マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

カナンの女

2014年10月31日 | 日記


「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                                                                                マタイ 15章 27節 

彼女は娘のために、イエスに取りすがります。しかし弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。イエスのお答えも「 わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない 」でした。

しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、ベンゲルという人は、「 彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた」と言っております。彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。

パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。

彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。

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私の心が

2014年10月24日 | 聖書


 主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。

                                                               詩編 86篇 11章

「 我らの生涯に起こる香り高い讃美も、みだれた祈りも、恥ずかしい後悔の思いも、それらすべてをキリストの聖名に集中し、『 信仰 』 というリボンで一つの花束に結んで、主のみ前に供する 」    矢内原

心の本音と建前が違うのです。理想を知る建前の心は、愛、清さ、分け与えること、信じることを求めます。しかし本音は、自分の利益、自分の栄光を求め、妬んだり、ひがんだり、怒ったりむさぼったりします。パウロはこの心と思いについてこういっています。「 心とは単にいろいろな情緒ではなく、ある人の人格の中心的部分そのものであり、 」「 思い 」とは考えである 」

この詩編の作者は 「私の心を一つにしてください」と祈っています。これは、私たちの努力のわざではなく、私たちがまずそうなっていないことを自覚して悔い改め、そして神に祈り、神がそれに答えてくださるところから始まります。これは大変難しいことかもしれませんが、しかし、そうできたらどんなにすっきりと勝利の人生を送ることができるでしょう。

「 御名を恐れるように 」 と続けて祈っています。「 御名を恐れ( 畏れ ) るように 」 とは、神を怖がることではありません神を認めること、神を信じること、神を敬うこと、神を愛することです。本音も建前もなく、この心で一本筋が通る人の歩みはなんと力強くなるでしょう。

「  わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、」

                                                                  エレミヤ 32:39

「  何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、・・・ 神に知っていただきなさい。」                                                                        

                                                                    ピリピ 4:6

 

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2014年10月17日 | 聖書


「 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」

「 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 」                                         

                                              ヨハネの福音書 1章 10節

「 自然の光、また創造と節理の御業は、神の善性と知恵と能力 ( ちから ) とを、人間が言い訳できないほどによくあらわしている 」

                                                           ウェストミンスター信条より

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認

められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝も

せず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者と

なり、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました

                                              ローマ人への手紙 1章 20~23節より

すべてのものが神にあるならば、神はいったいどこにおられる。しかし、この問いに対して何と答えるべきか、いうべき言葉を誰も知り

ません。この世に神のおられないような場所ははたしてあるでしょうか。確かに神は、私たちの五感に触れない方です。しかし、もし私

たちが神の実体についてよく理解しょうとするなら、神はどこにでもおられること、神の実存が一定の場所に限定されるものでないこと

に気づかれると思います。すべてのものは、えも言われぬ不思議な方法で、神のうちにあり、神もまたすべてのもののうちに現存して

おられるのです。神は世が創られる以前におられたところに、今もおられることになるわけです。

 

 

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ダビデ

2014年10月10日 | 聖書


「  命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」

                                                     詩編 23編 6節 

この「 帰り 」は、「 住まう 」とも訳すことができ、また「 私の安息 」 とも訳すことができる形です。

これは特に注目すべき聖句です。私たちはこの世にある限り、悲しみと、苦しみに追い回されるものだと思っていますが、

これに反して、ダビデはただ恵みとあわれみが毎日彼に添いきったと歌います。

何の心配もない生活。将来に対する身も細る不安もない生活。素晴らしい生活です。詩編の真珠と言われているこの短い二十三篇を

読み、神を信じて生活するならば、どんなに満たされた、幸福な生活をすることができるかということがよく分かるでしょう。

この詩編を書いたのは感傷的で夢の多い詩人ではありません。ダビデは一般の人以上に、何度も苦しい試練をなめた王でした。

彼はまた、罪に負けると言うことが何を意味するかを知っていた人でした。にもかかわらず、ダビデは神を信じ、主がダビデを守り、

恐ろしい危険から救い出してくださる誠実な方であることを悟ったのです。

この神の家に住むと言うことは常に主イエスのライフワークでもありました。「 どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の

家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」  ルカ 2:49

また、「 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、

どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。 」 Ⅱコリント 1:4

そして次の約束があります。「 人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それ

喜ばれることです。 」   Ⅰペテロ  2:19  

 

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泥かぶら

2014年10月03日 | キリスト教


 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

                                             Ⅰテサロニケ 5 章 16 ~ 18節

「 泥かぶら 」のお話をご存知でしょうか。

とても醜い女の子がいました。あまりにも醜いので泥んこのかぶらと皆にあざけられていました。

ある日、旅のおじいさんが美しくなる秘訣を教えてくれました。「 いつもにっこりと笑うこと 」です。

悪口を言われると暴れそうになる自分を抑えてにっこり笑うのです。旅のおじいさんの教えを実行していくうちに、

泥かぶらは変わっていきます。

ある日、村に人買いが来て、泥かぶらを一番いじめた梢という子を連れたいこうとします。両親がなく姿を見て、

自分には親がいないから代わりに行くというのです。人がいに連れていかれながら、

村の生活がどんなに楽しかった話すのですが、それを聞いて人買いの冷たい心が温められ、

ある日、書置きを残して去っていきます。それには、「 ありがとう、仏のように美しい子よ 」と書いてありました。

 

 

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