福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

国体本大会が開幕  開催県が総合首位になるのは実に不思議

2007年09月30日 12時12分08秒 | コラム、エッセイ
 第62回国民体育大会「秋田わか杉国体」が本日29日開幕した。来月9日までの日程である。天候にも恵まれ、良いスタートになったと思われる。

 本県では昭和36年以来の大会となる。36年国体は選手団等への歓待が話題になり後に「まごころ国体」と称された、とのことである。この国体は私が高校一年生の頃で、そのあたりのことは全く分からない。私が秋田に初めて来たのは昭和46年であったから10年も経っていたにもかかわらず未だ国体の名残がまだ方々に見られていた。それだけこの時の国体は経費をかけて準備をし、県全体の道路や諸施設が作られたのであろう。今回は県の厳しい財政事情から新しい施設とかは特別作らずに既存のものを上手く利用した、とのことである。

 この国体期間中、4万超の人が全国から訪れる。秋田全体の活気が増すことであろう。昨日の国体ドクターズミーティングから病院への帰路、秋田キャスルホテルの前で大勢の人だかりがあり,警備の警官も一定間隔に路上に立っていた。天皇皇后の来秋に関連しての警備と、歓迎のために市民が集まっていたのだという。秋田市内でこんな人だかりを見ることは極めて希なことである。若い選手団と思われる若人が市内を闊歩している。天皇に関する話題も方々で聞かれる。秋田が何となく元気を取り戻したように感じられる。

 36年国体では秋田は天皇杯で2位だっただけに、今回はぜひ天皇杯を獲得したいと関係者は頑張っている。事実、天皇杯の獲得も夢ではないレベルに達している、とのことである。
 とはいうものの天皇・皇后杯を大部分開催県が獲得することに私は異常性を感じてしまう。各地で活躍している県出身の選手を裏技で県の選手に登録するなどの手法も用いられているという事を耳にする。その真偽は私には分からないが、40数年ごとに日本一あるいは近似の成績を上げるという事の裏には、地道な選手強化以外の何かがなければならないだろう。

 どちらにせよ、秋田に活気がよみがえることは良いことだ。国体を切っ掛けに県力が上向いて欲しいものだ。
 気がかりなのはこの間の救急患者対応である。秋田市内の救急医療はほぼ良好に運営されているので問題は生じないとは思っているが、思いがけないことも起こりうる。不用意な投薬はドーピングに引っかかる。先日は当院救急外来に某大臣が受診した。つつがなく診療を終えてお帰りになった、と報告を受けてホッとした。

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「目があれど見えず、耳があれど聞こえず・・」(2)聴き、改めて無学を知る

2007年09月29日 07時13分32秒 | 医療、医学
 本日夜は「医療安全」全職員学習会であった。看護師、コメディカルを中心に会場がほぼ一杯になった。医療行為の最前線に経つ看護師達の方々の関心が高いのは当然でもある。ぜひ、あらゆる機会を得て学習して欲しいものである。

 中堅以上の世代の医師は何人か出席していたが、残念だったのは最もこの方面の知識や経験が乏しく、「医療安全」に特に関心を持って欲しい研修医を含めた若手世代の医師の参加が少なかった事である。
 若手医師は医療行為において先輩医師の庇護下にあるために自覚が少ないのかも知れない。もし、そうだとすれば始めから聞く耳を持たない、と言うことであり、これは医療関係者にとってはとても危険なことである。ケアレスミスの多くは身近な同僚とか先輩が発するちょっとした注意、ポイントを聞く耳を持たないことから発生している。

 本日の講演で話された内容は、講師の表情を含め、文献では到底学ぶことが出来ない貴重な内容であっただけに、とても残念であった。

 「聞くと言うことは即ち学ぶこと」であり、学ぶにつれて逆に自分が如何に「知らなかった」と言う事実を知る事でもあり、そこから新たに学ぶ動機、切っ掛けを得ることでもある。「知っている」と言う自分独りよがりの思いこみによって聞く機会を失うということは「選択的難聴者」であり「危険を抱えている」と言うことと同義である。

 「百聞は一見にしかず」という言葉があるが、「百聞をせずに、一見することでわかった積もりにする」、とても危険な現代の情報化社会の軽薄さにまず気づく事、自分の無学に気付くことである。
 多くの方々のの考えを聴くことは、一層知識を堅固にし、誤った考え方を矯正していく貴重な機会である。決して自ら五感を捨て去ってはならないのだ。
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「目があれど見えず、耳があれど聞こえず・・」(1) 謙虚に拝聴することの意義

2007年09月28日 07時35分55秒 | コラム、エッセイ
 私は今月初頭から本日にかけて、東北医連総会、全日本民医連院長会議、全国病院学会秋田大会、県医師会創立60周年記念大会の講演会、それに本日の緩和医療学習会も含め20数名ほどの講師の講演を拝聴する機会を得た。

 何れも内容は医学界、医療界に関連することであるから、その演題名から予想される講演内容について、熟知しているものから、わずかに聞きかじった程度であまり興味も湧かないような話題まで広範囲であった。しかし、折角与えられた機会であるので関連の講演会には全部に出席した。

 私の基本的な考えとして「ァ、それについては良く知っている」という先入観を極力持たず、機会があれば出来るだけ話を聴く機会を作っている。

 知っていると言うことは、逆に自分のスタンスがずれていると言う可能性もあることだから、これを出来るだけ矯正する必要がある。このことに気づいてから私はよその方のお話を聞くことに、見聞することに対して随分謙虚になったような気がする。

 知識の矯正、スタンスの矯正は勿論文献からも不可能ではない。だから求めて本を読むわけであるが、この場合はどうしても自分の価値観を基本にした姿勢で対峙することになる。これに対して、講演の場合は演者の視点での話題の展開に身を委ねることであり、自分と違う価値観との対峙である。この時に大きな価値があるのが講師の表情であり、起承転結の話題の設定であり、強調点であり、話術でもあり、用いられる言葉である。これは文献、書物からは絶対に得られない価値である。

 要するに、「知っている」と言う思いこみ、価値判断は「目があれど見えず、耳があれど聞こえず・・」 と言う勿体ないことを五体満足の恵まれた身体を自ら放棄するようなものである。

 多くの講演は一度聴くだけでは勿体ない、反芻したい部分は必ずある。だから、私は録音を録りながら聴く。勿論、不用意に寝てしまったときのバックアップのためでもある。
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「特定健診・特定保健指導」(3)健康観・死生観

2007年09月27日 06時33分14秒 | 医療、医学
 生活習慣病予防のための生活指導は実際には効果は乏しい。職業柄、生活指導は随分熱心に行っているが、大きな成果は期待していない。実際のところほぼ匙を投げている。指導で一番効果的な台詞は「ならば、好きなようにしなさい」である。半ば強迫である。

 最近は業務に準備の隙間を作れないために全てお断りしているが、かつては県内方々の地域住民や企業の依頼で健康に関する講演や講話をしてきた。医師は診察に訪れた患者だけを対象に診断治療をしていてはだめで、疾病予防のための知識啓発は重要だとの視点に立っているからである。

 その際に、私は「健康維持のために、あれも駄目、これも駄目・・」と言う論旨では行わなかった。「一人一人が、自分の行動に責任を持つ事。誘惑の多い現代を健康的に生きるには自制が必要。それが出来ないのであれば、自分は生活習慣病で死ぬのだ、と言う気概を持って自制などせずに堂々と好きなように生き、死ねば良い」と述べてきた。だから、私の演題は「不健康に生きるには」である。

 日本は、恐らく世界的に見て健康維持の面で最も恵まれた国だと思うが、国民の健康不安も世界一だと思う。中年以降の殆どの方は「健康追求病」にかかり、「健康不安神経症」的である。飽食、運動不足で身体は悲鳴を上げているのは確かだが、生活を変えることそっちのけで医療機関を受診し、検査を求め、数値に一喜一憂し、投薬を求める。

 こんな方々は受診前にしなければならないことが多々あるが、一方では医療機関もこのような患者をも診療対象にしなければやっていけないという苦しい事情もあって互いの思惑は一致し、双方で手を取り合って医療経済をダメにしている。私はこのような患者への対応で連日疲弊している。これも地域への貢献の一つさ、と割り切り、空しく笑うしかない。

 総じて言えば、都市部の高齢者は生き生き、コロコロで遊び歩くのも積極的である。「まだ死にたくない」、というが、意外と心血管系の疾患でコロッと死ぬ。一方、田舎の爺ちゃん婆ちゃん方は質素で謙虚、「もう何時死んでも良いです・・」と淡々と言いつつ畑作業を楽しみながら、徐々に枯れて行く。それでてなかなか死なない。

 私に言わせれば、どちらも完成品、良い人生なのだ。「特定健診・特定保健指導」の成果や如何に。
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「特定健診・特定保健指導」(2)国民は生活指導など何処吹く風

2007年09月26日 04時56分27秒 | 医療、医学
 平成20年度からの新しい「特定健診・特定保健指導制度」は制度の意義には見るものがあるが、私は実効性は殆ど無いと思う。今でも外来を通じて、あるいは人間ドックを通じて毎回はげしく生活指導をしているがその効果は殆ど無い。

 高血圧患者は相変わらず高塩分食を摂り、高脂血症、糖尿病患者は相変わらずコロコロとデブである。血糖高値、データ悪化で顔が曇るのはその時の一瞬だけで次の受診時にはそのショックをしっかりと乗り越えて明るい表情で受診する。

 私の生活指導は決して緩くはない。出来れば私が担当している外来から姿を消して欲しいという願望を込めての指導だから厳しい。嫌みをたっぷり含んだ言葉を浴びせかけ、時には机を叩いての指導である。しかし、しっかり次の私の担当日に外来を予約していく。生活指導という意味では、効果があまりにも乏しく、外来で私はむなしく時間を浪費している。これを、他の機構で、看護師や保健師が担ってくれ、しっかり追跡捜査をしてくれるならとても有り難いが、外来患者が減るわけでなく、私にも集団指導、個別指導の当番が割り当てられるならむしろ負担増でしかない。

 ろくに歩きもせず、でっぷり肥ったまま大型の車で帰宅して、エアコンほかエネルギーを多量に消費し、脂肪分豊かな食事をとりながら、消費電力もバカにならない大型TVで「地球温暖化のニュース」や「飢餓関連の特集番組」を見ても、何ら自分の生活を方向転換するわけでもない。しかし、これが当たり前の人の姿である。人は基本的にそれが可能な環境にあれば快楽・怠惰に流れやすい様に出来ている。内緒であるが、私の最も身近な人間もこれに近い。これにしっかり抵抗できる人は根本的にどこかおかしい、どちらかというと変人に一歩近いような印象を持つ。

 確実に生活指導の効果を上げるには、健康診断受診勧奨、生活指導に従わない対象者にペナルティを課すのが一番である。
 一口500円ほど何らかの形で徴収するようにしたら確実に効果が上がるだろう。国が本気でやるのなら、ここまで考えて欲しいものだ。
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