マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

イエスはどこにでもおられる。

2019年09月26日 | キリスト教
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
             
                               ヨハネ 20章 29節

キリストとの出会いで大切なことは、イエスの人間性を見て、神性を信じる信仰です。

イエス・キリストはトマスに「見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」と言われたのです。

グレグリオは「見るものと信じるものは別個のことである。何故なら、人間には神の神性を見ることができないからである、

トマスは一人の人間を見て神を公言した」と言っています。

「私の主、私の神よ」と叫び、トマスの心は愛で満ち溢れ歓喜で生活は一変したのです。

また、キリストは現代に生きる私たち、肉眼で見ることのできない者のために「見ないで信じる人は、幸いである」と言われました。

私たちが、平安を得る方法、喜びを得る方法は、イエスが目に見えるかたちで物理的にいてくださるのではなく、

目に見えないところに存在することを知り、そして、聖霊が私たちに与えられ、聖霊によって、

父なる神との親密な交わりが許されて、さらに、どこにでもイエスがいてくださいます。

伝承によれば、トマスはインドにまで伝道に行ったとある。南インドには「聖トマス教会」があり、

トマスが立てた教会だという伝説が残っている。一番弱いと思われた弟子が、ひとたび復活のイエスに出会うと、

当時としては、地の果てと思われたインドにまで出かけていく。どのような不信仰者であっても、

復活のイエスとの出会いにより、変えられる。復活は、出会った人に命と力を与える出来事なのだ。

トマスは多く罪を犯したから多く赦され、多く赦されたから多く愛したのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宣教の思い。

2019年09月20日 | キリスト教

しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を

宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
                          ルカ 4章 43節

 
群衆は、イエスがいっしょにおられることを強く望みました。イエスがともにおられることによって、

自分たちが自由になることを知っていました。イエスの臨在に、力があり、権威があることを認めたのです。

私たちは、イエスの教えと、わざだけでなく、イエスがともにおられることを認めることによって、

福音を受け取ることができます。いつでもイエスがともにおられることを知っていることが、貧しい者の姿です。

しかし、この個所を読むと、心の優しい親切なイエスなのに、なぜ人の願いを振り切って行ってしまわれたのか、

という疑問が湧いてきます。そして、決然としたイエスの態度にある冷たさのようなものを感じるのですが、

私だけでしょうか…… ? 

わたしたちは、人から温かい、いい人だと言われたいと思っていますし、本当にそうでありたいと思っています。

そして、人に良くしてあげたいと思う心と、私たちの義務というか、使命というものの板挟みになって、

どうしたらよいのか、分からななることもよくあります。

そんなとき、この短い聖書の言葉を考えてみてはどうでしょうか。やはり第一に優先しなければならない事は、

神が私たちにくださった使命や義務を果たすことにあるのではないでしょうか。

イエスはすべての人の救い主です。私たちは、そのように認めているでしょうか。

自分に関係のある人たちだけの救い主ではなく、この地域の人々、この国、

そして世界中の人々の救い主なのです。それが宣教への思いになります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バトンタッチ

2019年09月12日 | キリスト教
しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、
               わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
                         
                                 Ⅱコリント 12章 9節

人の持つ高慢さぐらい始末に負えないものはありません。心が高慢である限り、キリストの救いを受けることはありません。

使徒パウロは「高慢にならないように、私の肉体に一つのとげが与えられた」と語っています。

どのようなとげかはわかりませんが、これさえ良くなればもっと活躍できるのにと思われるものでした。

パウロは祈りましたが、神からの答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である。」でした。

人それぞれ、生まれ育ち、環境の中でこの問題さえなければどんなに良いものかといった一つや二つ持っています。

実は神はそのとげを与えられ、その弱さを通して働かれると教えています。

パウロは「わたしが弱いときこそ、私は強い」という経験をしています。

弱さがキリストにあって恵みとなるというのです。ですから「私は、キリストの力が私をおおうために、

むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」ここは、クリスチャンが試金石とすべき根本的な真理です。

クリスチャンの力は、自分の弱さの中に現われるということです。

私たちは絶えず、神によって、下へ下へと押し込まれる人生を歩むようにされます。

聖書の中の「忍耐」という言葉には、背中に荷物を背負って、腰を曲げてじっとしているという意味があります。

私たちの人生は、このように腰を曲げて下へ下へと降りていくものであると考えてよいでしょう。

神は、私たちの夢、野心、期待がそがれていき、これでもかと言わんばかりに、私たちを低くされます。

バトンを私たちが主にお渡しするのを、主は待っておられるのです。

私たちが降参して、この自分が強いと思っていた分野も、主にお任せしなければならないのだと思ったときに、

初めて主が生きて働いてくださり、この「弱さのうちに完全に働く」という真理がそのとおりになります。

わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」にある「十分である」も、「完全に現れる」も現在形です。

「十分であった」(過去形)でも「十分であるだろう」(未来形)でもなく、常に「十分であり続ける」という現在形です。

また、主の復活の力も「弱さのうちに完全に現われ」続けるのです。

コリントの教会の人々は、パウロの弱さのうちに主の力が完全に現わされていることを知らなかったのです。

そのように考えるならば、確かに「とげ」はサタンの使いでしたが、神の視点からすると、

パウロのとげは神からの贈り物だったと言えるのです。キリストの十字架と復活の恵みが、

そのままパウロにも適用されているのを見るのです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるされるためにゆるそう。

2019年09月06日 | キリスト教
「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』

と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
            
                       ルカ 17章 4節

主の祈りの中で、「私たちに罪を犯すものを、私たちが赦すように、

私たちの罪も赦してください。」と、このように祈ることを求めておられます。

私たちはいったいどのくらい、他の人をゆるしたらいいのでしょうか。

イエスのゆるしについての話を聞く人は、みなそのことに疑問を持ったようです。

マタイの福音書には、「七回どころか七回の七十倍でもゆるしなさい」と記されています。

当然のことですが、七回を七十倍、四百九十回、ではありません。

それはとことんゆるしなさいということです。

この七という数字は聖書の中では大切な数字だと言われています。

一日に七回、とんでもない数なのですが、それは貴い数なのです。

そのような厳しい教えの背後にあるものは、

人は誰も神と他人から赦してもらわなければ生きてはいけないというのが事実です。

何回も罪を犯して、「もう、やりません。」と軽々しく言う人がいます。

その人は、真に悔い改めていないように見えます。けれども、「悔い改めます」と言うのであれば、

行なうのでなく、ただ言葉だけであっても、赦しなさい、とおっしゃっています。

相手が悔い改めますと言えば、私たちは赦すしかないのです。

ひどいことをされることがあります。自分がその人のことを怒ったり、恨んだり、

憎んだりする正当な理由が、いくらでも見つかる場合があります。

けれども、そのようなときでも、イエスは、「赦しなさい。」と言われるのです。

心に留めないで、過ぎ去らせることです。私たちがいつも赦すのだという姿勢を もって接していくことです。

「愛は多くの罪をおおうからです。(1ペテロ 4:8)」とあります

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする