マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

信頼。

2020年09月25日 | キリスト教

「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、

        ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

                 マルコ 6章 8~9節

主が弟子たちを神の働きにのために送り出した時のことばです。

これでは何かがあったらすぐに困ってしまうと思わずにはおれません。

しかし、ここで大切なことは、荷物を沢山持つことではなく、主に信頼を置くということです。

また、どんな苦しいときにもくじけてしまわない心を持っていることではないでしょうか。

そして、弟子たちは、主の力を心の内に、身体の中に、一杯にして出かけたのです。

わたしも、どんな苦しいときにでもくじけない心を持ちたいと思います。

 

主は出かけて行こうとする弟子たちに、何も持って行かないようにと命じられました。

これは、不必要なものを持って行かないということです。

主が導かれれば、そこに備えがあるということです。私たちが新しい領域に神に導かれる時に、

「私にはこれがない」「あれもない」と言って、言い訳してしまいます。

けれども、どんなときにも神に呼ばれて、導かれた時には、自分にそれがなくても、導かれます。

 

伝道の基本がここにある。私たちには神の杖(福音)があればそれでよい。他のものは必要に応じて与えられる。

 

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平和を

2020年09月18日 | キリスト教

「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」

                Ⅰペテロ 3章 11節 

「悪から遠ざかって、善を行ないなさい。 平和な生涯を送りたいと願うなら、

熱心に追い求めて、手に入れなさい。」      同・LIB 訳

 

平和というものは、待っていれば、向こうから自然にやってくるというというものではなく、

また何もしないでも続くというものでもありません。

平和はひたすら追い求め続けなければなりません。

次のような印象深い言葉があります。「平和のためには、戦争をするときの、

二倍の苦労と努力が必要である」戦争を経験した人は、

戦争中の生活がどれほど大変なものであったか思い出されるに違いありません。

でも、平和はその二倍の努力と苦労が必要だというのです。

主は平和を求め続けました。その生涯は苦難の連続で、

ついに十字架につけられ、苦難の極みを味わいつくされました。

その苦難によって平和をもたらせようとされました。

私たちも、平和を願って追い求める努力を惜しんではいけないと思います。

 

1ペテロ 3:15
「善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだから」

1ペテロ 3:20
「善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることだから」

 

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恵みにて

2020年09月11日 | キリスト教

「 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。

   天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、

       正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

                   マタイ 5章45節

 

私たちは、目に見える区別にばかり気を取られます。金持ち、教養のある人、知恵のある人、

力のある人、こんな人ばかりに注目します。そして、お年寄り、弱い人、貧しい人、力のない人、

知恵のない人を見下したり、無視したり、忘れたりしやすいのです。


しかし、死を前にして、神のさばきの前に立って考えるとき、お金や肩書などは何の力もないのです。

すべて神の前には平等です。神の力の前に自分を置いてみた時に、一羽の雀さえ、野の一本の花でさえ、

神の御心によって歌い、美しく咲いています。まして、神に愛されていない人はこの世には一人もいません。

神の恵みにならって上に立つ人は、すべての人に公平な思いやりを持ってほしく思います。

 

主が敵を愛しなさいと言われる根拠が、「天におられるあなたがたの父の子どもになるため」です。

主は山上の垂訓において、天の御国における王なる神を、父であると紹介しておられます。

神の国において、神はもちろん王ですが、その王子になることができるというのが、

福音です。ここで覚えて欲しいことは、私たちが敵を愛したから神の子となるというのではない、

人は何かの行いによって御国の民となる事は出来ないからです。( キリスト教は行いによっての救いはありません。)

 

太陽や雨は、等しく正しい人にもそうでない人にも神は与えておられます。

自然に啓示されている神の恵みは、人との関係においても惜しみなく与えられている、

 

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祈り。

2020年09月04日 | キリスト教

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」

      ルカ 6章 12節

夜を明かして祈られました。人を選ぶ重要な決断をするのに、神から知恵と導きをいただくためです。

この祈りは、ある人々はゲッセマネの祈りの次に重要な祈りであったであろうと言います。

なぜなら、次に主が十二使徒を選ばれるからです。

 

主はよく祈っておられました。短い言葉ですが聖書のあちこちに主の祈る姿が見受けられます。

主の生き方は、父なる神との絶え間ない対話に基づいているのです。

多くの弟子の中から特に十二人を選ばれたのも徹夜して祈られた後のことでした。

 

祈りの重要な第一歩は、まず始めることです。そのまま神がそこにおられることを想像して、

できればそれを感じて、場所も時間も姿勢も問題にしないで心を込めて神のみ前にいることが大切です。

心の落ち着くのを待ってではなく、悲しみで取り乱していたり、喜びで浮き浮きしていたり、

混乱したり空しかったり、今の状況がどうであれ、それが始めるチャンスなのです。

神に自分の生活の真実とありのままの自分をお見せしてそして耳を傾けて聞くのです。

きっと主の心にふれて今の状況を変える力が与えられることでしょう。

ただし、ここで覚えていたいのは、あなたが祈ったからではなく、

あくまでも神のあわれみの故だということを覚えていましょう。

 

 

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