マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

神の顔をを求めない

2016年05月27日 | キリスト教

「  悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。」

「 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。 」

                                     どちらも詩編 10編 4節です。

傲慢な人の哲学

神の存在は否定しないが、神は人の裁き主ではない、また、人間のことには関知しないという信念を持っている。

さて、「憎まれっ子世にはばかる」と言うことばがありますが、ここではそんな悪者の姿を鋭く分析しています。

その根本的姿は、「神を侮る」ところにあると言っています。またその思いは、「神はいない」の一言に尽きるとあります。

聖書にはこう書いています。

「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、

はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 というのは、彼らは、神を知っていながら、

その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」 

                                                                ロマ  1:20 ~21

ですから、「神はいない」というのは、神の顔をを求めない。神を侮っていることなのです。

神を侮ると言うことは必ず、自分の中の美しい、正しい、清い部分を侮ると言うことに通じます。また、人の気持ち、

都合、人格を認めないことにも通じます。悪いことをするから悪者になるのではないのです。

神を侮ることが、人類の諸悪のもと、人を悪者にする根本なのです。

聖書から

「なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。」  詩編 10:13

「 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。・・・・・・ 。善を行なう者はいない。」  詩編 14:1

「 神に逆らう者に罪が語りかけるのが/わたしの心の奥に聞こえる。彼の前に、神への恐れはない。」 詩編 36:2

 

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助ける相手が

2016年05月20日 | キリスト教

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、

彼らをより分け、 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。                                                                                                         マタイ 25章 32~33

 

文豪トルストイが書いている 「 靴屋のマルチン 」 というお話があります。

ある晩イエスが、明日お前に会いに行くと言われました。しかし当のイエスはなかなか姿を見せませんでした。

その日マルチンは、雪かきの老人に暖かいお茶を勧め、幼児を背負って凍えそうになっていた貧しい母親に冬服を与えます。

それでもイエスは姿を見せませんでした。ところがその晩、イエスはマルチンに私は今日お前のところに行ったよと言われ

びっくりします。「 今日してくれたことはみな私にしてくれたことだよ 」 とイエスは言われたのです。

わたしちはこう思うことがあります。「 助ける相手がイエスであったら、私は喜んですべてを投げ出してでも助けたことでしょう。

でも、普通の人だったので、助けなくってもよい 」 と考えたことはありませんでしょうか。

人を助けることについての真理。

まず、目立たない助け、そして、意識しない助け、それらは、イエスを助ける事であり、人をしりぞけることは、

イエスを拒否ししりぞけると言うことです。

聖書から少し

「・・・、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。

その人は決して報いに漏れることはありません。」    マタイ 10:42

 

「そうして、王は、その右にいる者たちに言いますさあ、わたしの父に祝福された人たち。

世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」 マタイ 25:34

 

「 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」 コロサイ 3:23

私たちの信仰が日常生活において実践されることです。信仰と愛とは決して別なものではないからです。

 

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見えないものにこそ

2016年05月13日 | 聖書

「 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。

                 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」

                                                第二コリント 4章 18節

 

さて、「星の王子さま」と言えば、フランスの作家サン・テクジュベリーの書いた有名な童話ですが。

その童話の終わりに近いところで、キツネが、王子さまに秘密を贈り物として、次のように言う所があります。

「なに、何でもないことだよ。心で見えなくちゃ、物事はよく見えないってことさ。肝心なことは、

目に見えないんだよ。」すると王子さまは、この狐の言葉を忘れないようにするため「肝心なことは目に見えない」

と何回も繰り返すのです。確かにこの狐が言うように肝心なことは目に見えません。しかも、大抵の場合、

目に見えるものはお金で買えますが、目に見えないものは、お金では買えません。

やがて消えていくこの世の一時の感覚的なものではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきです。

なぜなら、神の契約や神の恵みには、時間的制約がない。どうしてかて言うと、神は時間を超えた存在だからです。

毎日あくせくと、目に見えるもののみ追い求めるのではなく、目に見えないものに目を注ぐ、心のゆとりが欲しいものです。

聖書から

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」 エレミヤ 31:3

「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」        ロマ 8:25

 

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神の平安が

2016年05月06日 | 聖書

「  神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、・・・・ 。」

                                                                             創世記 1章 27節 

 

今の時代、私たち人間の存在意識が問われているように思います。科学の発達は人間を救ってきました。と言っても

外面的なことで、内面的な事にはまだまだ科学の入る余地はないようですが。しかしいずれにせよ、

科学は人間を幸福にすることが目的であるはずですが、

( ちなみに、科学の子、鉄腕アトムのロボット憲章ではこうあります。 ロボットは人間を幸せにするために生まれたものである。 

ロボットは人間につくすために生まれてきたものである。 ロボットは人を傷つけたり、殺したりしてはならない その他 )

しかし、今やその科学文明が行き詰っています。家庭内暴力や、幼児虐待、働き盛りの人かせ仕事を奪うリストラなど、

人間を否定するものがいかに多いことでしょうか。長年誠実に人たちがリストラのもとに仕事を止めさせられ、

切り捨てられ、自殺者の数がなんと多いことでしょう。このような現実はまさに恐ろしいことです。幸福になりたい、

幸福になった、しかし幸福になってもそれは非常にもろいものです。

私たちは確かな幸福を得たいと願います。この幸福とは、神があなたを創ったという、あなたの価値が神にとって、

貴重なものであると言う事に気づいてゆくことにあるのではないでしょうか。

聖書から

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。・・・・・ 。」  イザヤ 43:4

「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 ピリピ 4:7

 

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