マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

寄り添ってくださるイエス。

2019年05月31日 | 日記
 
「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、

あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」
                             ルカ 22章 61節

 
イエス・キリストが徹夜の裁判を受けていた時に、弟子のリーダとも思われているペテはどんな人だったのでしょう。

ペテロがイエスを知らないと三度も拒絶した場面です。人は自分の身に危険を感じますと、

やはり自分を守るためにどんな嘘も、どんな拒絶も、どんな裏切りもすることをまざまざと見せつけられます。

しかし、ぺテロはそのことを読んでおられたイエスの目と視線が合ったとき本当に激しく泣きました。

ここにイエスがペテロを選んだ理由がありそうです。彼は主を否みました。しかし、彼は決して無感覚では

あり ませんでした。ペテロは主の言葉を思い起こしたのです。

そしてその言葉に思いを馳せ たとき、 彼は泣きました 。神の言葉がその心に迫ることのないクリスチャンは

貧しいクリス チャンであり、その名にふさわしくありません。なぜなら神の言葉は私たちの心をきよめ、

また新しくする神の道具だからです。私たちがこのことを覚え、御言葉にその業をなして いただくとき、

私たちがたとえ失敗したとしても、私たちはその中に長くとどまり続けることはないのです。


愛する弟子たちに裏切らながら、愛のまなざしをもってペテロを眺められたイエス。人間関係の全ての裏切りを

身に受けて、十字架に向かわれてイエスを覚えるとき、私たちは神の愛を知り平安に包まれるのです。



ちなみに、イエスを裏切ったイスカリオテのユダは首をくくって死んだ。彼はイエスに絶望し、自分の力で

何とかできると考え、破滅した。ペテロは自分に絶望したが、自分の弱さを泣き、主を求めた。主を求め続ける時、

その悲しみは「救いに通じる悔い改めを生じさせ」、主に背を向ける時、その悲しみは「死をもたらす」のではないでしょうか。


出エジプト34:6
「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富む」

2コリント7:9
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至らせる悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
 
 
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愛の働く機会。

2019年05月24日 | キリスト教
 
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、

       腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」
                       ヨハネ 13章 5節

悪魔がイスカリオテのユダを使って、イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡そうとしています。

このような恐ろしい出来事が起こることをイエスはご存知でしたが、

そのことで心を騒がせたり、恐れたりはされませんでした。

なぜなら、悪魔をふくむ全ての被造物を、父がご自分の手に渡してくださったことを知ったからです。

ご自分には、天にも地にも、いっさいの権威が与えられている事を知られました。


主は、十字架につけられる前の夜、弟子立て地と共に夕食を共にしました。

その席で突然立ち上がり、上着を脱ぎ手ぬぐいを腰にまとわれ、弟子たちの足を洗い始めたのです。

そして、それが終わると弟子たちに言いました。

「主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。」

主は、しつこい程にこれを行うように勧めています。洗足は、相手を自分より高くし、へりくだって仕えていく、

人の言いなりになるのではなく、愛を行うようにと言うことを意味しています。

主は、私たちを愛し、私たちの罪を負い身代わりに十字架で死なれたのです。

最後の時、洗足を通し、仕える者の姿を刻み付け、弟子であるならばこのようにしなければならないと教えられたのです。 
 

ガラテヤ 5:13

「あなたがたは、自由が与えられるために召されたのです。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」


仕えることによって愛が伝わります。命令を出したり、支配したりすることによっては、

愛は伝わりません。そして、イエスが、何一つ弟子たちの手を借りていないことに注意してください。

たらいに水を入れるのも、足を洗うのも、手ぬぐいでふくのも、みなイエスが行なわれました。


 
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わたしが師である。

2019年05月17日 | キリスト教
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
  
 あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
                         ヨハネ 13章 14節
 

わたしがあなたがたにしたとおりに、とあるように、イエスが基準となっています。

自分がイエスから受けたことを他の人に示すのであって、他の人がしたことに自分が反応するのではありません。

純粋にイエスから受けた恵みによって、仕え合い、愛し合うのです。

ですから、これは自分の得にならないような人にも向けられる愛であるし、

自分が知らない人にも向けられる愛であります。このようにして、イエスは模範を残されました。

そのために、神は、神に背を向けたこの世の人間を救うために独り子を遣わされました。

遣わされた神の子、イエス・キリストは、皆に仕えるために来たんだと言われました。

そして、私は道である、真理である、命であると言われています。どんな天変地異があろうとも、

キリストの教えに変わりはない。私たちに新しいいのちを与えてくださる。

滅びることのない永遠の命を与えてくださるのです。私たちは、このイエス・キリストに、

人生の一コマで出合うことが許されるなら、そして、信じるならば救われると聖書は教えています。

どうか、ここに来られる皆様、一度聖書を真剣に読んでみていただきたいのです。


ヨハネ  13:16 ~ 17

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、

遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、

それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。」
 
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回復してくださる。

2019年05月10日 | キリスト教
「 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」
                 ヨハネ 12章 32節

イエスはご自分が引き上げられると話されました。これは天に昇ることではなく、

十字架の木に磔にされて、高く上げられるという意味です。

ここに十字架が神の栄光である理由が書かれています。十字架は、この世をさばくわざです。

この世を支配する者は悪魔ですから、悪魔に下るさばきが、十字架であります。

悪魔はずっと、人を神から切り離していました。

しかし、十字架によって、人は神と一つになることができるのようになったのです。

ですから、悪魔の仕業は、根本的に打ちのめされました。イエスは、十字架の上で、

王として悪魔にさばきを下されたのです。


第二次世界大戦で、ある大きな教会の立派なステンドガラスが、粉々に壊されてしまいました。

ところが、教会の人々はこの粉々になったステン久土ガラスの破片を大きいものも、

小さいものも丹念に拾い集めて取っておきました。戦争が終わって、しばらくして教会の人々は

ステンドガラス制作の名人に頼んで、その大きなそして立派なステンドガラスの復元を頼みました。

大変時間がかかりましたが、そのステンドガラスは元通りに、いやもと以上に美しくよみがえったのでした。

罪を犯して粉々に崩れ去った魂は、人の力ではどうにもなりません。回復の見込みはないのです。

しかし、聖書の中に、救いのわざを完了して天に帰られたイエスは、

「粉々に壊された私たちを手元に集めて回復してくださる」と書いています。
 
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告白して、

2019年05月03日 | キリスト教
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」
                             
                    ロマ 10章 10節

ことばは心の産物です。心にあることが。口のことばとして出るのですから、

しかし、心とことばが対立して、心の思うとおりにことばが出ない事があります。

心の底では、「自分が悪い。神にお詫びして、神のいわれる通りにしょう。

頼ろう、信じよう、従おう」と思うのに、口に出てきません。

そこで、うやむやで割り切れないままに、暗闇を歩き続けるのです。

このことばは、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

と語られています。またエレミヤ書33章3節に「 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、

あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

と言われた神に祈る一言が、新しい人生の糸口になるのではないでしょうか。

但し、わたしたちは、心に受け入れたことを、口によって言い表します。

そして、それ が人前であっても、同じように言い表します。しかし、

イエス・キリストを、自分の人生と生活の主として心にお迎えしないかぎり、

この告白はできません。したがって、ただ、「イエスさまを信じます。」と口で言うだけでは、

その人は救われません。真に御霊によって新生した人は必ず、イエスを主にして生きていく

方向性が与えられます。もし、その人の生活にその後、変化がなければ、

その告白はただ口で唱えただけにしかすぎず、真実な告白では なかったのでしょう。

ですから心からの主イエスへの信頼によって、その人は救われます。

1コリント 12 章 3 節
「聖霊 によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。」とあります。



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