相の如くになったことを今も忘れない。

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本 蓮池 透 著 「奪還 引き裂かれた24年」(2) 新潮文庫 平成18年(2006)

2020年11月28日 03時21分48秒 | 書評
 本書は2003年3月、まだ一日帰国した蓮池氏他の子供たちが北朝鮮に残っている間に書かれた作品。文庫本化は2006年。
 家族会の事務局長であったから、書きたくともかけないことは多々あったと考えられる。

 本の序盤は薫氏が拉致されるまでのこと、ある日突然失踪。何の手がかりもないまま20年が過ぎ、突然帰国してから変化した薫氏の心境について記載してあるが、これは肉親だから書けること。

 この拉致事件が今に至るまで進展していないのは、日本が他国によって主権を侵されたことを自分たちの問題として共有できなかったから、もあると思われる。このような重大事件でも自分に関係しない国民は一般に無関心である。いや、それ以上に家族会の動きが目立つと非難する人も少なくなかった。
 政治家もジャーナリストたち、外交の専門家たちも立場を越えて共有できたら、被害者の方がもっと早く帰国できたのではないかと思う。

 恋人とともに突然いなくなった薫氏。家出なのか誘拐なのかそれとも失踪なのか。拉致などという言葉もまだ一般人にはなじみのない時代。警察も政治家も取り上げてくれなかった。同じように姿を消した人の家族と家族会を結成。今でこそ北朝鮮による拉致を知らない人はないだろうが、「北朝鮮による拉致」と認めてもらうまでの苦悩が語られる。苦しい心情が伝わってくる一冊。

 それでも彼はかなり抑え気味に書いたのだろう。
 拉致問題は5人の帰国、2004年5月22日小泉首相再訪朝、蓮池・地村夫妻の子供たちが日本へ帰国で大きな転機を迎えるかに思われたが、以後の進展は乏しい。透氏は徐々に考え方が先鋭化し、2015年講談社から『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』を出版した。しかし、この著書をめぐって家族会は蓮池透氏の強制退会を決議、事実上除名された。家族会も帰還家族と未帰還家族と立場が異なって一枚板ではなくなった。

 残された家族の悲嘆と絶望、無為無策の政治家・警察・外務省への怒り、感動の帰国をめぐる異常な混乱、そして“洗脳”を解くための論争の日々。四半世紀にわたり最悪の国家犯罪と闘い続けた兄が、その経験を語り尽くした手記と評価できる。
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本 蓮池 透 著 「奪還 引き裂かれた24年」 新潮文庫 平成18年(2006)

2020年11月27日 02時49分46秒 | 書評
 この本は「拉致と決断」の著者で拉致被害者の一人である蓮池薫氏の実兄の蓮池透氏によるもの。兄弟の著作を今回は互いに参照しつつ読んだ。

 著者の蓮池透氏は柏崎市出身。東京理科大学工学部電気工学科卒。東京電力に入社、日本原燃に出向。同社燃料製造部副部長。2006年、東京電力原子燃料サイクル部部長。2009年に退社。

 拉致ということ自体が世間的に知られていなかった時に、家族の方々が苦労して家族会を作った。正式には「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」、通称家族会。氏は家族会の初代事務局長で拉致被害者を帰国させるために尽力した方である。
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 拉致事件、家族会の経過
 1997年3月家族会結成
 1997年5月政府が「10人が北朝鮮に拉致された疑いが濃厚」と発表。以後北朝鮮の拉致問題が表面化。
 2002年9月17日小泉首相が訪朝、金正日総書記と会談。日本人13人を拉致したことを北朝鮮が認め、謝罪。
 2002年10月1日蓮池薫、奥土祐木子、地村保志、浜本富貴恵、曽我ひとみの拉致被害者が帰国。
 2004年5月22日小泉首相再訪朝。蓮池・地村夫妻の子供たちが日本へ帰国。
 以後の進展は乏しい。
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 蓮池透氏の著作には、拉致関連、東京電力原発事故関連で以下の著作がある。
 ■『奪還 - 引き裂かれた二十四年』 2004年、新潮社 
 
 ■『奪還第二章 ―終わらざる闘い―』 2004年、新潮社
 ■『拉致―左右の垣根を超えた闘いへ』 2009年、かもがわ出版
 ■『私が愛した東京電力―福島第一原発の保守管理者として』 2011年
 ■『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』  2015年
 ■『告発 ~日本で原発を再稼働してはいけない三つの理由』 ビジネス社 2018
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 2002年9月、蓮池薫氏の一時帰国が決まった際に、透氏は喜びとともに大きな不安を抱えていた。洗脳されたであろう弟にどのように接していいのか判断がつきかねていた。タラップから薫氏が降りて来た時にあまりの変貌さにショックを受け、薫氏の一挙一動から、やはり薫氏は洗脳されてた、と判断した。

 薫氏は「私どもは北朝鮮から来た国交正常化のための使節団・・」、「朝鮮公民の一人として来日した・・」、「日本は朝鮮にいかに悪いことをしたのか」、「拉致自体は許している・・」、「自分は朝鮮公民として祖国統一のために尽くす・・・」、などの言葉が飛び出した。

 やがて透氏と薫氏は互いの立場を巡って諍いを生じた。しかし、薫氏はなかなか意見を曲げなかった。

 実際に薫氏が心を開いたのは幼馴染の友人と会い、郷里の思い出などを親しく話し合ってから、という。論理、思想のやりとりではなく郷愁が日本人としての薫氏の心を開いたのだ、と透氏は評価している。

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本 蓮池 薫著 「拉致と決断」 新潮文庫 平成27年(2015) (2)

2020年11月26日 16時02分21秒 | 書評
 本書には見るべき項目記述はたくさんある。
 それらについて広く言及することはできないが、特に洗脳教育、食糧難に関する部分の記述は目を離せなかった。

 それは国連決議で物資が入手し難くなっている今でも続いていると考えられる。
 3年ほど前、日本海に木造船が、時には死体を乗せたまま100槽近くも漂着したが、厳寒の中あのような粗末な船で食糧を求めて海に出なければならなかった背景が理解できたような気がする。飽食、食料廃棄の我が国とは次元が違う状態としか言いようがない。
 
 この本の価値の一つは、北朝鮮の人たちの生活の細かな描写である。
 上層部に対して対面を保つことだけに腐心する役人、統制社会の中で生きるために闇市で商売をする農民たち。抗日戦争の英雄視、対米戦争の危機感の煽り、スポーツ振興による高揚感など、あらゆる手段で国民に忠誠心を植え付ける国家像が描かれる。
 国民はそれらをどう受け止めているのか。それについても圧倒的な現実感をもって語られている。

 一方で、この本では敢えて書かなかった、と思わざるを得ない項目も多々ある。まだ北朝鮮に拉致されたままの仲間とその家族への配慮のための自制と考えられる。

 氏は招待所でどのような生活をしていたのか、北朝鮮首脳部とどのような関わりがあったのか、横田めぐみさんと会ったのか、という肝心な点については記載がない。

 氏の記述はあくまでもソフトで表現は冷静である。日本政府に対しても、北朝鮮に対しても不満はあるだろう。抑制の効いた文章から、氏の人となりと、拉致問題の一刻も早い解決への強い配慮が伝わった。

 帰国後、氏は新潟の大学で教鞭を取る傍ら、日本各地で講演を行い、自身の拉致や帰国後のできごとを語っている。

 氏の著作として他にも以下がある。機会があれば読んでみたい。
 ■「蓮池流韓国語入門」文春新書、2008年
 ■『私が見た「韓国歴史ドラマ」の舞台と今』講談社、2009 
 ■『半島へ、ふたたび』新潮社 2009年
 ■『夢うばわれても 拉致と人生』PHP研究所 2011

 氏の兄はかつては「拉致家族の会」の事務局長であった。立場の違いから来たのであろう、帰国時から何かと両氏間には確執があった。それについて蓮池透著「奪還」に詳しい。
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