マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

畏れもって。

2018年02月23日 | キリスト教

「主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。」

                                       詩編 111編 10節  


小学校の教科書に「三人の目の不自由な人の話」というのがありました。三人の目の不自由な人が動物園に行き象を見学、

一人は象の足を触って、大きな柱のようだと言い、一人は腹を触ったので大きな岩のようだと言い、

もう一人は鼻を触りホースのようだと言いました。

この三人の目の不自由な人が自信をもって言っていることは、象のすべてではありません。


同じように私たちも日常生活において、この目の不自由な人のように一部を触って全てであると考えているのではないでしょうか。

私たちは何事においても自信をもって絶対と言い切ることができるでしょうか。

人間は何も言い切ることができない存在なのです。

聖書は私たちに何を教えているのでしょうか。聖書こそ私たちにどんな困難な時も解決する道を指示しています。

私たちの能力と知恵をはるかに超えた神。その神を畏れることです。神を畏れるということは、

神を信じる、神の教えに従っていくということです。

 

ヨハネ 6:29 には、

「神が遣わされた者を信じることです。 それこそ、神が望んでおられることです。」とあります。

神が遣わされた主イエス・キリストを信じる信仰、これこそすべての基、いのちのはじめ、知恵の初めです。

神からの賜物である信仰が与えられていることを心を尽くして感謝します。

  

「 人はどうしたら知恵をみがけましょうか。 それには、神様を信じて従うことです。

そのおきてを守ってこそ、賢くなれるのです。神様を永遠にほめたたえましょう。」  詩編111編10節 リビングバイブル 

                                

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つまずき

2018年02月16日 | キリスト教

 

「イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。」

                                    ルカ 17章 1節

 

つまずかせることは忌まわしいことですが、それが起こるのは避けられないとあります。

そうでありながら、つまずきを起こさないように自分に気をつけなさいと語ると同時に、

もし人につまずきを与えた者が悔い改めるなら、その者を完全に赦しなさいというイエスの教えが記されています。 

 

「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、

海に投げ込まれたほうがましです。」

聖書の言葉はこのように続いています。これは大変なことです。なぜこんなに厳しいことをイエスは言われたのでしょう。

それは人がつまずき、堕落するということは度々起こることではあっても、どうでもよいという事柄ではないからです。

他の人の悪いお手本になったり、自分の行いでその人を悪事に誘ったり、自分の不注意な言動で、何も知らない無邪気な人が、

悪を身につけるようになるということは許されない。というわけです。

私たちはみんな弱い者ですから、つい自分がつまずいたり転んだりすることはありますが、私たちの軽率な言動が、

他の人を罪に追いやることのないように気を付けたいものです。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

互いに忍びあい

2018年02月15日 | キリスト教


「 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」

                                                      コロサイ 3章 13節

ウィリアム・バークレーはクリスチャンとして私たちが人を許すために三つのことを学ねばならないと言います。

そしてその第一は「理解すること」であるというのです。「人の行動にはいつも理由がある、粗野な人、失礼な人、気難しい人には、心配ごとがあるか、

他の苦痛があるのかもしれない。人を疑ったり嫌がったりする人は、相手に対して誤解があるか、相手の言葉を曲解しているかもしれない。

あるいは環境や遺伝のせいかもしれないし、また、気難しい気質のための問題が多く人間関係がうまくいかないのかもしれない。

人を非難する前にその人を理解衝突富めれば赦すことも容易であろう。」と言っています。

そして、ほかの二つの許しのカギは「忘れること」これは父なる神が私の犯したすべてを御子イエスの十字架のゆえに忘れたと言われた、

そして、ご自分の命のように私たちを愛してくださったので、私たちに「愛すること」と述べています。

 

コロサイ 2章 6~7節

「あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい

キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。」

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主に従う者は

2018年02月09日 | キリスト教

「 主に従う人が持っている物は僅かでも、主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。」

                               詩編 37編 16節

 

「ひとりの正しいものの持つもの」とは一体何でしょうか。豊かないのち、豊かな心ではないでしょうか。

自分を正しいとし、人にも正しいとされていたパリサイ人と、自分を罪人だと自覚し、

人にも罪人だと思われていた取税人が、二人並んで神殿の前で祈りました。

パリサイ人の祈りは「この横の取税人のような罪人ではないことを感謝します。神様、

私は何事も正しくやってきました。」でした。

 主イエスは軍配を取税人のほうにはっきりとされたのです。

罪を悔い改めて神を恐れ、神に新しい心を頂いた正しい人の心、そのいのちこそ豊かなのです。

私たちが持っているものは少なく、僅かに見えるかもしれません。

しかし、そのわずかに見えるものをもって、主は支えてくださいます

キリストの教会は、イエス・キリストの福音というわずかなものしか持っていません。

しかし、罪から救う力を持っています。したがって、わずかなのですが全てを持っています。

ですからこの僅かなものを精一杯用いていき、父からよくやったと言われたいものです。。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸いなのは

2018年02月02日 | キリスト教

 「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」

                                 マタイ 5章 10節

「正義」「平和」という言葉がよくつかわれますが、それは社会的に大きなことだけに使われることとは限りません。

人と人との関わり合いにもそれは必要です。お互いにかけがえのない兄弟であり、

社会を作っていく仲間であるということを全面的に認めたときに、

好き嫌いによって過大評価をしたり、過小評価をする資格や権利のないことがわかると思います。

そこに正義があります。感情的または生理的な好き嫌いは、一生付きまとうかもしれませんが、

お互い欠点を持ち、迷惑をかけながらも一人一人を大切にし、支えになっていこうとするとき、

平和が訪れるのではと思います。

それは、キリストの兄弟である小さな一人に、自分のほうから隣人になっていくという積極的な姿勢と、

毎日毎日、自分自身の矛盾と闘いながら、少しづつ前進していく努力です。

この努力なしにこれでよいと思うのなら、それはただの自己満足で終わってしまうのです。

人を愛するということは、もうこれでよいというときは決して来ないものではないでしょうか

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする