マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

心配性のあなたへ

2021年10月29日 | キリスト教

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」

         マタイ 6章 34節

神と心配は共存できません。とはいえ、「心配してはなりません」といくら言われても心配してしまう弱さが私たちにあります。

私たちが思いわずらわずに考えられる範囲は、今日ということをイエスはよく知っておられます。あす、来月、来年のことを考えすぎると、

思い煩うのです。ですから、一日、一日、神から与えられたものに、感謝することが大事なのです。

 

世界を見回しますと、非常に興味深いことは、物があふれるようになった社会に心の病が始まるということです。

物がなければ、今生きていることに感謝することが容易にできます。日々の糧は神からの贈り物であることを実感できます。

空の鳥のように、自分も養われているのだということを実感できます。けれども物が溢れているところに、

私たちは物そのものに仕える誘惑が増えます。そして物に仕えているので心を思い煩い、それで心の力をすり減らすのです。

 

物があること、便利なこと、安全であることが悪いことでは決してありません。それらは神からの賜物であり、感謝して受け取るべきものです。

けれどもそれは同時に責任であります。絶えず選択していかなければいけません。

富に仕えることなく、富に頼ることなく、ただ天の父の養いの中に生きていくことを意識して選び取っていかなければいけないのです。

 

伝道者5:18
「見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、

しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。」

伝道者5:19
「実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、

自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」

 

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主の愛の中へ

2021年10月22日 | キリスト教

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」
 
                           ヨハネ 15章 9節 

天の父が人々を愛し、包み、働きかけていくのと同じような、愛の完全さをイエスは求めておられます。

「イエスが愛したように」「神が愛するように」人々を愛する。考えてみれば、大変なことです。

私たちは、神と違ってエゴイストです。他の人のことよりも、自分の望み、自分の生活のことを考えてしまいます。

たとえ、他の人の幸せを考えて働きかけることがあるとしても、なかなか真実で純粋な愛には近づきにくいものです。

しかしイエスは、私たちの汚れ、私たちの弱弱しさを十分に承知しながら高い理想を私たちに与えられました。

高い理想、それは私たちの力では実現不可能なことです。しかし、「神にはできないことはない」のです。

神の恩恵によってなら可能なのです。ですから、私たちはまず、高い理想をしっかりと見つめる努力をしたいと思います。

 

ところで、「とどまる」―「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまります。」

というのはどんなイメージなのでしょうか。どういうことがとどまることなのでしょうか。

一緒に過ごす、どこかに泊まってまでも親しく過ごすということも、とどまることなのですが、

「とどまる」は決定的な決意によって、継続的な生きた親しいかかわりを持つことを意味します。

どうすればそのようなかかわりを正しく理解し、それを自分のものとして経験することが出来るのでしょうか。

 

イエスは、ご自分にとどまるとは、ご自分の愛の中にとどまることであると特定しておられます。

イエスにとどまるということは、イエスを信じるということですが、パウロは、信仰よりも愛が優れていることを話しています。

愛とは単に感情的なものではなく、意思的なものです。自分の意思よりも、相手の意思を優先させることが愛であります。

イエスが、「わたしの願いではなく、あなたのみこころのとおりにしてください。」というのは、イエスの父への愛でした。

このことを、イエスは弟子たちに分かってもらいたかったのです。

 

Ⅰコリント 13:13
「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」

 

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家の中で

2021年10月15日 | キリスト教

「いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。

   わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。」

                詩篇 101篇 2節 

人は自分の家の中でどのように歩むのかが大切です。よく「内面」と「外面」と言いますが、

私自身も含めて、外面はいいけれども、内面が悪い人が多いのです。

外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、家の中ではわがままで自分勝手、

ありがとうも、お早うも、ごめんなさいのことばも無いということがあるのではないでしょうか。

ノアはいろいろと欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。

神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアに告げ、そして神に信頼する人を助けるために大きな箱舟をつくらせました。

。誰一人として悔い改めてその箱舟に入る人はいませんでしたが、

ノアとその妻、3人の息子とその嫁の合計8人は神の命じられたとおり、箱舟に入りました。

ノアという人が、自分の家の中でどのように歩んできたのかがわかるようです。

 

このところでは、現状のことを思って、「正しい心で、自分の家の中を歩みます。」

と言っているのではありません。彼が願っていること、理想として強く思っていることを書いているのです。

 

私たちにも同じ想いがあります。主は弟子たちに、

「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8)」と言いました。

きよい者、完全な者でありたいと願います。現状はそれとは程遠いのですが、

自分の足りなさを気づかされる度に主の前に出て、憐れみを請います。

 

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そばにいてくださった

2021年10月08日 | キリスト教

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

                    マタイ 28章 20節

人生には辛いことがたくさんあります。多くの悪いことがやってきます。

そうした時、神は自分を捨ててしまわれたのかと感じます。

その時、「いつも」あなたと共にいると言われたイエスのことばを覚えましょう。

私たちが孤独で疲れ切った時に、かえってイエスはそばにいてくださるのです。

だから安心して、すべての思いを打ち明けましょう。

そして心の目が開かれて、イエスを見ることができるようにお願いしましょう。

この世の人は、己が持ち物を愛し、自分のことで思い煩う。

私はイエスを愛し、イエスの身を愛す。 

           「みことばの糧」O・ハレスビー より

私たちの生きている目的は、この生きているイエスのそばにいることです。イエスと交わりをすることです。

ハレルヤ! 主に栄光があるように。賛美と誉は主なる神にあり。

 

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癒されるために

2021年10月01日 | キリスト教

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

                 マタイ 22章 39節

私たちクリスチャンは、聖書の言葉について間違いを犯してしまいます。

聖書の文字を守ることがクリスチャン生活だと勘違いします。そうではありません。

クリスチャンが生きる目的は、ことばになって現われている神のご人格に触れることです。

つまり、聖書を文字としてではなく、生きた神のみことばが自分に語りかけていると受け止めることです。

 

イエスは、神を愛し、人を自分のように愛することがたいせつな戒めであると言われました。

人を愛することができない背景には、必ず、人に対する何らかの不信経験が存在しています。

心が傷つけられた経験を持っているために人を信頼することができないのです。

その傷ついた心が癒されるという経験なしに、私たちは人を愛することはできないのです。

なぜなら、人はこの世にあるものによっては傷ついた心が癒されるということがないからです。

心の傷は「愛」によってのみ癒されるのですが、その癒しのプロセスは決して容易なことではありません。

 

「愛する」とは、主体的・自覚的・自発的です。神の確かな愛に支えられているので、人によって傷つくことを恐れないからです。

 

Ⅰヨハネ4:18
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出」すからです。

 

ローマ13:8-10
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、

そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。

愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」。

 

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