マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

恵みの日々を感謝します。

2021年12月31日 | キリスト教

「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。

                  わたしはこの目であなたの救いを見たからです。」

                ルカ 2章29~30節

 

マリアが賛歌を神にささげ、ザカリヤも捧げました。その他、天の軍勢も神を賛美していました。

そしてシメオンもここで賛美を捧げています。

シメオンは、この幼子自体を、「あなたの御救いを見た」といって、ほめたたえています。

救いというのは、何か一定の教えや原則ではありません。イエスご自身が私たちにとっての救いです。

今、人間の姿でご自分を示されたからです。救いを聞くだけでなく、さわって、見ることができました。

この方に人格的に触れる時に、その人は救われます。

私たちの神は一度決心されると、最後までやり通されるお方です。

ユダヤの人々は何千年もの間、神の約束を信じて、主イエスのお生まれになるのを待っていました。

待ちくだびれて、「神は私たちを見捨てられたんだ」と言い出す人もいました。

でも、多くの人たちは主イエスの来られることをじっと待っていたのです。

この聖句に出てくるシメオンも待ち続けた一人でした。

この人は救い主に出会うまで死なないと言われていましたが、

今この時に救い主イエスに出会ってもう死んでもいいと言っています

。私たちは今年をふり返って、「あれができなかった」と後悔するのではなく、

「主イエスに出会うことができた」と喜びたいと思います。

 

シメオンの賛歌は私たちに壮大な神の救いの計画の枠組みを提供しています。

神の御救いの計画の中で今がどういう時代であるかを知ることは、

私たちの生き方を主にあって、確かな、安らかな生涯へと導くことでしょう。

それゆえに、シメオンのように聖霊によって神の御救いの全貌を

垣間見させていただく一人とさせていただきたいと思います。

 

また来る来年もどうぞよろしくお願いします。

すべての人々に主イエスの平安と豊な恵みが注がれますように。シャローム

 

 

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最後はこの体をもって

2021年12月24日 | キリスト教

「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」

  詩篇 150編 6節

最後は、神のくださった最高の楽器、すなわち私たちの息、歌声であります。

なんという、すばらしい終わりでしょうか。

すべてはただ、主をほめたたえることです。すべてのことは主に栄光です。ハレルヤ。

 

この詩篇の最後の言葉は、私たちに賛美の総動員をかけています。

どうして聖書は「神をほめよ」「神を賛美せよ」と言うのでしょうか。

第一は、神にこれほど愛され、イエス・キリストの十字架の血潮という代価によって

救われた私たちが「喜んで」いたら、神はほんとうに喜んでくださるでしょう。

しかし、それほど愛されている私たちが、うなだれ、悲しんでいるなら、神はとても悲しまれるでしょう。

 

第二の理由は、弱い自分勝手な私たちは、賛美が下手だからではないでしょうか。

神に祈る時、ただ、純粋に神を賛美し感謝することによって、

今までの私の神に対する姿勢が、「どうか、どうか」だけだったとわかります。

例えば、私たちがリコーダーのような小さな楽器であったとしても、独り子イエス・キリストまで犠牲にして

私たちを赦してくださる父なる神を、心一杯賛美しなければと思います。

 

黙示録 19 : 5 ~7
また、玉座から声がして、こう言った。「すべて神の僕たちよ、/神を畏れる者たちよ、

/小さな者も大きな者も、/わたしたちの神をたたえよ。」

わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、

こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。

わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。……。」

 

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あきらめるな

2021年12月17日 | キリスト教

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、

                        弟子たちにたとえを話された。」

                         ルカ 18章 1節

いつでも祈り、失望せずに祈り続けることは、目的があります。

それは、神が選民のために裁きを必ず行ってくださる、ということです。

キリスト者としてこの地上に生きている時に、私たちはたとえ物理的な迫害を受けていなくても、

むしろ迫害がないところにある霊的誘惑の中にいつもさらされています。

神はいらない人たちの制度がしっかりしているから、という強い圧力を感じます。

神なしで生きていくように仕向けていきます。ですから、私たちは今まで以上に強い圧迫を受けており、

しっかりと立っていないといけません。そこで必要なのは、しつこい祈りです。

神の正しい裁きがなされるよう祈っていて、果たしてそれが聞かれるのか疑問に思います。

けれども主は、聞いてくださいます。けれども、イエスが実行に移そうとしている時に、

その時まではたして信じ続けている信仰が見られるのかどうか、と案じておられます。

あきらめて信仰が揺らいでしまう試練の時なんだよ、とイエスは教えておられるのです。

いかがでしょうか、私たちは長いこと祈り忘れている祈りの課題はありませんか?

あきらめてしまっていることはないですか?祈りをしつこく行っていますか?

ここに私たち、終わりの日に生きる者たちが試されるところです。

神を信じる者は決して失望に終わりません、と、イエスは教えられるのです。

 

エペ 6:18 
「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、

目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」

 

 

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丁度良い時に

2021年12月10日 | キリスト教

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。

神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」

                  Ⅰペテロ 5章6節

私たちは自分で、自分のことを売る必要はありません。いかにすぐれたミニストリーをしているのかを、

宣伝する必要はありません。主が必要なときに、高く上げてくださいます。

私たちが小さなことに忠実であるとき、主が大きなものを任せてくださいます。

( 自分を何者かのように、大きく見せびらかすことは必要ない。今ある自分がすべてです。 )

 

神は力強いお方です。全世界とすべての命をつくられたお方です。

私たちは、この神の御手の下に自分を低くすることを学ばなけりばなりません。

神が全世代の歴史を支配し、私たちの運命をも動かされるお方だからです。

この神と共に歩むことです。わたしたちは、自分の生活設計を立てます。

しかし、その計画を絶対化してはならない。むしろ神が、私たちにどんな計画を持っておられ、

行おうとしておられるのかを知ろうとする姿勢が必要です。神の計画のみが堅く立つとあるからです。

自分の計画、事業、学び、仕事の一切の問題に不安を持ち思い煩うのは人間の本性です、

だからこそ、それらの一切を神に委ねなさい。

 

モーセが 80 歳の時に用いられました。ヨセフは、30 歳になって囚人の身からエジプトの宰相となりました。

ダビデもサウルに追われて、そして自分の手を血で汚すことなく、イスラエルの王となりました。

時が、その人の信仰を練り清めます。なぜなら、時は神のもの、神の主権の領域だからです。

 

詩篇75:6~7
「高く上げることは、東からでもなく、西からでもなく、荒野からでもない。

  それは、神が、さばく方であり、これを低くし、かれを高く上げられるからだ。」

 

 

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私のために

2021年12月03日 | キリスト教

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」

         ヨハネ 10章 11節 

キリストにある神の愛を深く知れば知るほど、私たちはイエスの御声に聞き従うことができるようになるのです。

羊は、良い牧者のところにいれば、それだけ深い信頼を寄せていて、その声を聞き分けることができます。

なぜなら、イエスにとって、その羊の群れはご自分のものになっているからです。

 

私たちには人生の導き手が必要です。なぜなら羊のように迷ったり、つまづいたりするからです。

良い羊飼いあるイエスは、羊である私たちのために命を捨ててくださいました。

このお方が私たちの人生を導いて下さるのです。

人とは、その生涯の中で一度ならず誰にも話せない問題をもって悩むことがあります。

そうしたとき、イエスの名によって全能の神に祈り、答えをいただくことができます。

救い主イエスは私たちを受け入れ、罪を赦し、新しい霊的命を与え、生きることへのエネルギーを与えてくださるのです。

 

イエスは命を捨てられ、それに続く弟子たちも命を捨ててきた。

そのことによってキリストの教えは人々に継承され、今日にまで至っている。

 

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