マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

主の計画は進んでいる

2017年07月28日 | キリスト教


「 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」

                                                マタイ 27章 12節

「愛とは、何も言わず相手の重荷を負うこと」であると、主イエスは私たちに示されました。

キリストが裁判で訴えられたとき、ローマ総督ポンテオ・ピラトが、キリストを非常に不思議に思ったと言う個所です。

大祭司や長老たちからキリストはいろいろ訴えがなされましたが。それにたいして、何も答えられませんでした。

ピラトは、キリストに彼らがあなたに対して、こんなにさまざまな不利な証言をしているのが聞こえないのかと言います。

しかし、キリストはどの訴えに対しても、一言も答えませんでした。

それで提督ピラトは非常に不思議に思ったと聖書にあります。キリスト・イエスの黙秘権は、権威に対する反抗でもなく、

裁判官への不信でもなく、人々への恨みの情による黙秘権でもなかったからです。

ピラトが不思議に思ったのは、キリスト・イエスの穏やかさだったに違いありません。キリスト・イエスのこの穏やかさは、

父なる神に自分の一切を託して生きる謙虚さではないでしょうか。

 

イザヤ 53:6~9

「 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/

主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/

毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。」

 

 

 

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聞き従うなら。

2017年07月21日 | キリスト教

「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。 」

                                                      ヨハネ13章 16節

 

十字架らつけられる前の晩、弟子たちと夕食を共にした時、主イエスは、上着を脱ぎ、おそらくは上半身裸になられ、

腰に巻くと長くたれる手拭いを身につけて、まさに奴隷の姿になって弟子たちの足を洗い始めました。弟子たちは驚き、

ペテロは「足など、決して洗わないでください」と言ったと記されています。

主イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもないことになる」と答えられました。

 汚い足は、私たちの罪を意味しています。主イエスは、私たちの罪を身代わりに負って父なる神の裁きを受けてくださったのです。

私たちがなにか立派な人間だと思っているなら、主イエスとの関係はありません。醜いボロボロの自分でみ前に出る時、

はじめて主イエスとの関係ができるのです。主イエスは、私たちに仕えてくれるために、命をも捧げてくださったのです。

主イエスは今こう言われるのです。私が遣わす人を受け入れる人は、私をお遣わせになった方(父なる神)を受け入れるのですと。

また、主人がしもべに求めることは、理解することではなく、聞き従うことです。

 

申命記 28:2

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」

箴言 1:33

「しかし、わたしに聞き従う者は、安全に住まい、わざわいを恐れることもなく、安らかである。」

ルカ 10:16

あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。

わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」

 

 

 

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愛の眼差し

2017年07月14日 | キリスト教

「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」

 と言われた主のおことばを思い出した。」      ルカ 22章 61節

 

イエス・キリストが徹夜の裁判を受けたときに、弟子の筆頭と言われているペテロとはどんな人であったのでしょうか。

ペテロがイエスなんか知らないと三度も否認した場面です。人は自分の身に危険を感じますと、

やはり自分を守るためにどんな嘘も、どんな拒絶も、どんな裏切りもすると言うことをまざまざと見せつけられました。

しかし、ペテロはそのことを知っておられたイエスの目と視線が合ったとき本当に激しく泣きました。

ペテロは知らなかったのです。自分の力で、自分の思いがどれだけ空しいものかを。

「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、 」出エジプト34:6 

主イエスがこの恵みに富んだ神であることを知り、その神に本当に出会って全てを委ねることの大切さを。

当のイエスは愛する弟子たちからも裏切られながら、愛の眼差しを持ってペテロを眺められたイエス、

人間関係の全ての裏切りをその身に受けて、十字架に向かわれたイエスを覚えて、

主を裏切ることのない生き方をしていきたいと思う。


Ⅱコリント 7:9 ~10

「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

 

 

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互いに仕える

2017年07月07日 | キリスト教


「 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」

                                                  ヨハネ 13章 5節

主イエスは、十字架につけられる前の晩、弟子たちと夕食を共にしました。その席で突然立ち上がり、上着を脱ぎ手拭いを腰にまとわれ、

弟子たちの足を洗い始めたのです。そして、それが終わると弟子たちに言われました。 

「 主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」 

主イエスは、しつこいほどにこれを行うようの勧めています。この洗足は、相手を自分よりも高くし、遜って仕えていく、

言いなりになるのではなく、愛を行うようにと言うことを意味しています。

主イエスは、私たちを愛し、私たちの罪を身代わりに負い十字架で死なれたのです。この最後のとき、洗足を通して、

仕える桃の姿を刻み付け、弟子であるならばこのようにしなければならないと教えられたのです。

 

 ヨハネ  13:34 ~35

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたが

たも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての

人が認めるのです。」

 

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