福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

自然の脅威、自然災害(1) 人間が刻む時間覚観と自然の時間は全然異なる

2015年09月30日 14時36分38秒 | 時事問題 社会問題
 人間は科学、文化、文明を発達させた。しかし、自然との共存共栄の謙虚さが乏しくなってかつての危険区域に居住している民衆も完全にその危険を忘れている感がある。大自然の営みは決して人間が積み上げてきた安心の歴史に都合良く合わせてくれない。

 2011年の東日本大震災は常識的には確かに未曾有のレベルだったのだろう。しかし、古い記録には類似の津波もあった。にも拘らず、福島第一原発は50mほどの高台をわざわざ削って低くし海抜20mほどに設置した。主に、経済的な理由だったと言う。それなりに事情はあっただろう。しかし、長い間災害が無かったという人間が刻んだ歴史は関係無かった。しかも、地震・津波が殆ど無い外国の設計による原発を、地震国・津波国の日本にそのまま建設し、最後の砦である非常電源の確保も自然の足跡を無視した場所に設置したことに問題があった。

 2014年8月20日広島市を住宅地を襲った豪雨は大規模な土砂災害をもたらし、死者74名にのぼった。この件は被災者の方々には申し訳ないが、完全に人災であったと思う。豪雨が予想外であったが、地勢学的には前から危険地域とわかっていた。それでも広島市は強い警告を出せず、それを良いことに企業は宅地造成を続けてきた結果である。

 今月、2015年9月11日に関東・東北地方を襲った豪雨は、鬼怒川や渋井川の堤防を決壊させ、茨城・栃木・宮城の3県で8人の命が奪われ、5千人以上が避難するに至った。被災地では月末に至ってもまだ水が引かず、流れてきた土砂や岩石の除去にも難渋しているという。これはもともと小水害を何度も繰り返してきた河川と周辺の低い土地の間に堤防を築くことで安全を確保し、住宅が造成された。ひとたび堤防が決壊すると水が溜まるばかりかその水の排除も困難になる、ということは結果から見ると当然至極である。果たして堤防決壊の可能性は論じられ、対策されてきたのだろうか。

 2011年の東日本大震災はともかく、福島第一原発、広島の土砂災害、今回の鬼怒川の堤防決壊とその後の被害は自然を甘く見てきたというツケがモロに出たものと思う。

 ここで重要なことは、人間が感じる歴史観と自然の歴史のスケールの違いである。人間の場合2-3代前のことは過去のことと捉えてしまうが、大自然にとってはくしゃみ一発レベルの短時間である。宇宙を論じる際には光年という大きなスケールの単位が用いられているが実感がないために受け入れられやすい。地球上の災害を論じる際にも我々の感覚とは異なるスケールを用いなければならないだろう。
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