マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

どう歩む… ?

2016年07月29日 | キリスト教

 

 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、

その招きにふさわしく歩み、 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。

                                                エペソ人への手紙 4章 1~2

まず私たちの経験からして、どこの社会、あるいはどこかの団体に加入するときは、誰でもある定められた生活をしていく

責任を負わされます。 ( 何処においてもその所にはルールがあると言うことです。) もしその人が要求された生活が

できなければ、置かれた社会の目的をつまづかせ、その名に不信用を招いてしまいます。

 

 私たちは神に選ばれ、神からの使命を与えられて、その使命を忠実に行うようにとこの世に遣わさたのです。

そのために必要なことは、神を待ち望むことだと神は私たちに語っています。自分自身の思いを優先し、失敗して自ら苦しみを

受け取ってしまう私たちですが、神は天から私たちのもとに来られ、救いの御手を動かしてくださいます。

何時どんな時も神の召しに相応しく歩む、( 歩くという行為は、人間の最も基本的な動作であり、生きていると言う証しでもありま

す。) そんな主と共に歩む人生をいつでもとっていきたいものです。

 

聖書から

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。…。」  創世記 3:8

「わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」  レビ 26:12

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」  箴言 5:21

            神もあなたと共に歩むことを望まれているのです。

 

 

 

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平和のために祈れ

2016年07月22日 | キリスト教

 

 主よ。王をお救いください。私たちが呼ぶときに私たちに答えてください。  詩編 20編 9節

 

あなたはどんな一生を送りたいと思いますか。泣いて暮らすのも一生。笑って暮らすも一生。

太く短くと言う人も、細く長くと言う人もいるでしょう。

しかし聖書は、「平安で静かな一生」 を送るのが神のみ心だと言っています。

振り返ってみますと、人間は昔から、争い、奪い合い、殺し合って戦争の歴史を続けてきました。

「 あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、

争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。 」 ヤコブ 4:2

と聖書は私たち言っています、人が本当に欲するもの、金銭、権力などありますが。しかし本当に心の底から望む者は、

それは心からの平安でしょう。そして神は、本当の平安を平和を願えと言っています。

こんなに素晴らしい頭脳と知性を備えられ、神に似せられて造られた人間が辿って来たのは戦争の歴史なのです。

その根本は、人が神に背き、神を退けて、自分勝手な欲望と自己保身に走り、それを満足させようとする罪の道を

歩きはじめたからです。罪を悔い改めて、一人ひとりが神に立ち帰る以外に平和への道は有りません。

「 ・・・・その町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」 エレミヤ 29:7

真実の平和は、人の手と知恵や努力によってはならない。神に祈れと言っています。それは、この国とあなたのために。

 

                                          
                                           

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感謝の上に

2016年07月15日 | キリスト教


「 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、

                     目標を目ざして一心に走っているのです。」

                            ピリピ 3章 14節

 

知れば知るほどに深くかかわりたい主の愛と恵みが、この目指して一身に走る動機となっています。また、

自分の達しているところを基準として、他人と自分を比べて一喜一憂する信仰生活ではなく、

ただ、神を見不上げて生活するです。感謝と喜びの故に、自発的に自我と戦い、自己訓練し、神に仕えたい。

さて、あなたは「お前やる気があるのか」と言って叱られ、はっとしたことがおありでしょうか、

「なぜ、なんのために、こんなことをやるのだろう。」 と考えているうちに、やる気満々ではなく、

やる気ノンノンになってしまったのです。

人はさまざまで、エンジンをかけて待機している車のように「やるぞ」という気持ちがみなぎっている

人もいれば、ガレージに収まった感じで、やる気を起こさせるのに手間取る人もおられます。

与えられた性格、素質なのかもしれませんが、人生それではすまされない。

その点でもキリストの弟子パウロは偉大でした。この人はサウロと呼ばれ、イエスとその教えに反対し、

キリスト信者を捕らえたり、処罰したりしていました。しかし、イエスに出会って百八十度転換してからは、

過去を振り返って気落ちしたり、人目を気にして躊躇したりせず正しいと分かったことに全力を

傾けて努力しました。私たちも、今持っているすべてを持って自分の最高を捧げたいものです。

聖書から

「 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、

私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 」  Ⅰコリント 9:25

 

「 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、

私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって

走り続けようではありませんか。」             ヘブル 12:1    

 

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信じなさい。

2016年07月08日 | キリスト教


「 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」

                                 ヨハネ 14章 1節

私たちは確証できないもの、私たちの理解を超えたものを受け入れなければならないときがやってきます。

それはこのことにも当てはまります。「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、

どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 」  ロマ 8:32

これが私たちの信仰です。

さて、十字架を目前にしたイエスは、弟子たちを置いてどこかに行ってしまうと言われたので、

弟子たちの心が騒いでいたのでしょう。しかし、弟子たちだけでなく、私たち誰にでも同じような経験があるのでは。

人生には心を騒がせるようなことがあまりにも多いのです。強くありたいと願いながら弱く、

うまくやりたいと切に願いながらボロボロと失敗してしまう。愛し愛されたいと思っていながら身近な人とさえうまくいっていない

環境も私たちのころを騒がせる要因となります。経済的な悩みや心配、病気の苦しみや思い煩い。生別死別の苦しみ。

また、将来を思うと、その不安定さに不安になります。イエスはこんな私たちに、「 心を騒がしてはなりません、

神の力と愛の約束を思い出し、神を100パーセント信頼してそれらに打ち勝ちなさい。神を信じなさい。私を信じなさい 」 

力強く言われるのです。

聖書から

「 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。

恐れてはなりません。」    ヨハネ  14:27

 

「  私の主、神よ。まことに、私の目はあなたに向いています。私はあなたに身を避けます。私を放り出さないでください。 」

                                        詩編 141:8

 

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ただ恵みにて

2016年07月01日 | キリスト教


「 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」

                                                        詩編 19編 15節

ユダヤ人が購い主と言うときは、自分が窮地に陥り、全財産を失い、自分実まで奴隷として売り渡さなければならないようなとき。

犠牲を払ってまで買い戻し、助けてくれる親戚の事なのです。( 買い戻しの規定として、ヨベルの年と言うのがあります。

もしその人が身売りしたままで買い戻されなかった場合、ヨベルの年にはその人も、その子供たちも手放される。レビ 25:54  )

私たちにとっては、いのちを投げ出し、全身の血を流しきって、滅びから、裁きから救ってくださるイエス・キリストこそ贖い主です。

そんな贖い主に、「 私はこんなこともあんなこともしました。認めてください 」 と、まるで商取引のようには祈りません。

私たちには主に差し出すべき物は何もなく、御前に祈る祈りの言葉をお受けくださいと祈るばかりです。

心の底から沸き上がる信頼、願い、感謝と礼拝の思いと言葉だけしかありません。しかし、神はどんな供え物に勝って、

へりくだった信頼と祈りをお受け下さるのではないでしょうか。

聖書から

「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」    箴言 3:34

「心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」イザヤ 57:15

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」  ロマ 12:1

 

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