マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

謙遜と高慢

2023年09月30日 | キリスト教

人は謙遜を口にしている時でさえ、高慢な時があります。

 

「 私どもは、自分を見てへり下るのではなく、十字架のあの方を、見てへり下るのである 」 マ―レ
                                               

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」    箴言 18:12

 

「謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。」 箴言 22:4

 

高慢は破滅に先立ちます。そして高慢の現われとして、人の訴えや話を聞かないというものがあります。

自分で勝手に解釈して、自分の都合の良いようにしてしまうことも、「よく聞かない」ことになります。

 

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、

慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」      コロサイ 3:12

 

平和な日々の中で、自己満足、無神論的世界観、物質万能主義の支配する今日この頃です。

この風潮が、私たちの目をくらまして真実を覆い隠しています。もう遅すぎるという前に、今こそ襟を正しましょう。

 

来るべき、神の大審判より救われる、安全地帯は、キリスト・イエスの十字架の贖いの他にはありません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

委ね切って

2023年09月29日 | キリスト教

「 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

                                               マタイ 15章 27節 

自分は神から離れている身分であるが、神はそのような者にもあわれみを施して下さり、恵んでくださるのだ、という事です。

イエス・キリストの奥義をここまで理解することは、私たち人間には難しい事です。

私たちは自分自身を見てしまい、主が与えようとされている祝福をどうしても受け取りません。

「私はだめだから。」と言って、頑固に神の祝福を受け取らないのです。

 

しかし、彼女は娘のために、イエスに取りすがります。だが弟子たちは、この女を野良犬のように追い払うことを主に求めます。

イエスのお答えも「 わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない 」でした。

 

しかし彼女はへこみませんでした。自分を犬呼ばわりされてもつまずきませんでした。彼女には愛がありました、

ベンゲルという人は、「 彼女は子供の苦しみを自分のものと感じていた」と言っております。

彼女は異教徒でありましたが、愛の心を持っていました。

 

弟子たちの態度には、冷たさ、つれなさがあります。しかし主イエスは、ただご自分の使命を示されます。

しかし、彼女は熱心でした。大変しつこくイエスに迫ってきます。ただ図々しく、熱心だったのではありません。

「 パン屑はいただきたい 」と、パン丸ごとではなく、パン屑をと謙遜にお願いしたのです。

 

パンの奇跡においても、パン屑は丁重に集められています。案外パン屑のほうに、豊かな恵みが注がれている場合があります。

イエスのパン屑こそ、恵みの宝庫ではないでしょうか。それは、パン屑をいただく謙虚さが、主のみ心にかなうからです。

単なる熱心ではなく謙虚な熱心さを主は喜ばれ良しとされるのです。

彼女を動かしていたのは、愛です。愛は全ての者のうち、最も神に近いものです。

人は苦しみの中でこそ、まことの愛の神を求めるものです。わたしたちも、熱心に主の恵みを求めながらも、

主よ、おことば通りですと、全てを委ねた信仰を目指しましょう。主はこのような信仰を歩む者を今も求められています。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安心して

2023年09月21日 | キリスト教

「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」

                                マタイ  6章 31節 

「養って下さる神の存在を信じる」時に、人は思いわずらいから解放される。

まことの神を知らない人の特徴というのが、神を知らないがゆえにそういったことに ( 衣食住 ) 心配していると言うのが特徴です。

神は私たちが思い煩うことを喜ばれません。それどころか、嫌われます。なぜなら、神は「天の父」であって、私たちはその子供たちだからです。

親が付いていながら、子供が心配したり、思い煩って落ち込んでいれば、親は悲しむでしょう。信頼されない親ほど、情けないものはありません。

ですから、神は繰り返し「思いわずらうな」と言われるのです。自分の子を養うことが父の大きな喜びなのです。

養われる神がおられる、導かれる神がおられる、支えられる神がおられる、そして成長されてくださる神がおられます。

野の花のように、空の鳥のように、主がなされることに、この身を任せるのです。そうすれば、必ず養ってくださいます。  

                        アーメン。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あなたには何の権利もないのです

2023年09月15日 | キリスト教

「 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

                                   ルカ 6章 41節

別な訳ではこうです。 

「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」

「自分の目に材木が入っているのに、どうしてほかの人の目の中にある、おがくずほどの小さなごみを気にするのでしょう。」

 

私たちは、イエスを見つめることなくして、他の人を見つめることがしばしばあります。

イエスを仰ぎ見た後に他人を見るのではなく、自分自身を見なければいけません。

 

自分のことは棚に上げて人の弱点をとやかく言って裁きがちな私たちに、大切なことを気づかせてくださいました。

私たちはどうしても自分に甘く、他人に対しては厳しくなりがちです。

(私はあなたとは違うという思いと、私は正しいという心がこのような思いにさせます。) 

自分にも同じような弱さがあるのに、人を厳しく糾弾する。主イエスが言いたかったことは、

「あなたが持っている弱さとか、限界とか、そのことをよく考えなさい。他の人もあなたと同じように、

限界とか、弱さを持っているのだよ」 ということではないでしょうか。

決して私たちが審判官のようになって人を批判する権利はありません。最良の人にも欠点があり。

最悪の人にも良い点がある。だから、他の人のあら捜しをすること自体弊害となります。

 

他の人の弱さではなく、自分の弱さを知ったときにこそ、人への優しさが自分の財産となります。

私たちのクリスチャン生活は、あくまでも、神と自分との一対一の関係なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする