マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

いのちのことば

2021年02月26日 | キリスト教

「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、

                     わたしたち救われる者には神の力です。」

                         Ⅰコリント 1章 18節

十字架のことば、これは、むろんキリストご自身についてのことばであり、

またキリストが十字架につけられて、よみがえったことについてのことばです。

そのことばは、確かにこの世の知恵では愚かに聞こえるだろうが、けれども救いをもたらす神の力であると、

パウロは言っています。この世の知恵によっては、何一つ人を罪から救い出すことはできません。

けれども、十字架のことばを聞いて信じた人は、確かに罪から救われて、その人生と生活が変わります。

この世の知恵のことばは、雄弁で、聞きざわりがよいですが、そこには力がないのです。

しかし、愚かなように聞こえる福音は、力があるのです。

 

また「十字架のことば」とは、神が人を愛し、赦し、救う力のことです。人の心を変え、

家族を変え、社会を変え、世界を変える力です。姦通の現場を押さえられた女が、

律法学者やパリサイ派の人々によってイエスのところに連れてこられました。

この「石打ちの刑」によって殺されなければならない女に対して、イエスがどう答えるかというところがありました。

しかしイエスの答えは明確でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのないものが、まずこの女に石を投げなさい」と言われたのです。

人々は一人また一人と去っていきました。イエスは女に「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。

これからはもう罪を犯してはならない」と言われました。ここに罪人を救うイエスの力が秘められています。

 

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祈りを

2021年02月19日 | キリスト教

「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」

                ルカ 6章 12節

主イエスは祈るために山に行かれたのです。そして夜を明かすほどに祈られました。

この祈りは、ある人々はゲッセマネの祈りの次に重要な祈りであったであろうと言います。

なぜなら、次に主イエスが十二使徒を選ばれるからです。

さて、私たちはこの主イエスの祈りの姿勢を模範としたい。主イエスはよく祈っておられました。

短い言葉ですが聖書のあちらこちらに主イエスの祈る姿が見受けられます。

主イエスの生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。

多くの弟子たちの中から特に十二弟子を選ばれたのも徹夜をして祈られた後でした。 

 

二人の「きこり」がいて、一人は一日に昼の休みのほかは一度も休みを取らず、一心に働きました。

もう一人のきこりは、一時間に十分の休みを取り、その休みの間に斧を研いで仕事を続けました。

一日を終えて仕事の量を比べてみると、一時間ごとに休んだきこりの方が、

よほど仕事がはかどっていたそうです。

 

祈る人は、ちょうど一時間に休みを取った人に比べれます。

つまり忙しい人にこそ祈りが大切であるということです。

心を鎮め、主の御声を聞くことが大切で、また、神から知恵と導きを求めていきましょう。

 

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完全なる福祉を

2021年02月12日 | キリスト教

弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い」

               詩編 72篇 13節

 

神の国、天国では公正な福祉がなされています。

ここの12節に「王が助けを呼び求める貧者や、助ける人のない悩む者を救い出す」とあります。

私たちの社会でも、神からの愛による福祉がなされたら素晴らしいと思います。

ただ私たちは、誰かを助けようとするとき、同情したり、自己満足に陥ったりします、助けてあげよう、

時間が余っているので、その人のためにしてあげようではなく、

この事をしているのは主イエス・キリストにしているのだという意識が大切です。

実際に主イエス・キリストは言われました。貧しい人、渇いている人、困っている人にしてあげたのは、

私にしてくれたのだと。ですから貧しい人や困っている人を助けてあげているという気持ちからではなく、

これをすることは主イエス・キリストにしていることなのだという意識をもって互いに仕え合うなら、

そこには理想的な真の福祉が実現するのです。

 

この主イエス・キリストこそ、全地の王として統べ治めるにふさわしい方なのです。

今現在。世界あちこちで聞かれる、弱い人々の悲惨な状態は、キリストの統治の中で完全に解決されます!

 

マタイ 25:~40


「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、

正しい人たちが王に答える。

『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、

のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、

わたしにしてくれたことなのである。』

 

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あなたは裁判官ではない。

2021年02月05日 | キリスト教

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。

そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

                      ルカ 6章 37節 

 

ここは、天の父がわたしの真似るべき存在になっています。裁き主である神ご自身が、

私たちの行ないにしたがって裁くのではなく、憐れみを示してくださいました。

だからこそ、さばかない、罪に定めない、ということが必要です。

 

あまりにも数多く人が、この世で起こっている事柄についてその現状を分析しようとしています。

これは間違っている、と罪定めを、原因探しをします。

しかし、神の命令はあら探しではなく、憐れみを示すということが私たちに対するイエス様の命令です。

そして、ここで大事なのは、その憐れみという態度に応じて自分も憐れみを受けるという報いがあるということです。

 

自分の欲望を無理やり達成しょうとするとき、人と人との間には必ず対立が生じます。

自分に敵対すると思う人には攻撃をかけ、自分の利益になると思え相手ならば、利用します。

相手を傷つけ、否定し、破壊することには、無神経。それが私たち人間の悲しい姿です。

それは、互いに助け合い補い合いながらしか生きていけない人間にとって、不幸な現実です。

主イエスは憐れみの神にねを置いた生き方に徹することを訴えます。

「神が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者になりなさい」と。

一人ひとりが、憐れみの神に結ばれて生き、神によって生かされる。それこそ、

人間がエゴイズムを克服し、平和な世界を築いていくための道となります。

 

私たちがこの地上ですることは、天において報いとなって現われます。私たちは、嘘をつくことは決してできないという神への恐れを持っていますが、

同じように、さばくことに対しても神の恐れを持つべきです。

  あなたに平安がありますように。シャローム

 

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