マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

明らかにされています。

2022年10月28日 | キリスト教

人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

                       箴言 5章 21節

ああ、なんと大事な言葉でしょうか! 自分の進んでいる道は、主の前でいつも明らかです。

私たちはどんなに隠れて物事を行なっても、主はそのすべてを見ておられます。

そして、ただ見ておられるだけでなく、心を配っておられます。

ですから、自分が悩んでいるということであれば、それを主の前に持っていけば、

主は心を配っておられるのですから、必ず逃れの道を備えてくださいます。

 

大事なのは、罪によって傷ついた心をそのまま主の前に持ってくることです。

主は、その深い憐れみによって必ず受け入れてくださいます。

決して、ご自分のところに来る人を拒みません。主のところに行けば、主がその傷をご自分の体に受けてくださり、

そして自分の体の中で、魂の中で、傷の治癒を行なってくださいます。

 

神が私たちのすべての必要を備えて下さっていることを確信することによって、

神に対する深い畏敬と崇拝の心が生じてきます。

全知全能の神は、すべてをご覧になる神です。この神は私たちの内に生き働き、存在しているのです。

私たちは日々神のみ前を歩んでいると言えるだろうか。

 

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真実な宝

2022年10月21日 | キリスト教

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

                コロサイ 2章 3節

私たちの人生を豊かにする知恵と知識の宝が、この聖書の中に隠されています。

私たちの人生の中の数十年は、今の私たちにとっては大きに意味を持ちます。

いま現在のあなたがたを作り上げてきた数十年です。

その歩みの中で何度となくイエス・キリストの内にある恵みと言う宝によって助けられたことか。

数え切れません、そして父なる神のみ言葉によってどれだけ守られ、どれだけ導かれたか、

またある時はどれほど強く罪を示され悔い改めに導かれたか、与えられた恵は数限りないのです。

この聖書がぼろぼろになっても、神のみ言葉はますます新鮮でますます恵みにあふれてきます。

どんなに歳月が流れても、神のみ言葉はその恵みの新鮮さを失うことはありません。

 

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順送り

2022年10月14日 | キリスト教

あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、

        またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

                       レビ 19章 32節

「お父さんの調子が悪くなったからお世話が大変でしょう」

「でも、順送りですから、苦労して育ててもらったのだから」ふと、聞こえた会話です。

自分が老いた両親を見て、老いていく。子供がそれを支える。

その子供がまた年を取り老年となり、そして、孫が世話をしていく。

この順送りと言う考えは " 愛 " がなければ生れません。

そして、この愛が躍動した時、主イエスのみ心が満ちた温かい世界が育つのではないでしょうか。

この、白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、神を恐 (畏れ) れなさい。と言う旧約聖書の言葉が心に響きます。

自分も「順送りですから」とさらりと言うことができるだろうかと思います。

 

私たちは、老人の方々を見下げるのではなく、むしろ尊敬して接しなければいけません。

老人を敬うこと、これは聖いことなのです。またこれは、神の命令でもあります。

ただ、命じられたからとする。と言う考えは寂しい、

愛は強いられてささげるものではなく、心から流れ出る泉のようでありたいものです。

 

 

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… 幸いです。

2022年10月07日 | キリスト教

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

   義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

                           マタイ 5章 9~10節

多くの人が、初めに人と人との平和を求めます。世界はなんと平和を好むことでしょうか。

けれども、ここに「その人は神の子と呼ばれます」という約束があります。

人と人との平和は (今の世界を見てのとおりです) 成り立ちません。

初めは神との平和、そして神の平和が自分を満たし、それで自分に周りに平和を造ることができるのです。

 

「義のために迫害される者」。面白い事に、私たちが悔い改める事によって、世から迫害を受けます。

なぜなら、世は、心の貧しいもの、悲しむもの、柔和な者、義に飢え乾いている者、人をあわれむもの、

心の清いもの、平和をつくる者が嫌いです。そういう人たちが自分たちの中にいたら、迫害し始めます。

 

迫害されるのは「義」のためです。イエス・キリストの十字架を受け入れるということは、

まさに神の義を受け入れることです。十字架を受け入れるということは、

「あなたがどうしようもなく、救いようもなく、何ら自分のうちには善いものがない、霊的な乞食だ。」ということを認めることです。

けれども、地に属する人々はそれを嫌います。表面的に行ないを改めることは良しとしても、

このような革命的な、過激な心の変革は望みません。そのために迫害します。

 

ローマ12:18
「あなたがたは、自分の関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」

マタイ10:34
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、

  平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」

 

 

 

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