福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

本 山田詠美著 小説「つみびと」中央公論社 2019 

2020年10月31日 11時28分36秒 | 書評
 本書は虐待ー大阪二児置き去り死事件」からインスピレーションを得て書き上げた小説、フィクションである。
 
 著者の山田詠美氏は1959(昭和34)年生れ。明治大学文学部中退。1985年『ベッドタイムアイズ』で文藝賞。1987年には『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞。1989(平成元)年『風葬の教室』で平林たい子文学賞、1991年『トラッシュ』で女流文学賞、1996年『アニマル・ロジック』で泉鏡花文学賞、2000年『A2Z』で読売文学賞、2005年『風味絶佳』で谷崎潤一郎賞を受賞。現代を代表する人気作家の一人である。

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 本作のモチーフは、2010年の大阪二児置き去り死事件。
 参考文献として 杉山 春著のルポ「虐待」が挙げられている。本書はあくまで、作者目線の創作小説。悲惨な事件の報道では、娘が何故そこまでひどいことをしたのかは理解できなかったが、登場人物が巧みに関連つけら説明されている。双方を読めば事件の理解がしやすくなる。

 育児放棄などの母親たちにまつわる問題だけでなく、DV、性的虐待、子どもの人格否定、マザコン、性を媒介に関与する男たちの罪深さ、が多様に描かれている。

 ストーリーの構成として、■ 子供を放置した娘の母、すなわち祖母 ■ 子供を放置した当該の娘、■ 死亡した幼児、の3者の視点から事件までの経過が語られる。
 祖母と娘は子供時代から「自分は守られていて安心できる。」という感覚を欠く家庭での生活が描かれ、この辺から事件の芽が始まっているように思われる。

 今、フィクションという形で関係者が互いにつながった状態を読み、罪を犯した娘がその奥に何を抱えていたかを少しだけ理解はできたような気する。

 この物語を通じて、セフティーネットがない日本の社会の現実、「公助」がいっそう注目されるべきだが、日本人は他者を思いやる想像力を失い、冷たくなった。
 「自助」が「自己責任」と名前を変えて押し付けられるようになった。

 「真のつみびとは誰なのか」。
 虐待や貧困といった不幸は世代間連鎖する。人は生まれた環境によってスタートラインが各々異なる。
 苦境に陥っても助けを求める声を上げることもできず、ただ逃げまどい、あるいは立ちすくんで何もできない。犠牲になるのは、女性や子供という弱き者たち。

 著者は母親だけに責任があるのではなく、様々な負の連鎖が積み重なって事件が起きたと考える。虐げられて、精神に異常をきたした祖母、粗野な男達に、都合のいい女として利用されてきた母親の心の叫びが、著者の多彩な表現で描かれていく。

 こんな事件が生じた際に「自己責任」と責めることは簡単。しかし、それは何の問題の解決にもならない。 女性たちを責めて追い詰め、重い判決を下しても、何も変わらない。そこまで追い詰めた環境にこそ、そういう日本の社会そのものこそ第一の原因がある。

 このような悲劇を減らすためにはどうすべきなのか、
 筆者はこれまで語りえずにいたあらゆる事柄を言語化して、代弁している。

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本 杉山 春著 ルポ「虐待ー大阪二児置き去り死事件」ちくま新書 2013(2)

2020年10月30日 17時16分04秒 | コラム、エッセイ
 風俗嬢のシングルマザーは男友だちと1力月以上も遊ぴ回り、その間1歳と3歳の子ども放置し、餓死させた、大阪でのネグレクト事件。

 事件1年ほど前に離婚したが、それまでの母親は、布おむつと母乳にこだわり、家事育児がんばっていると夫や義理の母親から高い評価を受け、地域の子育てサロンにも積極的に参加するなど孤立とは無縁の母親だった。

 著者はそれまでの母親像と、虐待死させた母親像の落差を埋めようと、母親がたどつてきた家族関係を中心に調査している。彼女の実母が失踪したり、交友関係に問題があったり、成長段階に問題があった、と類推できる。

 結婚後、彼女やその夫を巻き込んできた家族関係の厳しさ、さらには、ドロップアウトを許さない社会という背景を浮かぴがらせようとしている。
 誰でも同じ状況に陥っていたかもしれない。事件の詳細を知ったシングルマザ−たちの多くはそう思うだろう。本著作の問題提起はそれだけでもこのルポは成功を収めている。
 しかしながら、家庭環境に恵まれた人はなかなかこの母親の行為を受け入れないだろう。

 このルポと事件が私たちに投げかけたさらなる重要な視点は、風俗産業と貧困問題の性を介した深い結びつきである。
 市場規模が数兆円とされる風俗産業は、今や若いシングルマザーたちにとって収入を得て生活を維持するための職の重要な供給源となっている。
 ひとり親の貧困率はこの30年間ずっと50%を超えている。そんな中で、シングルマザーたちが良い母親でいようと弱音を吐かず働く。
 しかし その踏ん張りは時にもろい。だれで状況によっては崩れてしまう。
 さらに問題なのは、彼女たちのもとで、何十万もの子どもたちが危機にさらされていることだ。
 そんな現実に、誰も気づこうとしない。これこそ社会全体のネグレクトである。シングルマザー対応は喫緊の課題である。

 ネグレクトされ、餓死させられた子どもたちを取り巻く大人たちも同様におかしかった。
 離婚の際などに離婚後の母子の将来を采配してやる責任感がある大人がいなかった。慰謝料、養育費も話題になっていない。母親も父親も祖父母も誰も育てることができないと討論しながらも、現実に誰も向き合わない。子供たちが施設で暮らすことをアドバイスする者が誰もいない。不思議な、無責任な人たちの集まりである。

 その中で彼女はこれら家族たちには頼らない、との決心を持って生きていた。だがそのの決心は折れた。一方で、公的援助などに対する知識はあまりにも乏しかった。

 ■ 他者からの支援や援助をうまく受け止めること。
 ■ 困ったときに他者に自分から困っていることを発信すること。

 現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして女性の貧困を間う渾身の書である。

 作家の山田詠美氏のがこの事件からインスピレーションを得て小説「つみびと」を上梓している。
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本 杉山 春著 ルポ「虐待ー大阪二児置き去り死事件」ちくま新書 2013(1)

2020年10月29日 07時22分28秒 | 書評
 私は社会を震撼させた事件の追跡調査書が好きだ。私は事件ごとに、社会の歪みに対して「何かが発信」されている、と考えている。事件を個人の問題として片付けると同様の事件がまた起こる。
 ある事件が生じた際、時間と共に報道されなくなる。調べても当時の資料が十分の入手できるとは限らない。その点、本書のような資料があればとても参考になる。ただし、読むにあたっては一人の著者の視点からの一つの解釈であることは忘れていない。


 著者の杉山 春氏は、1958年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。雑誌編集者を経て、フリーのライターに。これまで、子育てや親子問題、あるいは子殺しなどをテーマに取材・執筆をしてきた。
 著書に、本書のほか以下のものがある。
 ■『ネグレクト 真奈ちゃんはなぜ死んだか』 小学館文庫
 ■『自死は、向き合える 遺族を支える、社会で防ぐ』 岩波ブックレット
 ■『家族幻想 「ひきこもり」から問う』 ちくま新書
 ■『児童虐待から考える 社会は家族に何を強いてきたか』   朝日新書

 私は差別、DV、児童虐待、いじめ、女性の貧困などに興味がある。文献を通じて勉強中である。氏の作品は3冊所持している。読むごとに現実の厳しさを思い知らされる。

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 2010年夏、3歳女児、1.9歳男児の死体が大阪市内もワンルームマンションで見つかった。子どもたちは猛暑の中、エアコンもない部屋で、堆積したしたゴミの中で服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。子どもの体は腐敗し、一部白骨化していた。

 母親は離婚後二人を連れて大阪に。風俗店に勤務していたが、子どもに最小限の水と菓子袋を与えただけで放置し、客と遊び回り、その状況をSNSで元家族、友人たちに発信していた。母親は数日間子供の元に帰らなかったのはザラであった。調理道具は一切なく、コンビニやスーパーでの出来合いの食品のみを与えていた、という。母親が最後に部屋を出たのは遺体が発見される50日前だったという。事件が発覚するまで子供相談センターは十分関与できなかった。事件後センターには1000件ほどの抗議があったという。

 裁判で母親に殺意を認め懲役30年の刑が下った。この種の犯罪としても異様に厳しい判決である。

 なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかつたのか、それは母親一人の罪なのか?? この点を明らかにするために著者は事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから原因を分析している。

 誰かがこの子どもたちに、母親に手を差し伸べるべきだったのだ。
 母親を厳罰に処す事が問題の対策になるとはとても思えない。
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本 正高信雄著 「0歳児が言葉を獲得するとき」 中公新書 1990

2020年10月28日 04時51分04秒 | 書評
 かつて「子どもの心理」について興味を持って文献で学んでいた時に、新生児の言葉の獲得に関する項目で参考にした書である。ちょっと古いが、同類の新しい文献が見つからないので再読してみた。
 

 著者の正高信雄氏は1976年大阪大学人間科学部行動学卒業、現在京都大学霊長類研究所教授。ヒトを含めた霊長類のコミュニケーションが研究分野。

 同氏の著書に以下のものがある。このうち何冊かは所持している。
 ■『ヒトはなぜ子育てに悩むのか』講談社現代新書
 ■『いじめを許す心理』岩波書店
 ■『ケータイを持ったサル 「人間らしさ」の崩壊』中公新書 
 ■『考えないヒト ケータイ依存で退化した日本人』中公新書 
 ■『ヒトはなぜヒトをいじめるのか いじめの起源と芽生え』講談社・ブルーバックス
 ■『ウェブ人間退化論 「社会のIT化」は「サル化」への道!?』PHP研究所
 ■『ゲームキャラしか愛せない脳』PHP新書 
 ■『コミュニケーション障害 動物性を失った人類』講談社・ブルーバックス 
 ■ そのほか・・・・多数。
 
 私は虐待、いじめ、ヒトのコミュニケーション関連の心理に興味がある。一方、今でもゲームやネット、TVなどの映像による娯楽は受け入れることはできない。コミュニケーションツールとしてのSNS、Twitter、フェイスブックの意義もあまりわからない。このあたり、私の考え方に近いように思え、興味を感じている。

 本書は、筆者がご自身の研究テーマとして行ってきた、赤ちゃんが言葉を獲得するまでの行動の研究、さらには霊長類のコミュニケーションに関する研究結果を、解説したものである。本書で扱っている「赤ちゃん」とは、喃語期に入るまでを対象としている。この間に生じる、喉頭部の形態の変化、クーイング、模倣などについて、実験成果に基づいて、論理的に解説している。

 子どもは、生後2け月頃から声を上げてコミュニケーションを図ろうとする。満1歳頃から大人が意味を理解できる言葉を発する。その後、言葉によるコミュニケーション能力を急速に発展させ、親を喜ばせるが、実際には生後間も無くから授乳を通じて母親とコミュニケーションを始めている。これは驚きであった。
 社会的動物をしてのコミュニケえーション能力がこれほど早くから備わっている生物はいない、と著者は実験結果をもとに提示する。

 新生児は視力が発達していない。意外と見えていない。視力が大人並みになるのは幼稚園期とされる。そのため、聴力を使って親とコミュニケーションをとる。
 赤ちゃんがどのようにしてことばを獲得していくのか。生まれてすぐ,お母さんから授乳してもらうときに既にことばの獲得への準備は始まっている、と著者は言う。

 例えば、母親の乳首を吸うパターンは一定のリズムがあり、赤ちゃんから母親に能動的に刺激を与えている、という。おそらく遺伝子レベルでインプットされている機能と思われる。母親も意識するか否かは別に、赤ちゃんを揺らすことでこの刺激に応じていて、両者の間でコミュニケーションが取られている、という。

 新生児と母を対象に実験しているが大変だったと思われる。だから、他の一般の実験とは異なり実験対象数は少ない。その中から結論を導いていく技法には頭が下がる。このような研究はかなり地道な実験と観察が必要である。

 また赤ちゃんは乳を吸っている最中にも鼻を通じて呼吸が可能だとのこと。知らなかった。
 などなど、多くの知見が紹介される。

 人間の言葉によるコミュニケーションは外から与えられた刺激によって発展するのではなく、赤ちゃん自身が能動的に求めて体得する機能であることが理解できた。その求めに十分応じてあげる必要がある。

 この本を通じて、あらためて、育児の面白さ、大切さを認識できた。
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心理学を学ぶ(44) 「子どもの心理」(4) 子育ては親も育てる

2020年10月27日 18時31分46秒 | コラム、エッセイ
 大学卒業してからおよそ15年もの年月、大部分を秋田大学第3内科で過ごした。診療と研究の領域は大人の血液疾患とその基礎的な研究であった。

 私はこの間3人の子供に恵まれたが、共稼ぎであった私どもに、住み込みで子育て、家事一般を担ってくれる人材が見つかった。家内の実のおばさんにあたる方である。だから、我々夫婦は育児の負担は軽かった。私は、父親としてかなり参加したと自負しているが、家内たちの評価は極めて低い。

 本当のことを言えばこの間、親としての責任感による子育て参加が主目的で、当時は子どもの発達に興味は抱いていたものの、時間的に余裕がなく、観察などは皆無で、おとなの疾患ばかりを対象に研究してきた。
 今から見れば新生児の発達過程を観察するいい機会が与えられたと思うが、自分の子供たちの育児過程ではその観察の機会を逸してしまった。

 それが赤ちゃんの発達過程に関心を抱いたきつかけは孫の誕生であった。
 新生児の発達過程に対する関心は急速に高まったが、次男の孫の場合は、同居してないいわゆる外孫に相当する。たまに来てくれて泊まっていくこともあったが、世話する機会も少なく、新生児期の発達過程を観察するには不適であった。

 たまたま、長女が里帰り出産で娘を生んだときに、家内が健康を害したこともあって産後4ケ月ほど我が家で過ごした。その間、嬉しいことに孫の成長過程を観察できた。泣き声を聞き、ミルクを与える、おむつを代え、おふろに入れるうちに、何という不思議な生き物だろうと感じるようになった。やがて、もつと本格的に勉強しようと考え、新生児の発達過程の書籍を数冊買い込んだ。

 世間では、子どもは欲しいが、子育ては大変だという女性の意見をよく耳にする。若い夫婦のあいだに子どもができた場合、近年は核家族での子育てになるから、負担の比重はなんといっても母親のほうに圧倒的に大きくなってしまう。
 しかし、手間のかかる赤ちゃんの世話を、もし、しないで済ませられるならばそれに越したことはないと考える逃げの発想は、われわれ大人にまったく別の世界への目を見開かせてくれる絶好の機会の目をつんでしまう。
 いまさらながらそう感じている。

 社会に出て慟く女性にとって子どもを持つことは心身体を疲労させ、時間を拘束する。けれども子育てにはさまざまの苦労を埋め合わせてなお余りある、われわれを人間として成長させてくれる可能性が付与されているように思う。

 それを巧妙に乗り切ったとき、女性は社会のなかで単に男性並みになるのではなく、自らの性の特性を活かして活躍できるのではないだろうか。それが真の男女共生社会となる。

 一人の子を育てることは、三人の子を育てることと同じである。
 親にとって、一人の子供を育てると言うことは、
 ■ 目の前にいる子供、
 ■ 理想の子供のイメージ像、
 ■ 自分の子供時代の像、
の三人の子供達の姿を通じて、親が自分自身の成長を一緒に楽しむ過程であり、いわば人生そのものの学習と言っても良いと思う。

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