マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

喜びたたえよ

2020年03月27日 | キリスト教

「わたしは御力をたたえて歌をささげ/朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。

                 あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。」
           
                     詩編 59編 17節

どんなことがあっても、どんなにつらく、苦しい日々でも、この詩編の記者が心に決めと実行してきたこと、

それは「朝に喜びの歌を」歌うことです。仕事の関係や生活のスタイル、リズムの違いで朝早く起きられない人

も多いと思います。しかし昔から「早起きは三文の得」という言葉があるように、

人々は早起きの利点を感じていたのではないでしょうか。

 

朝はすべてが新鮮で若々さに満ちたとっておきの時間です。また、誰にも邪魔されることのない自分だけの静かな時です。

こんな時に起き出して心から神の力をほめ歌い、喜びの賛美を歌ったらどうでしょう。心そのものが朝のようにすがすがしく若やぐでしょう。そして、心に神の愛や恵みの力があふれてくることでしょう。一日の方向がそれで決まるようなものです。

 

初めは苦しみ、苦悶、苦闘からの祈りから始まりました。けれども最後は賛美で終わっています。

これが苦しむときの祈りです。ヤコブの手紙に、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

(5:13)」との勧めがあります。もう自分は敵に四方を囲まれている、だめだ、と思うとき祈ってください。

いろいろなプレッシャーを受けてどうすればよいか分からなくなったときダビデのように心を広げて祈ってください。

神さまはその祈りに必ず答えてくださいます。

 

神 が良いことをしておられるという信仰がここにあります。ダビデが神が味方であると言った、そこにある恵みです。

私たちは、恵みの福音を信じています。福音に付け足したり、混ぜ物をしたりするのは、

まさに犬のような唾棄すべき存在であり、事実、それは巧妙に教会の中に入り込んできます。

そこには実が結ばれません、偽物だからです。だから、恵みの神であるという告白は大事なの です。 


 

 

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命であり霊である。

2020年03月20日 | キリスト教

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。

      わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

              ヨハネ 6章 63節

これがイエスの言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。

主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。

けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。

イエスの御霊のことばと、人々の肉のことばのすれ違いでした。

イエスは、霊のいのちのことを語られたのに、人々は肉のいのちのことを考えていました。

この世には2つのいのちがあります。御霊のいのちと肉のいのちです。

ローマ8章2節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。

ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則があります。

これに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなっていることをしてくださいます。

いのちの御霊の原理は、私たちがイエス・キリストを信じる時から働きます。

この方を信じることによって、主が与えようとしている力、知恵、知識を知ることができるのです。

 

ここにいるユダヤ人たちのように、多くの人が肉によって神のこと、キリストのこと、

聖書のことを知ろうとしています。どんなにギリシヤ語を学んでも、どんなにヘブライ語を学んでも、

神学の博士号を得ても、神の真理に至りつくことはできないのです。御霊を受けた無学の信徒が、

これら学識ある人々よりも、神の知識について優れています。肉は何の益ももたらさないのです。

 

おまけ …… 。

" 思う一念岩をも通す" という言葉があります。昔々、中国大陸に弓矢に長けた武将がいました。

夕方休息をとっていますと、「虎だ」という声がしたので、彼は弓に矢をひきその虎に放ちました。

「当たった ! 」と誰かが叫びました。おそるおそる近づいてみると、それは虎ではなくて岩だったのです。

しかし、彼の矢は虎と思っていた岩に突き刺さっていたと言います。

信じるということ、確信するということは無限の力を引き出し、ことを成し遂げるのです。

救われると信じることは、救いに通にじます。キリスト・イエスはそのために来られたのです。

 

 

 

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神から遠い人。

2020年03月13日 | キリスト教

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している

           人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」

                    ルカ 18章 9節

自分自身を信じて生きている人たちに向けられたたとえです。

日本人の多くの人が、「私は自分を信じて生きる。」と言いますが、

そのような人がどのような心の状態になっているかを、イエスは次から描かれます。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。

対照的な人物が現われました。

うのぼれ、高ぶっているのがパリサイ人です。そしてイエスは、

このパリサイ人は神から遠いところにあると言われています。高ぶる者は奉仕ができなくなります。

報酬をもらい、あるいはそれ相当の評価を受けるとき、人とは働きやすい者です。

そうした働きも大切ですが、人の目にふれないが、他者のために働く奉仕の生活も大切です。

この奉仕は、神に信頼し、神にのみ期待する信仰と密接にかかわっています。

 

この真理は、聖書の至るところで強調されています。イエスも、いろいろな場面で、

このことを何回も繰り返されました。ペテロは、「神は高ぶる者に敵対し、

へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5:5)」と言われました。

ヤコブも、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

(4:10)」と言いました。こうして、罪人と呼ばれる人のなかに、

へりくだるとは何かを見ることができました。あなたはどうですか、人は自分の力によっては

このようなへりくだりを行うのはできません。神に願って求めてください。

 

 

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まっすぐに

2020年03月06日 | キリスト教

「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。

すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」

                           Ⅰ コリント 9章 22節


人々が救われるために、福音のために、自分の生活習慣を変える柔軟性をパウロは持っていました。

私たちも同じようになりたいですね。

例えば、私たちは、お中元など、人間関係を保つための習慣をしなくてもよい自由が

与えられました。聖書には、義理人情という考えは一切ありません。

すべては神の恵みであり、見かえりを期待しません。けれども、もし私たちが、

未信者の方からお中元を受け取ってばかりでお返しをしなかったら、どうなるでしょうか?

彼らは、私たちが人間関係を重んじない変な人たちと受け止めるでしょう。

そして、これがクリスチャンのあり方か、と思うでしょう。不必要に壁を作ってしまうことになります。

ですから、福音のためにお返しをします。

 

また、情熱をもって一つのことに取り組んでいる人を見ることは素晴らしいことです。

強く、優れた理念のもとに、一つの目的に向かって行動する人こそ真に人と呼ぶに相応しい。

多くのことに手を出す人生は、多数の支流となって、チョロチョロ流れる小川のようであり、

どれ一つ小舟を浮かべる幅もなく、深さもありません。しかし目的を持った人生は、堂々と流れる大河のように、

行き交う船を大洋へと下らせる。精神の上では聖められた愛をもって心を尽くし、

頭脳の面では壮大な天空を思わせるような思想で満たされた人、聖パウロのような人です。

 

ビリピ 4:11-13
「私は、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、

豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、

いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です。」

 

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