マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

心配しないで

2020年04月24日 | キリスト教

「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、

                 寿命をわずかでも延ばすことができようか。」

                    マタイ 6章 27節 

 

「思い悩むな」という教えは、思慮なく、計画性なく、責任を負わない者であれということではない。

思い悩みから解放されるには、神が人を造られたのだから人に必要なものは与えられるとまず信じることです。

また、神と心配は共存できません。とはいえ、「心配してはなりません」といくら言われても心配してしまう

弱 さが私たちにあります。

 

人間にとって一番大事なものは命だということは誰も異論はないと思います。山のようなお金を手に入れても、

夢のような結婚ができても、死んでしまったら終わりです。では私たちはどうやって命を手に入れたのか、

自分で手に入れた人は誰もいません。命はただ与えられるしかありません。

しかもいつまで自分の命があるのかさえ誰にもわからないのです。私たちは普段から、

自分の力で手に入れたものだけが確かなもので、それが価値があるかのように思いこんで、

有名大学に入ることとか、大企業で出世をすることに人生の意味を求めています。

 

でも、本当はそうではないのです。神が私たちに命を与えてくだされなければ生きられないのです。

そして、神が命を与え生かしてくださっているということだけが、人間の真実な価値であり、

生きている意味であると思います。

 

神を信じて、明日のことを心配せず、今日を精一杯生きなさい。

そして、その日の思い悩みはその日だけにしなさい。思い悩みはその日一日だけでも苦しいのだから、

翌日まで持ち越さないようにしなさいとイエスは教えているのです。

 

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神の家に

2020年04月17日 | キリスト教

「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。

             世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」

          詩編 52編 10節

 

この世の中には、不公平、矛盾、困難、試練が満ちています。怒りたくなるようなこと、

すねたりひがんだりしたくなるようなことが沢山あります。

しかし、目を上に向け、神の深い恵み、神の徹底的な正しさ、きよさを見るなら、

私たちは自分の幸せ、自主性を見出します。神は、こんな小さな私まで愛してくださり、

生かしてくださるのです。この作者は「私は神の家にある生い茂るオリーブの木のようだ」と言っています。

なんという積極的、楽観的な幸せでしょう。私たち人間の幸せの根本は。

神の恵みの中に生きる自分自身を見極めるところから始まるのです。

次に、神を見上げるとき、私たちは自分の使命を見出すのです。

それは、どんな環境の中でも、神の恵みにより頼み感謝し続け、

神の御名をほめたたえ抜くことです。これこそ、神を喜ばせ、人を喜ばせる生き方です。

 

私たちの周りでいろいろなことが起こっても、神の家のこと、

恵みのことは忘れないようにしましょう。すべてのことを主に任せて、

主の慈しみと恵みを考えることにしましょう。シャローム。

 

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父の愛

2020年04月10日 | キリスト教

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、

           手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」

                    ルカ 15章 22節

ここで、雇い人の一人にしてください、と息子が言う前に父親が話し出しました。

ここに、大いなる恵みがあります。私たちがいかに悔い改めたか?とか、

私たちの態度がどれだけ改まったか?とか、そういったことの前に、圧倒的な恵みによって、

愛によって、父親は息子を息子として受け入れ、祝宴を開いたのです。

なんという恵みでしょうか、なんという愛でしょうか!

 

放蕩息子は私たち人間を、父親は神を表しています。放蕩息子がすべてを無くして帰ってきたとき、

この父親は三つのものを準備し息子を迎えました。良い着物、指輪、くつなどみな、息子の資格を示すものです。

しもべは、くつをはく ことはありませんでした。父親は、罪を赦してくれたどころか、

彼を息子の地位にまで戻してしまいました。それだけ、父は彼のことがかわいかったのです。

愛しているのです。私たちの神も同じです。神は私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、

神の子どもという特権を与えてくださいました。神の持っておられる資産を、私たちは受け継ぐことができるのです。

 

何も資格のない者、むしろ罪の報いを受けて然るべき者が、そのまま神の息子 としての祝福を受けることができる、

というのは私たちには決して理解できるものではなく、ただ主 をほめたたえるしかありません。 

ヨハネ1:12
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになっ た。」

エペソ 1:5
「 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私 たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」 

エレミヤ31:34
「わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさない。」と あります。思い起こさないほどの赦しです! 

 

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仕えるということは

2020年04月03日 | 聖書

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者

           の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

                                 マタイ 25章 40節

 

わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、

旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、

牢にいたときに訪ねてくれたからだ。という聖書のみ言葉を実践しましょう。

 

イエスは、神に仕えるということは、人に仕えることであると言っておられるのです。

神は私たちが人生で、日常の人々のふれあいの中で、どのように過ごしてきたのか、その在り方によって、

羊と山羊を分けるように、永遠の生命と、永遠の刑罰を受けるようにされるというのです。

 

王である者が実は最も小さな者といっしょになってくださっています。これは驚くべきことです。

イエスは、天と地にあるすべての権威を持っておられる方です。

そのイエスが、人々からさげすまれるような困窮している者たちといっしょになってくださいます。

私たちは、生活の中でキリストがどのように働かれているか分からなくなるときがありますが、

実は、日常生活の中でキリストに出会っているのです。

ここに「わたしが」「わたしが」とくり返されていることに注目してください。

キリストのさばきの基準は、一人一人がキリストに対して何をなったかに関わっています。

 

 

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