マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

なに弁慶 

2023年11月24日 | 日記

「 私は、全き道に心を留めます。いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。

                                                                               私は、正しい心で、自分の家の中を歩みます。」

                             詩編 101編 2節

 

人は自分の家の中でどのように歩むかが大切です。よく 「内面」 と 「外面」 と言いますが、

私自身も含めて、外面は大変良いけれども内面の悪い人が多いのです。( あんたには言われたくないよ。と言われそうですが )

外では明るく優しくにこにこし、謙遜で礼儀正しく思いやりもあるのに、

家の中では我が儘で自分勝手で、ありがとうもおはようも、ごめんなさいの言葉もないと言うことがあるのではないでしょうか。

( 家の中にこそ、本心が出るところはありません)

 

聖書に出てくるノアはいろいろ欠点もあったと思いますが、いつも感心させられる点があります。

神は罪に汚れた世界を大水をもって滅ぼすことをノアの告げ、そして神に信頼する人を助けるために

大きな箱舟をつくらせました。しかし誰一人として悔い改めてその箱舟に入る者はいませんでしたが、

ノアとその妻、三人の息子とその嫁の合計八人は神の命じられたとおり、箱船に入りました。

ノアと言う人が、自分の家の中でどのように歩んできたかがわかります。

 

家庭にこそ安心と信頼とがあり、それによって築かれるのではないでしょうか。

家庭での生活が満足して居れば、二枚舌、二つの顔を持って悩むことがなくなるのではないでしょうか。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祈り

2023年11月17日 | キリスト教

 「 生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。」

                                   詩編 72編 7節

 

これは公正と平和を願う祈りです。 (今この地球全体の願いでもあります。) 

天国のイメージ、神の国のシンボルは、公正と平和だと言うことができると思います。

私たちが国民として願うことも、この社会に公正と平和が行われることでしょう。

要領よくやり、またごり押しをして得をした人もいれば、正直者は馬鹿を見ると言うことも現実です。

ですから、この世に対して公正を求めて行っても限界があります。(今は悪が栄えていますが、神の国ではこの逆です)

しかし神は決して偏り見る方ではありません。今不公平だと思える事にも、

神は必ず公正さをもって結末をつけてくださるのです。

そして「平和」とありますが、聖書ではキリストこそ「平和の君」だと言われています。

このキリストを私たちの心の中に迎える時、どんな中にあっても潤いを与えて平和にさせていただけるのです。


ルカ 19:42
「 もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」

ローマ 3:17                                      
「 彼らは平和の道を知らない。」  

マタイ 3:17
「 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。 」       

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チャンス

2023年11月10日 | キリスト教

「番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」

                                      ルカ 13章 8節

番人は肥やしをやってみるから、もう1年待ってくださいと言いました。さて、いちじくの木はイスラエルの民を表しています。

主人は父なる神、番人はキリストです。神はキリストを遣わされて、さまざまなしるしを彼らの前に示されました。

ここに、『見なさい。三年もの間、やって来ては、・・・・。』 とあります。

神は実がなることを期待てその木を植えられました。が。その木には葉ばかりで実がありませんでした。

この三年という数字、実はイエスの公生涯はこの時点でおおよそ三年が経過していました。

神はその一人子を通して実がなることを期待しておられました。

ここにさばきの遅延と神のあわれみと忍耐とを見ることができます。それはただ主イエスの御業の故なのですが、

それは 「 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。

そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。 」  Ⅱペテロ 3:9 とあるとおりです。

 

さて、信仰生活は悔い改めから始まり、悔い改めの連続です。( ここで悔い改めと反省の違いをしっかりと確認しておく必要があります。) 

しかし多くの場合、葉ばかり ( 反省 ) 茂って悔い改めの実がならないとうことです。しっかりと覚えておきたいことは、

神の審判はこの世でもあり、また永遠の裁きとしてあります。

 

この審判にパスするものは悔い改めて信仰の実を結ぶ者です。イエス・キリストは、私たちがこの実を結ぶことができるよう、

この世に来てくださいました。実を結ばない木について、「 その木を切り倒してしまえ 」 と命じられていますが。

主イエスは 「 今年も、そのままにしておいてください 」 と私たちのために執り成しをしてくださいました。

この 「 もう一年待ってください 」 というイエスの愛を受け入れて悔い改めるのは今です。

 

しかし、神の忍耐にも限度があります。「  もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」ですからこのときこそ、

私たちにとっての最後のチャンスかもしれません。しかしよく覚えていただきたいことは、神が私たちを締め出したのではなく、

私たちが自分自身を徹底的に神から締め出してしまうときが来ることを。

「 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 」 ヨハ ネ 3:19

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高くされるために

2023年11月03日 | キリスト教

 「 なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

                               ルカ 14章 11節

これは、聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。

本当の謙虚さとは、人ではなくキリストを見つめることにあります。

 

ギリシャの無敵の英雄アキレスにも、弱点がありました。彼は敵のパリスにかかとを射られて死にました。

信仰生活の致命的アキレス腱は、自分を高くすると言うことです。ここを狙われると信仰は崩れます。何故でしょうか。

 

まず第一に、神にゆだねることができなくなります。人生には、自分の思いどおりに恵まれる時があり、

恵みも喜びも感じられないときもあります。信仰とはこのようなときにも神に自分の身をゆだねますが、

高ぶる者はこれが出来ません。次に悔い改めが出来なくなります。

自分を高くしている時は、確かに悪いのは他人、正しいのは自分という態度を取っています。

 

ではこの高ぶりから解放されて謙遜になる方法とは。

・ 事実を認めることによって謙遜を与えられます。

それには新約聖書のローマ人への手紙 7章を読み、そこに自分を見つけるということが

自分の本当の姿であることを知るようになります。

 

・ 完全なものとの比較によって謙遜を与えられます。

このことも、ローマ7章を体験して初めて知ることができる恵みの箇所、

そうローマ 8章 で神の賜物によって高ぶりからの解放を体験できるのです。

もし私たちがあらゆる善き生を備えられた主の生涯に、自分の人生を並べてみるなら、

おごりは消え失せ、自己満足は干からびてしまうことでしょう。

   


箴言 25:6~7
 「王の前で横柄にふるまってはならない。身分の高い人のいる所に立ってはならない。

高貴な人の前で下に下げられるよりは、「ここに上って来なさい」と言われるほうがよいからだ。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする